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「それならば、目を閉じてください」
毒を食らわば皿までである。ブラーガは目を閉じて一撃を待った。
そうしてしばらくたったが、頬に来たるべき衝撃はない。そのかわり、かすかな感触がこめかみから耳の後ろにかけて感じられる。
それから、明るい笑声が広がった。
ブラーガは、訝りながら目を開く。
すると目のまえで、こらえきれなくなったようにアベルが笑いだした。
おかしくてしょうがないという雰囲気で、ヴィートとディルク、そしてリオネルやレオンまでもが笑っている。
ベルトランが苦笑しながら、短剣を抜いてブラーガに渡す。
「似合っているぞ、首長殿」
受けとった短剣に己の姿を映したブラーガは、瞳を見開く。
あたたかさの欠片も感じさせない鋭い顔立ちを、一輪の名も知らぬ白い花が優しく彩っている。この世の残虐と暴力のかぎりを具現化したような男にも、花は怯えもせず涼やかな顔で、寄り添っていた。
「…………」
それはだれかの姿を思いおこさせる。
言葉も出ないブラーガに、アベルはほころびはじめの花のように笑む。
「こうしていると悪い人には見えませんね」
「エラルドにも見せてやったらどうだ。印象が変わるだろうな」
ヴィートが笑いながら言った。
皆の笑い声が満ちているなか、新たな笑い声が加わった。花を外そうともせず、低く笑いだしたのはブラーガだった。
……これまでのなにもかもが、ブラーガには馬鹿馬鹿しく感じられた。なにも信じず、だれも愛さず、心を頑なにして孤独に生きてきた「ブラーガ」という男は、今、一輪の花を飾られて、ひどくとぼけた面構えに見える。
自分より強い貴族の青年。
自分のような男の髪に、花を挿す従騎士の少女。
そして、この国の第二王子やら、用心棒やら……。
なにもかもが、新鮮でおもしろい。
この連中といっしょにいれば、生きることに、飽きることはないかもしれない。
「いつから花を隠していたんだ?」
ディルクに問われて、アベルはわずかに申しわけなさそうにヴィートを見た。
「本当は、ヴィートのお見舞いに摘んできたのです。ですが、元気そうだったので、別の使い方をしてしまいました」
えっ、とヴィートは突然、笑うのをやめる。
「アベルが、おれのために? ブラーガ、返せ」
さっとブラーガの頭から花をかすめ取ると、ヴィートはそれをアベルの髪に挿しなおす。
「おれがもらいたいところだけど、やっぱり一番似合うのはここだな」
ヴィートの言葉に反意を唱える者は、ひとりとしてない。
白い花を挿したアベルは、春の花も恥じらうような愛らしさである。
「わ、わたしは花なんて似合いませんから」
「とても綺麗だよ。じゃあ、飲みにいこうか」
恥ずかしげもなく褒め言葉を口にしたのはディルクだった。
幼いころから憧れていた青年から「綺麗だ」と言われたアベルは、耳朶から白い頬や首筋まで、またたくまに朱色に染まる。
どうしてこんなふうに、さらりと「綺麗だ」などと言えるのだろう。こういうときはいつも、ディルクの顔が直視できなくなる。
頬を染めてうつむくアベルの様子を、リオネルだけではなく、ベルトラン、そしてマチアスまでもが、それぞれ複雑な思いで見つめている。
「ほら、見惚れてないで、おまえも行くぞ」
ディルクに背中を押されて、リオネルは半ば強制的に歩かされる。
そんなディルクの背中を、マチアスは蹴ってやりたい衝動に駆られた。アベルの気持ち、そしてリオネルの想い。それらをなにもわかっていない、この能天気な主人を。
「アベル、なにが飲みたい?」
アベルのそばからリオネルがいなくなったので、ヴィートがすかさず話しかける。
「蜂蜜酒を――ですが、そのまえに、この花を外してもいいですか?」
「飲んでいるあいだだけでもつけていてくれないか? 幸せな気持ちになるんだ」
思いのほか真剣に頼んできたので、アベルが返答に迷っていると、
「外したいなら外せばいい」
割りこむように、二人のあいだに入ってきたのはベルトランだった。主人の想い人を、本人の代わりに恋敵から守るため、彼はアベルのすぐ脇に立つ。
ほぼ同じ背丈である長身の二人に挟まれたアベルは、いつもにまして小柄に見える。
その後ろ姿を眺めながら、レオンがぽつりとマチアスにつぶやいた。
「アベルはあれほど華奢だったか? こうして見ると、女性に見える」
「…………」
普段はのんびりしているレオンから発せられた鋭い一言に、マチアスは咄嗟に言葉が出てこない。
すると近くから声がした。
「確かめてみたらどうだ、第二王子」
おまえならなにをやっても罪にならないのだろう、と、皮肉と悪意のこもる視線を投げてよこすのは、むろん山賊の首長ブラーガだ。
だが、皮肉も悪意も、レオンはさらりと受け流す。
「いや、やめておく。シャルムの法に触れるよりも、いらぬことをしてリオネルの怒りに触れることのほうがよほど怖い」
受け流したというよりは、レオンには皮肉に聞こえてさえいなかったのかもしれない。
「おまえの父親は、あいつの父親から王位を奪ったのだろう? 今更あの男のなにを恐れる」
山賊の首長からの問いに、レオンは首をすくめた。
「王位の話はこの際、関係ない。おまえもリオネルの怒ったところを目の当たりにしたのだろう? ならば、わかるのではないか」
「おれは、あいつを怒らせるのが愉しくてしかたがない。おまえの恐れは、理解できない」
はあ、とレオンは溜息をついた。
「マチアス、なぜか癖のある輩ばかりが、リオネルの周りには集まるようだ。おれは疲れる」
「我が主も、そのうちのひとりでしょうか?」
含み笑いでマチアスは尋ねる。
「その筆頭だ」
「ディルク様以外には、思い当たりませんが」
「いや、よく考えてみろ。ベルトランは、口数は少ないが、この世で一番のリオネル崇拝者だ。腕が立つぶん、その信念の強さがおそろしい。逆にヴィートはリオネルに対してやけに敵対心を燃やしているようだし……あとあれだ。婚約者のフェリシエ殿も扱いが面倒くさそうだ。これだけそろっていれば充分だろう」
「なるほど」
妙に納得してマチアスはうなずく。
「そういう意味では、おれもまともではないのかもしれないな……」
諦めたように遠くを見つめるレオンの眼差しは、だが、どこか幸福そうであったので、マチアスは否定も肯定もしなかった。そして、ふと尋ねてみたくなった。
「アベル殿はどうでしょう」
「あの子は、いまどき珍しいくらいまっすぐな魂の持ち主だ。いつまでもその心のままで、リオネルのそばに居てほしい」
魂という言葉がすっと出てくるあたり、哲学者ベネデットが好きなレオンらしい意見だった。
いつまでもリオネルのそばに――。
その言葉が、マチアスには少なからず重く響く。
だが、そんなことに気づきもしないレオンは、真面目な口調で続けた。
「マチアスも、いつまでもディルクのそばに居てくれ。おまえがあいつのもとにいるかぎり、おれはいつでもアベラール邸に足を運ぶことができる」
「もったいないお言葉です」
マチアスが頭を下げたとき、先頭を歩いていたディルクが足を止める。
「そういえば、どこへ行こうか」
「あんなに迷わず歩いていたというのに、決めていなかったのか」
すかさずレオンが呆れ声をあげた。
「リオネルの寝室でいいか」
山賊の首長をリオネルの寝室に入れることに対して、眉をひそめたのはベルトラン。
一方、リオネル自身は涼しい顔だが、用心棒の懸念も察して、別の案を提示した。
「おれの部屋でもかまわないけど、この人数では狭いかもしれない。食堂の横に客間があるが、そこなら広いし、ここからも近い」
「じゃあ、そうしよう」
再び歩きはじめた一行の最後尾で、レオンが溜息をついた。
「この個性的な面々を束ねていくのは容易ではないだろうな。リオネルにしかできないだろう」
レオンのつぶやきに、マチアスはかすかに笑みを浮かべたが、すぐにそれを消した。ふと、思いついたことがあったからだ。
マチアスは、ちらと隣を歩むレオンを見やる。
小さいが複雑な糸の絡まりと、幾重にもからまり、大きくなってしまった糸の塊。どちらも、どこから手をつけてよいかわからぬほどに絡みあっていて、成す術がない。
だが、それはいつか、ほどかなければならぬときがくるのだ。
そのときがきた際、自分にはなにができるのか、また、ここにいるひとりひとりはどう振る舞うべきか、それぞれ問われることになるだろう。
+++
広い食堂内に、談笑する声がざわめきとなって響いている。食欲をそそる匂いが、焼き立ての肉から、湯気とともにたちのぼる。
青年は、部屋中を見渡して、わずかに瞳を細めた。
隣に座していた者がその様子に気がつき、
「どうかしたのか」
と尋ねる。
「いや――」
視線を相手に合わせず、青年は再び堂内を眺めまわし、そして、ひとたび着いた席から腰を浮かせた。
「ちょっと思いだしたことがある」
「は?」
他の諸侯らに「失礼します」と断りながら、青年は食堂から出ていった。
+
二人の若者が最上階の回廊を歩いていた。
ひとりは、すらりとした長身の青年で、いまひとりは、まだ子供のような金髪の少年。
――リオネルとアベルである。
窓の外の景色は、すでにブラーガの瞳の色に染まっている。
遠く、庭園に灯された篝火が織りなす光と影が、回廊の窓に映しだされ、アベルの目の端でかすかに揺れた。
客間から戻る途中のこと。
回廊には、人気がない。
諸侯らの多くは食堂に集まっているので、貴族の寝室が並ぶ最上階は、静かだった。
さきほどまで大勢で集まり、賑やかに葡萄酒や蜂蜜酒などを飲んでいたことが、不思議に思えるくらいに、静寂が二人を支配している。
「疲れただろう」
気遣う声音が、燭台の炎だけが照らす暗い長い回廊の先へ溶けていく。
急に静かな場所に来ても心細さを感じないのは、この人がそばにいるからだ。
「いいえ、楽しかったので、逆に元気になりました」
「――そうか」
なにかを気にするように、リオネルはアベルの横顔を見つめたが、それ以上はなにも口にしない。
その様子に気づき、アベルは明るく笑ってみせた。
「ブラーガは、口を開けばシャルム貴族の悪口ばかりでしたけど」
けっしておしゃべりではない山賊の首長だが、シャルム貴族の悪口となると、口数が多くなるのだ。それがアベルにはおかしい。
ときにブラーガの毒舌とリオネルへの態度は、本気でアベルの神経を逆なでするが、彼の存在自体は、もはやアベルにとっては「敵」ではなかった。
彼女のうちに疼いていた死の痛みは、ブラーガの髪に白い花を添えた瞬間に、きれいに消え去ったのだ。
そのことを伝えようとするアベルの気持ちを、リオネルは敏感に感じ取る。
「悪口を言うほど、彼にとってシャルムの貴族は、なにか気になる存在なんだろうね」
「アンセルミ公国の貴族の末裔だからでしょうか」
素朴なアベルの疑問に、リオネルは真顔でうなずく。
「彼はおそらくアンセルミ貴族だった誇りを忘れていない。だからこそ、彼がヴィートに対して抱いている思いは、ただの幼馴染というだけではないのだろう」
「どのような思いですか?」
「憧れというか、敬服というか――なんだろう、うまく言えないけれど」
リオネルはふとブリアン子爵と交わした会話を思い出した。
彼は自身の経験から、アベルが女性であることを見抜いた。
今なら、経験から見抜くことができるというその感覚、そして、それをどう説明してよいかわからぬということの意味が、理解できる気がする。
けっして恭しくないにも関わらず、ブラーガがヴィートに接する態度には、ベルトランやアベルをはじめ、忠実な臣下がリオネルに向ける熱い感情に似通うなにかを感じさせる。それは、普段からそれを感じているリオネルだからこそ気がつくのであって、他の者には容易に感じとることはできないだろう。
「リオネル様のおっしゃること、なんとなくわかる気もします」
笑顔で答えるアベルだが、それが本心なのか、もしくは話を合わせただけなのか、リオネルには、はっきりとはわからなかった。
本心であれば、それはアベルの過去の立場を物語るひとつの真実に他ならない。
アベルはおそらく、貴族、もしくは裕福な商家の娘であろう。そのことに、リオネルは出会ってまもなくのころから気がついている。
リオネルの言うことが本当にわかるのであれば、それは過去の経験からくるものに違いない。
そのような身分の娘が、なぜ十三歳という幼さで身ごもり、路頭に迷っていたのか……。
いつもは考えないようにしている疑問が、今、どうしても頭をよぎる。
出会ったばかりのアベルは、心も身体も痛々しいまでに傷つき、疲れ果て、だれも信じられぬ孤独な瞳をしていた。そしてまるで、あたたかい母親の温もりのなかから、突如、凍える大地に放りだされてしまった子猫のように、なにかにひどく怯えていた。
あのころのアベルを思いだすと、リオネルの心は痛む。
純粋で気が強く、それなのに、泣き虫で不器用で……本当はだれよりも優しい。
そんなアベルを苦しめた過去を想像することは、辛いことである。
深い考えに沈みそうになって、リオネルは軽くかぶりを振る。
どんな過去があったにせよ、これから先は、いつだって笑っていてほしい。
――幸せであってほしい。
「ヴィートは、騎士道について熱く語っていたね。騎士道的精神とはなにか、レオンに滔々と語っていたのはおかしかった」
恋する相手の笑顔が見たくてリオネルがそう言うと、心に思いうかべるよりも幾倍も愛らしい笑顔が返ってくる。
「なんだか独自の騎士道でしたね。ディルク様に幾度も茶々を入れられ、そのたびに必死に説明する姿が笑えました」
「ディルクも黙って聞いてやればいいものを」
「意外と真剣に聞いてあげているのは、ブラーガなんですよね」
二人は先程までの様子を思いだして笑った。
他愛のない話をしながらアベルの寝室に辿りつくと、リオネルは室内に不審な気配がないかどうかだけを確認し、扉のまえで別れを告げる。
体調が万全ではないアベルを寝室まで送るためにここまで来たが、リオネルは、諸侯らの集まる食堂へ足を運ばねばならない。
今日はこのまま休むように、そう言いおいて立ち去ろうとしたときだった。
「リオネル殿」
低い声が聞こえた。
二人は、はっとして声のほうへ顔を向ける。
なぜその気配に気がつかなかったのか、相手はすぐ近くに立っていた。
青白く乾燥した肌がぼうっと蝋燭の火に照らされて浮かびあがり、落ちくぼんだ双眸が異様なほどに光りを放つそのさまは、幼いころに読んだ童話に登場する幽霊のようだと、アベルは思った。
「クヴルール男爵」
やや驚いたようにリオネルは名を呼んだ。
彼は、気配を消していたのだろうか。この老いた男からは、気配どころか、生気さえも感じられない。気配を感じなかったのは、そのせいなのか。
愛娘ロジーヌが無事に救出されたものの、山賊の首長に、純潔のみならず、心までも奪われていたのだから、彼が絶望したのも無理はない。
クヴルール男爵は気の毒なほど痩せた身体を折り曲げ、深々とリオネルに頭を下げた。
「このような忙しい時分にお話しさせていただくことをお許しください。娘ロジーヌが無事に戻ったことの御礼を、リオネル様に申しあげたく参りました」
頭を下げる男爵をまえに、二人は顔を見合わせる。
リオネルがアベルに小さくうなずいた。部屋に戻るようにという意味だ。
わずかに躊躇いを見せるアベルに、深い紫色の瞳が優しくほほえむ。
しかたなくアベルは部屋に入り、扉を閉めた。――ああいう顔をするときのリオネルは、絶対に考えを曲げないからだ。
アベルが部屋に入ったことを確認すると、
「こんなところでは落ち着きませんので、どうぞ私の部屋へ」
リオネルの提案に、クヴルール男爵は垂れていた頭をさらに低くした。
扉を閉めたアベルは、寝台へ向う。
しかし、なんだか落ち着かず、寝台で横にならずにただ布団のうえに座っていた。
なにかが引っかかった。
リオネルのことが心配なのだ。
クヴルール男爵は、国王派貴族ではあるが、けっして優れた剣の使い手ではないし、度重なる不幸により窶れ果て、つまらぬことを企むような余裕もないはずだ。
万が一、クヴルール男爵が悪意を秘めていて、リオネルに剣を向けたとしても、リオネルが負けるはずがない。それもラロシュ邸の館内である。
なにか騒ぎがあればすぐに兵士が駆けつけるだろう。
……だが。
リオネルは今、ひとりである。
ディルクとレオンは先に食堂へ向かいベルトランはブラーガを、マチアスはヴィートを、それぞれの部屋まで連れていっている。
アベルは胸騒ぎがした。
彼の身になにかあったとき、今の自分の身体で、どれだけのことができるかはわからない。むしろ足手まといになるかもしれない。
それでもアベルは寝台から立ちあがった。
リオネルの無事を確認しなければ、眠れそうになかったからだ。