120
それは想像していなかった再会だった。
ヴィートの部屋に向かう途中、地上階の回廊で三人の前に現れたのは、ヴィートではない山賊の姿だった。
アベルは己の足がかたまって動けなくなるのを感じた。
それは恐怖からではない。心に残る傷というほうが、正しいだろう。彼の姿を見た瞬間、首に痛みを感じ、呼吸が苦しくなるような感覚に陥った。
胸に手をあてて苦しげに呼吸する様子に気がついたリオネルは、アベルの背中をさするように触れながら、回廊の真ん中に立つ相手を見据えた。
「ここでなにをしている」
ブラーガだった。
医者から安静を申し渡されている身体である。
それも、部屋から出てよいなどという許可をリオネルは出していない。
実はブラーガは、リオネルに忠誠を誓ったわけではなかった。
世間からとやかく言われないようにするために、忠誠を誓ったことにしただけである。貴族側に忠誠を誓っていないとなると、貴族から平民まで、多くの人々は山賊であった彼らを恐れ、いらぬ混乱と軋轢を生む可能性がある。それを避けるための方便であった。
つまり、二人は主従という関係ではない。
だが、リオネルとブラーガのあいだでは、取り決めが交わされていた。ブラーガはリオネルの要求を呑んだ――ひとつだけ条件をつけて。
その結果ブラーガの監視はゆるくなったわけだが、彼の部屋に目付け役の兵士を数人残していたはずだった。
彼らはいったいどうなったのか。
アベルをちらと見てから、視線をリオネルに戻して、ブラーガは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そこにいる子供を殺しにきたわけじゃない」
眉を寄せたリオネルは、アベルに不安を与えぬように肩を抱く手に力をこめる。
その様子を冷ややかに眺めつつ、ブラーガは負傷しているとは思えぬ足取りで、距離を縮めてきた。
窓から射しこむ昼下がりの光の絨毯のうえに、ブラーガの影が黒い染みをつくる。
「暇だから、部屋を出ただけのことだ」
「どうやって出てきた」
「少しばかり兵士らの気を失わせてきた。あれくらいの人数で、おれを監視できるとでも思っていたのか」
「…………」
「ひとり、おまえに仕える家臣だけはてこずったが……。あれくらいの抵抗がなければ、おもしろくもない」
話を聞きながらベルトランは軽く舌打ちをした。
てこずったという相手は、ベルリオーズ家に仕える騎士ダミアンのことであろう。ディルクを監視から外したことは失策であったと、ベルトランは悟った。
「殺してはいない。……約束は守る」
ブラーガとリオネルのあいだで交わされた約束。
むやみに人を殺さないというのは、そのうちのひとつだった。
「それで、どこへいくつもりだったんだ」
「なにかおもしろいことがないかと思っただけだが――」
三人の目前まで来たブラーガは、足を止め、目を細めた。
「実際、おもしろいものに出会えたようだ」
「部屋に戻ってもらおう」
「せっかく愛しい姫君に再会できたのに?」
「この人が女性であることは、安易に口にしないようにと言ったはずだ」
「ほかにだれもいないなら、かまわないだろう? それに――」
ブラーガは小馬鹿にしたように喉の奥で笑った。
「そんなやせ細った身体では、だれも女などと思わないだろう」
リオネルがなにか言うよりまえに、顔を真っ赤にして、声を張り上げたのはアベル本人である。
「女と思われなくて、結構ですから!」
ブラーガの手から助けられたとき襟元がゆるんでいたということは、アベルもあとから聞かされて知っていた。だれがやったのか、疑う余地もないことである。
目のまえの男に女性と知られたうえに馬鹿にされたのだと思うと、痛みの記憶や、呼吸の苦しさなど、一瞬にして吹き飛んでいた。
「腕が悪いわりには、威勢だけはいいな」
今度は剣の腕を否定され、アベルは押し黙る。
自分は、この男に完全なる敗北を喫した。
他にどんな取り柄がなくとも、剣や弓をはじめ、身体を動かすことにだけは自信があったのに。なにも言えなくなってしまう。
身体も貧弱で、腕も悪い。……アベルは自分が、女としても、男としても、ひどく中途半端な存在であるような気がした。
すると、すぐそばから美声が響く。
「アベルの身体は均衡がとれていてとても綺麗だ。それに、剣の腕は多くの騎士より優れている。二度とそのようなことを口にするな」
怒っている。
絶えずそばにいるアベルでさえも滅多に見ることのないリオネルの怒りに、驚いて横を向く。
だが、ブラーガはリオネルの怒気にも、ひるむ様子はなかった。
「『多くの騎士』というのは、おまえに仕える者のことか? よほどたいしたことないのだな。これしきの者より劣るとは」
自分のみならず、ベルリオーズ家の騎士まで嘲るような態度に、アベルは我慢できなくなり言い返そうと口を開きかける。けれどそんなアベルに対しリオネルは「相手にしなくていい」と、静かに首を振った。
「このような痩せた山猫のよう女が美しいとは、おまえは女という生き物をほとんど見たことがないとみえる」
言いたい放題の相手に対してアベルの怒りはますます膨れ上がっていくが、リオネルは一度だけ言い返してからは、いたって冷静な態度だ。ブラーガはこちらが腹を立てることを愉しんでいる――リオネルはそのことに気がついていたのである。
突然声がした。
「何千人の女を見たって、アベルより美しい人はいないぞ、ブラーガ」
皆が視線を向けた先、眩しいほどに日差しが注ぎこむ回廊の先にいたのは、こちらから会いにいくはずの相手だった。
「ヴィート……!」
アベルは目を見開く。
自分が傷つけた相手が、廊下の先から歩んでくる。
負わせた傷は、軽くはなかったはず。動いてよいのだろうか、傷口が開いたりしないだろうかと、アベルは不安になる。
けれどヴィートは足取りもたしかに、平然と歩いていた。
「今度アベルを傷つけたら、おれがおまえにとどめをさしてやる」
追い越したブラーガに対して冗談ともつかぬ声で言い捨てると、ヴィートは迷わずアベルのもとに歩み寄る。
けれど、なにを言ってよいのかわからないのか、ヴィートがためらい、黙していると、ベルトランが不審そうに声を発した。
「どうしておまえまでがここにいる」
ヴィートは面倒くさそうに、
「……部屋を見に行ったらブラーガがいないから、悪さをしていないか確かめにきたんだ」
と答えると、まっすぐ顔を上げて、意を決したように一歩前に進み、アベルの目前へ。
「そうしたら、アベルに会えた」
背の高いヴィートが動いたせいだろうか、かすかに甘い花の香りがした。
アベルとヴィートの視線がからみあう。
「アベル、意識が戻って本当によかった――」
両手をかたく握りしめながら、ヴィートはうつむいた。本当は力のかぎりアベルを抱きしめたかったが、遠慮とためらい、そして彼のうちにある自責の念から、そうすることができない。
「おれのせいでひどい目にあわせてしまった。謝らなければならないことが多すぎて、なにから話せばわからないくらいだ」
いったん言葉を区切ってから、痛みを噛みしめるようにヴィートは続けた。
「意識が戻ったと聞いた日から、どんな顔できみに会えばいいのかわからなかった。きみに会えるような立場じゃないかもしれない。でも、きみが無事でよかったと、どうしてもそれだけは伝えたいと思っていたんだ」
言葉を聞く水色の瞳に、透明な水の膜が張る。
顔を上げたヴィートの瞳に恋しい相手の潤んだ瞳が映り、はっとする。それは、ひとことでは言いあらわせぬ感情を宿していていた。
澄んだ泉のような双眸で、アベルはヴィートを見上げた。
「リオネル様に剣を向け、傷つけようとしたこと、けっして赦しません」
その言葉にヴィートは視線を伏せ、リオネルは瞳をわずかに大きくする。
「これから先、再びこのようなことがあれば、わたしはあなたを心から憎み、なにに代えても必ずリオネル様をお守りします」
ヴィートは唇を噛む。
憎しみ。
そう、アベルの瞳には、リオネルの命を奪おうとしたことへの憎しみが、こめられていた。
だが、違う。それだけではない。言葉をつむぐアベルは、ヴィートよりもさらに苦しげだった。
「ですが……本当はあなたを、失いたくなかったのです」
アベルの瞳から、耐えきれなくなった涙が、ぽつりとこぼれ落ちる。
頬に伝った涙が、白磁の肌に一本の軌跡をつくった。
「……失いたくないのです」
ヴィートの身体に剣を突き刺したその感覚が、繰り返しアベルの心を苛む。
それは、どんな理由があったにせよ、アベルの犯した罪そのもの。
――なぜなら。
「あなたは、わたしのためにあたたかいご飯をつくり、毛布をかけてくれて、危険をいとわず命を救ってくれて――」
この世の中で、自分にそんなふうにしてくれる人が、どれだけいるだろう。
見ず知らずの者に対し、人間という生き物がどれほど無関心かつ冷酷になれるものか、アベルはデュノア邸を追い出されてからの生活で思い知っていた。
そんななか、ヴィートのような人間がいるということが、いかばかりかアベルに生きる希望を与えてくれただろう。
「とても、とても大切な人なのに、わたしは……わたしは――」
この手にかけようとした。
リオネルを守りたかった。ただそれだけなのに。
大切なものを、自分の手で傷つけてしまった。
「すまなかった、アベル――」
どうしようもない罪悪感を覚え、ヴィートは、はたはたと涙をこぼすアベルに手を伸ばし、その胸に抱きしめた。
アベルをこんなに苦しめたのは、ほかでもない自分だということを痛感する。
――彼女の手で死にたかったなどというのは、おまえの身勝手な考えだ。
――それがどれほど彼女を傷つけるか、冷静になればわかるはずだ。
あのときのリオネルの言葉は、まぎれもない真実だったのだ。
なんとひどいことを、自分はアベルにさせてしまったのだろう。
ヴィートの腕のなかで、アベルは小さく謝罪した。
ごめんなさい、と。
リオネルを傷つけようとする者を赦さぬという気持ちと、大切な者を自分の手で傷つけたという罪悪感。ヴィートの胸にすっぽり収まって余りあるアベルの小さな身体には、その二つの感情が混在し、心を苦しめていたに違いない。
「本当に悪かった……赦してくれ。きみを傷つけてばかりで、おれには結婚を申しこむ資格なんてなかったのかもしれない。……だけどせめて、きみを苦しめたことだけは赦してくれないか。そうじゃなければ、おれはこのさき生きていけない」
おおげさな言いぶりに呆れ顔なのはベルトランで、リオネルは、感情の読めぬ横顔で二人を見つめている。
一方、ブラーガは冷めた表情である。だが、その瞳には不思議な温かさが宿っていた。それは、ヴィートへ向けられたもの。
いつか愛する貴婦人に出会い、その人のために生きる。繰り返し聞かされていた夢物語は、ただの夢物語だけで終わらなかった。
ヴィートは、夢を忘れなかった。
あんなにいじめられて弱々しかった少年のころの夢を、ずっと胸に抱いたまま育ったのだ。今はブラーガを超えるほど図体は大きくなり、多くの仲間に負けぬほど強くなったというのに。
深いところでいつまでも変わらぬヴィートが、ブラーガにとっては、世界で最も面倒でありながら、唯一心を許せる存在でもあった。
ヴィートの腕のなかで顔を上げたアベルは、真剣な口調で言った。
「それならば、あなたが先にわたしを赦してくれませんか? そうすれば、あなたが負い目に思っていることを、わたしは赦します」
そして最後に、涙をためた瞳が微笑をたたえる。
「これで、おあいこですよね?」
何度も「おあいこ」で赦しあってきた。
最後にもう一度、赦しあいたい。
はっとしたヴィートの顔が、次の瞬間、なんとも言えぬ表情になる。
「アベル……! ありがとう」
幾度もヴィートは、ありがとう、とつぶやいた。
彼の救われた様子に、ふっとリオネルも口元をゆるめる。
アベルがヴィートに抱きしめられているのを見るのは、辛くないわけではない。けれど、二人ともが笑顔になったことが、リオネルにとってはけっして嫌なことではなかった。
「ところで、あなたはもう歩いても大丈夫なのですか?」
ふとそのことに思い当り、アベルは相手の瞳をのぞきこむように問う。
「きみから受けた怪我なんて痛くもかゆくもないぞ」
アベルが訝るような面持ちになると、
「本当に怪我の治癒は早いようだよ?」
突然、聞き慣れた明るい声がして、皆が視線を向けた先にいたのは……。
「だからアベル、こいつの身体のことは気にする必要はない」
淡い茶色の瞳が、人懐こい笑みをたたえている。
「ディルク様」
庭園から遅れて戻ってきたディルクは、ちらとブラーガを見やって苦笑する。
「首長殿もずいぶん元気そうで」
「ラ・セルネに住む者は皆、傷の治りが早いのか? それともアンセルミ公国の血を引くとそうなるのか」
冗談に聞こえなくもないが、いたって真面目に不思議がっているのはレオンだ。
「怪我した直後の処置がよかったからじゃないのか」
これまた真面目に返したディルクは、視線をリオネルへ向ける。
「こんなところで集まって、なにをしているんだ?」
「べつに集まるつもりはなかったんだけど」
「へえ……」
ブラーガと、ヴィート。そして、リオネルやレオンを見まわして、ディルクはしばし考えこんでから提案した。
「どこかで座って、なにか飲まないか?」
「全員で?」
まっさきに驚きの声を発したのは、レオンだ。
……ブラーガに首を絞められたアベル。
リオネルに命を奪われかけた、山賊の首長ブラーガ。
復讐のためにリオネルに剣を向け、アベルに刺されたヴィート。
けっして穏やかではない関係の面々である。
「せっかくおもしろい顔ぶれがそろっているから」
「おもしろい、というか……」
レオンはちらとリオネルを見やる。
他の者はどうであれ、大切な従騎士のアベルと、危害を加えた張本人であるブラーガを、この男が同席させるとは思えなかったからだ。
そう思ったのはレオンだけではなかったらしく、ベルトランやマチアスも意向を汲もうとするようにリオネルへ視線を向けた。
だが、リオネルが声を発するまえに、ヴィートが「いいじゃないか」と顔を輝かせる。
「ブラーガがアベルに謝罪する、いい機会だ」
そんなことを思いつくのはヴィートぐらいだろう。
彼にとっては、アベルを傷つけたことそれ自体は赦せなくても、幼馴染みであり、肉親のような存在のブラーガその人を憎むことはできない。であれば、ブラーガにきちんと謝罪をさせ、アベルと仲良くしてもらうのが最も望ましいのだ。
「ヴィートの意見には、少なからず個人的な思惑があるようだけど」
と前置きしてから、ディルクは全員に対して言った。
「いろいろなことがあったけど、ブラーガもヴィートも山賊から足を洗い、我々と和解したうえで取り決めを結んだんだ。これからは、協力しあっていかなければならない、そうだろう? ならば、皆で同じ卓を囲むところから始めてみないか」
「今ここで始めなくてもいいのではないか」
気乗りしない様子のレオンに、
「いつかは始めなければならない。それなら、早いほうがいいじゃないか」
とディルクは明るく答える。
彼の従者は、無言であった。
しばらくの沈黙の末に、リオネルは組んでいた腕をほどいた。
「たしかに早いほうがいい。集まるのはかまわない。けれど――」
言葉を切ってから、アベルへ視線を移す。
「アベルは無理をしなくていい」
あいもかわらずアベルには甘すぎるほどの親友に、ディルクは苦笑する。
「おまえの気持ちはわかるよ、リオネル。だけど、アベルとブラーガのあいだにしこりが残ったままでは、おまえとブラーガのあいだにも完全な信頼関係が生まれることはない。それでは、今回の成果は半分しかないのと同じだ」
厳しいディルクの物言いに、リオネルはきっぱりと言い返した。
「アベルが負った傷は身体だけではない。死の恐怖を味わった心の傷が癒えるには、時間がかかる。まだ癒えないうちに傷口をえぐるような真似をしたら、むしろしこりは消えなくなるだろう」
それに――、とリオネルは言葉を続ける。
「おれは、信頼関係が一両日中に築けるものだとは思っていない。互いに時間をかけて関係を築けばいい」
黙したディルクの代わりに、ヴィートがその先を引き受ける。
「わかった。アベルが無理をしないほうがいいというのは、おれも賛同する。だけどせめてブラーガ、おまえはこの場でアベルに一度頭を下げるんだ。当時は敵同士であったにしろ、今は仲間なんだ。相手に恐怖心を植えつけたままでは先に進まないだろう」
するとブラーガは鼻で笑った。
「首を絞めたことは謝罪しないが、確認のために身体を見たことは謝ってやってもいい」
「身体を見た?」
なんのことだ、と眉を寄せたヴィートは、これに関して事情を知らぬようである。
「アベル、部屋に戻ろう」
落ち着きはらった態度で、リオネルがアベルを促す。この山賊の首長であった男が、なにを目的にそう言ったのか容易に想像がついたからだ。
だが、アベルは首を横に振った。
「アベル?」
驚くリオネルに、アベルは笑って見せる。
「では謝っていただきます」
リオネルやヴィートの元から離れ、アベルはブラーガの目前まで歩み寄った。
己の主人が心配していることは知っている。
それでもアベルはブラーガを見上げて、言い放った。
「謝ってください」
不敵な態度のアベルをおもしろそうに眺めやってから、ブラーガは皮肉っぽい声音で、
「悪かったな」
と、形ばかりの謝罪をした。
そんなブラーガへ、すかさず返されたのは意外な一言で。
「その言葉に偽りがないなら、一度、あなたの頬を打たせてください。それで赦します」
ブラーガ以外の皆が目を丸くする。
「おれの言葉に偽りがあったらどうする?」
ためすようにブラーガが問うと、アベルは真剣な眼差しで答えた。
「ここで叶わずとも、いつか必ずあなたを一発殴ります」
声をたてずにブラーガは笑う。そして、言った。
「いいだろう、謝罪したからには、おまえの要求を呑んでやる」
「けっして抵抗しないと約束しますか?」
「ああ」
「それならば、目を閉じてください」