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馬車がベルリオーズ本邸の正門をくぐり、堀に渡された橋のうえを通って館の前庭に停まると、リオネルとベルトランは馬車を降りた。
しんしんと雪が降っている。
雪が舞うなか、意識のないアベルを抱いてリオネルが館の玄関に向かう後ろ姿は、ベルトランに二年前の冬のことを思い起こさせた。
サン・オーヴァンの街なかで助けたアベルを、リオネルはあの日も、壊れかけの硝子細工を抱えるようにしてベルリオーズ家別邸に戻ったのだ。
その記憶が、目の前の光景に重なる。
二人が玄関をくぐると、使用人や女中、執事のオリヴィエ、そして元従者のジュストらが総勢で二人を出迎える。
公爵家の若い嫡男が、四年間の従騎士生活を終え、騎士叙勲を経て館に戻ってきたのである。皆が喜びと誇りにあふれた表情だった。
しかし、彼らが一様に驚かされたのは、跡取りの青年の腕に、ぐったりした少年が抱かれていたことだった。
顔は見えないが、少年の身体は細く、後ろで束ねられた髪は見たこともないような美しい金色である。
最初に声をかけたのは、執事のオリヴィエだ。
「リオネル様、お帰りなさいませ。長旅、お疲れさまでございました」
「ああ、オリヴィエ。久しぶり」
幼いころから変わらない、いつもどおりの笑顔をリオネルはオリヴィエに返す。
「叙勲につきましては、心からお喜びとお祝いを申しあげます」
「ありがとう。おれもついに騎士になることができたよ」
「旅は、全てつつがなく……?」
ベルリオーズ家本邸の執事は、歳は四十代後半といったところで、王都別邸の執事であるジェルマンよりも若く、そして筋骨逞しいので、使用人というよりは騎士に近いような風情だった。
オリヴィエはリオネルの腕のなかの少年に視線を向けながら、旅の様子を問う。
その意味を解して、リオネルは曖昧にほほえんだ。
「うん、まあ、いろいろあってね」
「旅の途中、我々は刺客に襲われた」
リオネルの代わりに説明したのはベルトランだった。
「詳しくはあとで話すが、今回は特に盛大なもてなしだった」
「なんと、さようでございましたか……」
オリヴィエは険しい表情で声を低める。
「よくぞご無事で。お怪我などはございませんか」
「ディルクやマチアスもいたから、苦戦せずにすんだよ。ただ、そのときの立ち回りで、この子が体調を崩した。早く寝台で休ませてあげたい」
オリヴィエは金髪の少年を見て、それからリオネルを見た。
「この方は……」
「ベルトランの従騎士のアベルだ。彼の部屋は用意してあるか?」
「はい、お手紙で承っておりましたとおりに」
「連れていくから、暖炉の用意を」
そのとき、ジュストがさっとリオネルとベルトランの前に出て、一礼した。
「お帰りなさいませ、リオネル様、ベルトラン様。その者は、私が運びますので、どうぞお二人はおくつろぎください」
「ジュスト、久しぶりだ。この子はおれが運ぶから大丈夫だよ。ありがとう」
リオネルが丁寧に断ると、ジュストは信じられないという面持ちになった。まさかベルリオーズ公爵家の跡取りともあろう者が、家来を抱きかかえて部屋まで運ぶなどとは、思いもしなかったからだろう。
「リオネル様……しかし、せめてベルトラン様か、他の使用人の者にお任せになってはいかかでしょう」
ジュストは食い下がったが、リオネルは頷かなかった。
「いいんだ、重くないから」
そういう問題ではなかったが、ジュストの立場では、主人の言うことにこれ以上反論できない。
リオネルが少年を腕に抱え、大階段を上っていくのを、使用人やメイドらは深々と腰を折りながら見送る。
「お手紙にありましたとおり、館の最上階の……リオネル様のご寝室のお隣りにお部屋をご用意させていただきました」
オリヴィエは重厚な扉を開けて、リオネルを館内へうながす。
その後ろにベルトラン、ジュスト、そして使用人とメイドが二人ずつ続いた。
本邸の最上階にある部屋は、別邸と同じく、通常ならベルリオーズ家の者か、その親族、あるいは賓客のみが使用できる場所である。そこをアベルに使わせるのは、リオネルの近くで警護をするためという口実をつけてのことだったが、実際にはリオネル自身が常にアベルを目の届く範囲に置いておきたかったからだ。
もう片側の隣室は、ベルトランが使用している。彼は、リオネルの警護役であると同時に、貴族であり、遠縁にもあたるので、それは至極当然のことだった。
けれど身に余る待遇を受けるアベルに対しては、快く思わない者もいる。
その一人はジュストだった。
ジュストは従姉妹のライラに知らせるために、別邸の使用人から、リオネル自身のことや彼の周囲のことを手紙などで聞いていたが、ライラやフェリシエたちと理由は異なれども、結果的には同様にアベルのことをおもしろくなく思っていた。
自分のほうが長くリオネルに仕えてきている。それなのに突如、王都の別邸に現れ、リオネルに気に入られているという、自分と同年齢ほどの少年など好きになれるはずがない。
それにジュストは、ベルトランの騎士見習いになることを長らく希望していたが、ベルトラン本人に断られた。その結果、リオネルの口添えで、ベルリオーズ家の騎士隊長であるクロードの騎士見習いになった。そして、今は彼の従騎士だ。
それなのに、自分より後から志願したはずのアベルが、ベルトランの騎士見習いになったと知ったときは、思わず手紙を引き裂きそうになるほどの嫉妬と怒りを覚えた。
それが今度は、怪我だか病気だかしらないが、リオネル本人がその少年を抱きかかえて連れてきたのである。そのうえ少年の部屋が、最上階の、しかもリオネルの隣室だとは。
ジュストの胸なかでは、悔しさと、憎しみが膨れあがっていた。
毛布をオリヴィエによけさせ、リオネルは赤ん坊を置くかのように、そっとアベルの身体を寝台に横たえた。
そこで、ジュストははじめて少年の顔を目にし、瞬間、息を呑む。
だれからも美青年であると称賛されるリオネルを凌ぐほどに、アベルは美しかった。
透けるような白い象牙の肌も、形の良い眉や唇も、閉ざされた瞳を彩る長い金色の睫毛も、そのどれもが完璧だったが、それ以上に、少年がまとう繊細で儚い雰囲気が、言葉では表せないような美しさを醸し出していた。
リオネルは細心の注意を払ってアベルを寝台に置いたが、それでも身体を包んでいた温もりが離れていく感覚によって、アベルはかすかに目を開けた。
「……リオネル、様?」
どこか心細げなその声に、リオネルは穏やかな笑みを返す。
「大丈夫だよ。きみの『大丈夫』と違って、おれが大丈夫と言えば、本当に大丈夫だから。――なにも心配せずに、ゆっくり休んで」
その言葉に、力ない笑みを返し、アベルは再び眠りにつく。
リオネルに従って部屋までついてきた使用人らが、暖炉に薪をくべて火を熾している。じきに室内は暖まるだろう。
オリヴィエは、感情を表に出さない表情と声でリオネルに尋ねた。
「医者を呼びましょうか」
「いや……いい」
リオネルの声には、どこか迷いが含まれているようだったので、オリヴィエは再び尋ねた。
「この方は、熱があるのでは?」
「そうだけど……医者は呼ばなくていい」
リオネルにとっては難しい判断だった。
医者に診てもらったほうがいいのかもしれないが、アベルが女性であることを周囲に知られてはならないので、安易に呼ぶわけにはいかない。
「では、女中を呼んで世話をさせましょう」
オリヴィエが気を利かせてそう言ったが、リオネルはそれも断った。
「いや、いい」
「……病人を放っておかれるのですか?」
オリヴィエがわずかに驚いたように尋ねたものの、リオネルは気分を害した様子なく答える。
「まさか。とりあえず、ベルトランと交替で診ることにしよう」
その返答に、オリヴィエは先程よりもさらに驚いたようだった。
「なんと?」
「おれとベルトランが交替で診る。だれか、湯をはった盥と麻の布、それと医者に頼んで解熱作用のある薬を持ってきてくれないか」
迷いのないその雰囲気に、オリヴィエもジュストも言葉を失った。
貴族の子弟、それも大貴族ベルリオーズ家の嫡男が、手ずから家来の看護をするなど考えられないことである。
「いえ、リオネル様……なにもご自身でなさらずとも」
オリヴィエは珍しく慌てた様子を露わにした。
リオネルはアベルから視線を外し、オリヴィエに紫色の瞳を向け、くすりと笑う。しかし、発せられた声には、きっぱりとした響きがあった。
「そうすると決めたんだ。すまないが、従ってくれ」
オリヴィエは恐縮した様子で頭を下げ、リオネルが述べた内容のものを持ってくるようにとジュストに指示する。
やや強張った面持ちでジュストは一礼し、部屋を出ていった。