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「柔らかい髪ね」


 驚き、アベルは動きを止める。


「淡く、温かくて、触れていたら溶けてしまいそうだわ」

「……とんでもございません」


 フェリシエの、太陽のごとき黄金色の髪に比べればどれほどのものかと、アベルは内心で思う。

 薔薇が咲きほこるように笑むフェリシエ。


「わたしのためにも、寝ていてちょうだい。あなたが早く元気になることを望んでいます」


 心にもないことを言うときほど、フェリシエは美しい笑みをつくることができた。


「最後まで見苦しい姿をお見せし、さらにはご心配くださったにもかかわらず、わたしなどのために大変なご迷惑をおかけし、申しわけございませんでした」


 深く謝罪するアベルを、すべて受け入れるような深い笑みで見つめてから、フェリシエは踵を返した。ライラに目配せして、部屋を出る。

 けれど、一礼するベルトランの脇を通り過ぎたとき、思い出したようにフェリシエは足を止めた。


「そういえば、リオネル様はどちらに? まだ山賊のだれそれとやらのところにいらっしゃるのですか?」

「いえ――」


 顔を上げて、ベルトランははっきりと答えた。


「主人は『騎士の間』へ重病人を見舞いにいきました。このように、戦いの後始末や、負傷者の慰問など大変に忙しく動きまわっています。フェリシエ様には夕餉の際にお目にかかりたいと申しておりましたので、どうかそれまでゆるりとお過ごしください」


 半分は嘘であるが、半分は真実である。

『騎士の間』へ向かったことは嘘ではない。だが、その目的については虚言を弄した。

 リオネルが、アベルを診る医師を探すために『騎士の間』へ行ったのだと告げることに対して、ベルトランの直感が警鐘を鳴らしたのだ。

 ――この女性ひとには言わぬほうが良い、と。

 フェリシエは一見、気立てのよい貴婦人であるが、けれど女の勘は鋭く、そして彼女らの嫉妬はおそろしい。そのことをベルトランは、嫌でも耳に入ってくる幾多の噂――華やかな貴族界における泥沼のような恋愛劇から学んでいた。


 会いにいっても話す時間などない、と暗に忠告するベルトランに、フェリシエは理解あるふりをする。


「お忙しいのですね。わたくし、あの方のことが心配ですわ。リオネル様は周りの心配をされてばかりで、ご自身の心配はなさりませんもの」


 そうでしょう、と問われ、ベルトランは視線を下げてうなずく。


「仰るとおりです」


 最後にフェリシエはアベルに聞こえるよう声を高めて言い放った。


「リオネル様はわたくしのすべてです。わたくしはあの方を深く愛しています。ベルトラン様、わたくしの将来の夫を、どうぞよろしく頼みます」


 返答に代えて一礼したベルトランに、ややもの言いたげな視線を向けてから、侍女を従えゆっくりとフェリシエは部屋を出た。


 二人の女性が完全に退室し、扉を閉めると、ベルトランは小さく吐息をついてから寝台へと向かう。

 そして、寝台の傍らに立ち、険しい表情でアベルを見下ろした。

 どうしてそんな身体で無茶をするのだと、あらためて叱ろうとしたのだが、アベルがあまりにぐったりと寝台に伏していたので、そんな言葉は喉の奥で霧のように消えてしまう。

 代わりに自ずと出てきたのは、次のひと言だった。


「大丈夫か」


 顔を動かすのもしんどそうなほど生気のない白い顔で、それでも、なんとか視線だけはベルトランへ向けてアベルはほほえんだ。

 消え入りそうなほほえみである。


 フェリシエの華やかな笑みとはほど遠いのに、アベルのその笑顔に、ベルトランは心が溶けていくような気がした。

 それはおそらく、哀しいほど無垢な笑みだからだ。会えて嬉しい、ただそれだけの気持ちがこもっている。

 度重なる死の危機を乗り越え、アベルは再びこの苦しい世界に――自分たちのもとへ戻ってきてくれた。

 不覚にも胸の奥から熱い思いがこみあげ、感情が揺れそうになり、ベルトランは両目を閉じた。


「ご迷惑をおかけしました」


 ベルトランの表情が意味するところが解せず、アベルはわずかに迷いを含んだ声音で謝罪する。


「謝らなくていい――おまえはよくやった。本当によくがんばった」


 師匠のあたたかい言葉に、今度はアベルの目の奥が火照る。

 そしてじんわりと視界が曇っていった。


「だが、フェリシエ殿のまえでがんばらなくてもいい。怪我人は寝ているものだ」

「…………」


 どきりとして真顔でベルトランを見たのは、再びクロードが咎められはしないか心配になったからだ。

 それを察したベルトランは、意地の悪い視線を傍らに立つ友人へ送ってから、アベルに、たしなめるように告げた。


「クロードのことは咎めない。だが、条件がある。今後、こんな身体で無理をしないことだ。わかったな」


 うなずくことができなかったので、アベルはベルトランを見上げたまま黙っていた。

 騎士の卵として、そしてベルリオーズ家に仕える者として、あの貴婦人の前で礼を欠くことを、アベルはどうしてもしたくない。


 すると、ベルトランはアベルの頭を指先で軽く小突く。


「あいかわらずの頑固だな。うなずかなければ、この一件はすべてクロードのせいにして、騎士隊長の座から退かせるようリオネルに進言するぞ」

「えっ!」


 アベルが驚き目をみはると、クロードがベルトランの背中を長靴で蹴りつける。


「アベル、心配するな。こいつにそんな権限はない」


 寸でのところでするりと攻撃をよけて、代わりにクロードの足に手刀を叩きつけながら、ベルトランは言い返す。


「あのときアベルを守ってやれるのはおまえだけだったんだ。しっかりしろ、クロード」


 だが、さすがはクロード。ベルトランほどの人物からの攻撃も、危なげなく右手で制して、今度は相手を引き寄せ間近で言葉をぶつけた。


「たしかに従騎士のアベルは、我々が守らなければならない存在だ。だが、フェリシエ様の御前で毅然としていたいという、本人の意思も尊重すべきじゃないのか」

「意思か――我々はアベルの意思よりも、リオネルの意思に従う者だ」

「……どういう意味だ」


 捕まれた右腕をねじり、ベルトランは相手の拘束から逃れて小声で言い捨てた。


「今にわかる。いや、おまえには一生わからないか」

「おまえの口の悪さも一生変わらないだろうな」


 子供のじゃれ合いというにはいささか激しいやりとりではあるが、そのなかにも、二人のあいだには親密さが感じられる。そわそわしながらも、アベルは見守るようにベルトランとクロードを見つめていた。


 激しい問答をやめてベルトランがそばに戻ってくると、アベルは小さな声で言った。


「わたしのことと、クロード様が騎士隊長であることと、なんの関係ありません」


 たしかに関係はない。

 だがアベルになにかあれば、クロードが騎士隊長の座を退いたとしても償いきれぬ罪責を負うだろう。それほどまでに、リオネルはアベルのことを愛しているに違いないからだ。


「生真面目なのはいいが、あまりリオネルの気を揉ませるな」


 呆れたように、もしくは諦めたようにベルトランがそう言うのと、扉を叩く音が同時だった。

 クロードが開けた扉から入室したのはリオネルで、医師を伴っている。


 リオネルはすぐになにかに気がついたように目を細めた。

 この部屋に漂うはずのない香り。

 それは、紛うことなく、フェリシエの香水の匂い――。


 リオネルの胸中にわずかに不安の影が落ちる。

 無駄のない動きでアベルのところまで来ると、かがんでアベルの顔を心配そうに見つめた。


「アベル?」


 顔色が悪い。

 ひどく疲れているように見えた。

 だがアベルは、リオネルの顔を見ると安心したように口元をほころばせる。

 そこに広がっているのは、全幅の信頼。


 ――リオネルが、戻ってきた。

 世界でたったひとり、この世でたったひとり、……この現実に自分を繋ぎとめてくれている人。


 かつてリオネルが救ってくれたのは、アベルの「命」ではない。「心」だ。

 たったひとりでいいのだ。

 ……この広い世界で、たったひとりで、いい。

 世界はこんなにも広いのに、だれひとりとして、あたたかい腕を差し伸べてくれる人などいない――そう思っていたから。


 紫色の宝石を眺めながら、アベルはそっと目を閉じた。

 そして、かぎりない安堵のなかで、再び眠りにつく。


「アベル――」


 リオネルは両膝を堅い床について、意識を失ったアベルの手をとる。

 小さくて、冷たい手だった。

 背後を振り返り、リオネルは、クロードとベルトランの二人へ鋭い視線を向けた。


「なにがあった」


 その瞳の色をまえに、クロードはほんのかすかに、なにかを悟る。それが正確にはどのようなものなのか、とてもこの鈍感な男にはわかるはずもなかったが。


 クロードはこれまで出来事を、主人に、ありのまま語りはじめたのだった。








+++








 春色の光が満ちあふれている。


 月が変わり、四月。

 草花が待ちこがれていた季節。


 王宮の広大な庭園は、限りある命を力のかぎり燃やそうとするように、芝の緑が、木々の葉が、花壇の花々が、眩しいほどに光り輝いていた。

 それはまるで、「今」という儚くも永遠の一瞬を生きることの歓びが、細胞のひとつひとつからほとばしっているようだった。


「シュザン様」

「正騎士隊隊長殿」

「トゥールヴィル隊長」


 城に仕える多くの者が、シュザンに声をかけた。

 彼らは一様に祝福の言葉をシュザンに投げかける。

 おめでとうございます、と。


 ……結婚するわけではない。


 甥であるリオネルを含む教え子たちが、山賊討伐を成功させた栄誉を、皆は称えているのだ。特に、討伐隊の総責任者であったリオネルを称賛する声は大きかった。


「ご叙勲なさったばかりで、今回の働きぶり。誠に才気あふれる若者ですな」

「スーラ山攻撃においては、勝手に動いた部隊を、リオネル様の機転で救うことに成功したとのこと。お若いのに行動力のあるお方とお見受けしました」


 強国シャルムにとって、ラ・セルネ山脈に巣食う賊は、竜の背に刺さった小さな棘のように、目障りで、だが排除することのできぬ厄介な存在だった。

 その問題を、リオネルは早々に解決させたのである。

 しかもだれも考えつかなかった結末を添えて。


「討伐を成功させたうえに、生き残った山賊らを従わせるなど、かつて、どのような偉業を成し遂げた名君も成しえなかったことですぞ」

「あの凶悪なラ・セルネの山賊を手なずけることができるなど、いったいだれが想像できたでしょう」


 まことの王にふさわしいのは、やはりリオネル様しかおられぬ――そういった声がいっそう強まっていた。


 今回の一件が無事に解決したことにシュザンは安堵し、方々からの祝勝の言葉を、くすぐったいような気持ちで受け止めていた。しかし、喜びの一方で、シュザンの不安は強まってもいた。

 前代未聞の成功を、喜ぶだけではない者がいることを、よく知っていたからである。

 しかもその者たちは、この国の中枢にいる。

 このまま彼らが黙っているだろうか――そんなはずはない。躍起になってリオネルの破滅を画策するかもしれない。

 シュザンは遠く離れた甥のことを、心から案じていた。







 王宮の一室。

 むろんこの男は、リオネルが山賊討伐に成功したとの報を、だれよりも先に受けていた。


 異母弟から王位を奪った男、シャルム国王エルネスト。

 彼の胸中は複雑を極めていた。


 そも事の発端は、ラ・セルネ山脈沿いの所領が襲われ、手に負えぬ山賊らをどうにかせねばならぬという頭の痛い問題からはじまったのだ。

 そういう意味では、悩みの種がひとつ減ったことになる。

 さらに、首長を含む山賊の生き残りは、山の麓の荒れたままになっている土地を新たに耕し、かつてのアンセルミ公国があった区域を守ると誓ったというではないか。

 願ってもない展開だった。

 これで、ネルヴァルとの国境で紛争が起こった際にも、力強い味方となろう。


 だが、呑気に祝杯を上げるわけにもいかなかった。

 むしろ、己の足元を揺るがすほどの、厄介な事態が生じているともいえる。

 ……すべてを解決へと導いたのが、弟クレティアンのひとり息子であるということ。

 山賊らが服従の意を示したのは、王である自分ではなく、彼の青年個人に対してである。


 エルネスト自ら山賊討伐の責任者として抜擢した者であるが、かくも文句のつけようのない成功を収めるとは思いもよらなかった。長引き、苦戦し、山賊とベルリオーズ家の双方が疲弊し、共倒れになる。それが、もっとも現実的で、かつ望ましい結果であるはずだった。


 ――リオネル・ベルリオーズ。

 エルネストは、かつて騎士館のまえで目にした姿を思い出した。

 あれは二年前、彼が十六歳のときだったか。

 まだ少年らしさが抜けきらぬ、面立ちと身体つき。

 深い紫色の瞳。

 涼やかで端正な目鼻立ち。

 しっとりとつややかな濃茶の髪。

 この世で最も憎く、そして、最も得難い存在だった。

 かつてエルネストが真に愛した女性は、彼の母親であるアンリエット・トゥールヴィルただひとりである。

 ついには手に入れること叶わずこの世を去ったアンリエットの血が唯一受け継がれている青年には、同時に、先代国王夫婦の正統な血脈がこの世でただひとり受け継がれていた。


 二重にも三重にも、リオネルの成功はエルネストにとって厄介な出来事だった。


 さきほどから、この広くはない王の私室には、跡継ぎである息子のジェルヴェーズと、義兄にあたるルスティーユ公爵、王になる以前からの忠臣であるブレーズ公爵と、そして王やブレーズ公爵に目をかけられてこの数年のうちに政の中枢に現れるようになった、大神官ガイヤールが集っている。


 真昼の太陽が、あたたかな光を部屋の絨毯に投げかけているが、木彫りの装飾がほどこされた肘掛椅子に座る男たちのあいだに漂う空気は、暗く淀んでいた。


 国王は口数少なく、ジェルヴェーズもまた機嫌の悪さを隠しきれぬ様子で押し黙っているため、公爵らもなるべく不用意な言葉は発しなかった。

 卓上に置かれた銀杯のなかの葡萄酒だけが黙々と消費され、新たに注ぎ足されていく。

 それぞれが、これからどうすべきか、いかなる手を打つべきか決めかねているので、このように集まって話し合おうとしたところで議論は先に進まないのだ。


 だが黙っていてもしかたがない。時間にも、飲める葡萄酒の量にも限りがある。

 沈黙を破ったのは、ガイヤールだった。









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