116
館の地上階に位置する、騎士の寝室が並ぶ回廊。
獰猛な狼のように危険な男は、地下牢ではなく、そこにある一室で養生していた。
甘すぎる香り。
青年が飾り気のない扉を開けたとき、花畑に来たような、だが明らかに野の花とは違なる匂いがした。
香水である。
香水の匂いが苦手だといったヴィートの気持ちは、少しだけわかる。
今、寝台の傍らには、色の白い女性が小さな丸椅子に腰かけ、心配そうに山賊の首長を見守っている。クヴルール男爵の娘、ロジーヌだ。香水は、彼女がまとっているものだろう。
……それは、アベルからは漂わぬ香りだった。
アベルはいつだって、彼女の肌の香りだけがする。
酒に酔ったこともないのに、かぎりなくほのかに甘いアベルの香りは、リオネルの気持ちを酔わせる。とても平静ではいられなくなるほどに。
ちなみに、二十歳を過ぎたあたりのロジーヌの体格は、けっして大柄というわけではないが、しっとりとふくよかであった。
ベルトランを伴い入室してから、しばらく寝台のほうに視線を向けたままでいるリオネルに、部屋で監視をしていたディルクが声をかけた。
「アベルが目を覚ましたって?」
「ああ」
返事をするときに、ほのかに表情を和らげた端正な横顔は、なによりも大切なものを想うときのそれだった。
あいかわらずだなと思いながら、ディルクはぼやく。
「おれにも早くアベルに会わせてくれ。同じように目覚めたといっても、こんな手負いの獣のような男のそばじゃ、まったく幸福感がない」
「わかっている。すまない、厄介な役回りばかり押しつけて」
「マチアスが戻ってきたら、代わってもらうことにするよ」
彼の優秀な従者は、ジュストからリオネルの伝言を聞き、レオンやラロシュ侯爵、その他必要各所にそれを伝えにまわっているのだ。
「それにしてもこの男、さっきからなにも話さないぞ。それなのに、近づけば狼のように噛みついてきそうな雰囲気だ」
うなずき、リオネルはゆっくりと寝台に近づいた。
山賊の首長は、手足も拘束されておらず、ただ寝台に横たえられている。
装飾のない窓辺からは、最後の陽光が名残惜しそうに輝き去り、まさにあたりは闇に染まろうとする瞬間だった。
掘りも塗装も施されておらぬ椅子が二脚と、一台の小卓、そして寝台。
さほど広くないこの室内では、ディルクの他に、ベルリオーズ家やラロシュ家の騎士たちが、壁にそって男の周囲をぐるりと取り囲んでいるので、この男が暴れたとて取り押さえることは容易だ。
だがリオネルに従うベルトランは、腰に下げた剣の柄に手をかけ、警戒している。
突然ブラーガがリオネルに襲いかかってこないとも言いきれぬ。山賊だろうが刺客だろうが、リオネルに指一本触れさせるわけにはいかなかった。
先程から黙ったままだという男は視線だけをリオネルへ向け、相手がだれかを思い出すと、口端を歪め、喉の奥で低く笑った。
この年若い貴族の青年は、ブラーガにとって、生まれてはじめて己を打ち負かした男だった。
「時間もない。用件だけ言おう」
実際に、リオネルの言葉は唐突だった。まるで余計な話など一切したくないほど苛立っているかのように。
「山賊の首長であったおまえに、やってもらいたいことがある」
ゆっくりとブラーガは笑いをおさめ、測るような目つきでリオネルを見た。
「ヴィートと共に、アンセルミ公国の末裔である山賊たちを束ね、かつておまえたちの祖先が住まっていたこの地を守ってほしい」
山賊らから畏怖をもって怖れられる男だからこそ、これを成し得るであろう。
なにもヴィートのためだけに、鎮められそうにない憎しみを身体のうちに押しこめ、苦労をしてブラーガを助けたのではない。
これが、多くの者にとって最善の道だと判断したからである。
「かなり、いきなりだな」
呆れ声をあげたのは、ブラーガではなくディルクだった。親友の指摘には答えず、リオネルは涼しい顔でブラーガを見つめる。
重たい沈黙が流れる。
それを破ったのは、返答などしないだろうと思われたブラーガだった。
「他にないものとは?」
即座には質問の意味がわからなかったが、すぐにリオネルは思い至った。
己が口にした言葉である。用件を告げる際に、『時間もない』と前置きした。『時間も』ということは、それ以外にないものはなんなのかと、ブラーガは尋ねたのだ。
リオネルが黙していると、ブラーガが再び低く笑った。
「ないのは、おまえの心の余裕か」
リオネルがなにも答えなかったのは、ブラーガが答えを知っていて尋ねてきたことを、承知していたからである。
アベルの首を絞め、命の危険にさらした張本人。
だからこそ、わかるのであろう。己に向けられる敵意と憎悪の意味が。
「それほどまで、あの痩せ細った子供が大切だったか」
「…………」
リオネルが美しい紫色の双眸を細める。
その表情を眺めて、ブラーガは愉しげに笑いながら言った。
「死ななかったようだな」
山賊らが目にしたら、さぞ驚いたことだろう。ブラーガがこんなに活き活きとしているところを、だれも見たことがない。おそらく、ヴィートでさえも。
「あの子が死んでいたら、おまえを生かしておきはしなかった」
「では再びあの白い細首を絞めてやろう。首の骨を折ってしまえば、助かるまい」
花を手折るようにたやすいことだ、とブラーガが笑うのと、寝台の反対側にいたロジーヌが高い悲鳴を上げるのが同時だった。
ブラーガの顔のすぐ横に、リオネルの拳が突き立っている。
あと子指一本分でも内側に寄っていれば、無傷ではすまなかっただろう。
むろん、故意に逸らしたのだ。
動けぬ相手に暴力を振るうことは、どれほど怒りを覚えていても、リオネルにはできぬことだった。
相手が常のときであれば、手加減せずに殴っただろう。もし当たっていたら、顔の骨が砕けていたかもしれない。それも一発では気がすまなかったに違いない。
だが、これほどの攻撃を間近にしても、ブラーガは動じなかった。
まるで愉しくてしかたがないというような顔で、リオネルを見据えている。
「愉しそうだな」
怒りを押し殺した低い声でリオネルがつぶやくと、ブラーガは即座に答えた。
「愉しいとも。おまえに出会ったことがな」
「…………」
寝台に突き立てていた拳をおさめて、リオネルは冷ややかな視線でブラーガを一瞥した。
「また遊んでやる。ただし、こちらの要求を呑めば、だ」
危険な獣を飼い馴らすようにリオネルが言うと、ブラーガの抑揚のない声が返ってくる。
――悪い話じゃない、と。
リオネルとしては、とりあえずその返事が得られれば充分だった。話はこれですべてだというように、リオネルはブラーガに背を向ける。
そして、背を向けたまま告げた。
「考える時間は充分にある。ヴィートと話し合ってもいい。いずれにせよ、前向きな返事を期待している」
歩み去っていくその背中を、ブラーガの盛大な笑い声が打つ。
ロジーヌが目をみはる。惚れた男がこんなに愉快に笑うところを、今まで目にしたことがなかった。
しかしそんなことは知らぬ、知っていたとしてもたいした感慨などないであろうリオネルは、その笑声を不愉快な気持ちで聞きながら部屋を出た。
彼の後ろに、ベルトランとディルクが続く。
「あの野獣を調教できるのは、この世でおまえくらいだろうな」
真面目な口調で、冗談めいたことをつぶやいたのはディルクだ。冗談のような例え話に、リオネルは笑いもせず、次のように返した。
「飼いならす途中で噛みつかれないよう、せいぜい気をつけることにするよ」
笑える気分ではない。
愉しい遊びを発見した子供のような態度のブラーガは、笑い飛ばすにはあまりに憎く、そして危険な相手だった。あの男がアベルを傷つけたのだと思うと、剣をブラーガに向けて抜き放ちたい衝動にかられる。
あと何百回本気で剣を交えても足りないほどだ。
あちらから向けられるどこか熱烈な感情とは逆に、リオネルのなかでは、アベルを傷つけられた怒りが当分収まりそうにない。
いや、一生忘れることはないだろう。死ぬまで赦すことはできない。
けれどこれから手を携えていくのであれば、それも、己のなかでどうにかして消化していかなければならない。
「少しでもおまえに噛みつこうとすれば、おれがたたき切る」
冷やかに言い捨てたベルトランをちらと見て、ディルクは二の腕をさする。
「おお、こわ……」
そして、視線を回廊の果てに定めて目を細めたのは、先ほどこの部屋に立ち寄った者が、再び現れたからである。
「あれは、ジュストじゃないか?」
あとの二人もその姿をみとめて、足を止める。
医師を呼び、そしてベルトランやマチアスに伝言し終わったはずのジュストが、まだこのあたりでうろついているのはなぜなのか。
「なにかあったのか?」
話ができる距離にまでくると、質問をしたディルクや主人らに対し、ジュストは一礼した。
「リオネル様にご報告を。アベルを担当する医師が、『騎士の間』にて重傷者の看護をしている最中でして、次の診察までいま少し時間がかかるとのこと」
「……そうか」
浮かぬ表情になりつつも、リオネルはジュストの働きを労う。
「ご苦労だった」
そして、さらにリオネルは「あと一つ頼みたいことがある」と言い、山賊の首長ブラーガが目を覚ましたことを、ヴィートと、彼の部屋にいるだろうエラルドの両名に伝えるように命じた。諸侯らにはすでに、ラロシュ侯爵の配下の者によって知らせてあるはずである。
命を受け、再び一礼して去っていくジュストの後姿を見送りながら、ヴィートの喜ぶ様をリオネルは思い浮かべた。アベルに続き、ブラーガも助かったと知ったら、あの若者はどれほど歓喜するだろう。
恋敵ではあるが、彼が喜ぶことが、リオネルにとってはけっして嫌なことではなかった。
自嘲するように笑んでから、すぐに真顔に戻ったリオネルは、続けて指示を与える。
「ディルク、おもしろくもない役目で申し訳ないが、マチアスが戻るまで、ブラーガを引き続き監視していてほしい」
「さっきのは冗談だよ」
苦笑しながらディルクは片手を上げる。
「いや、目を覚ましたアベルに会いたいというのは間違いないけど、今おれが見舞いにいっても、無駄に気を使わせるだけだからね。おまえが行ってやれ」
「おれも、すぐにアベルのところに戻りたいのは山々だが」
やや複雑な表情でリオネルはベルトランを見やる。その表情に気づき、ベルトランが首をかしげた。
「医師と重傷者の状況を確認しにいきたい。ベルトランは一足先にアベルのそばに戻っていてくれ。おれは『騎士の間』に寄ってから行く」
リオネルの心情を察したベルトランは、主人と再び離れねばならぬ役目ではあったが、快く引き受ける。それにベルトラン自身が、目覚めたアベルの顔を早く見たいという気持ちも大きかった。
それぞれの目的をもって、三人は別れた。
かくしてアベルが休んでいるはずの寝室を訪れたベルトランだったが……。
入室したその瞬間、彼は眉をひそめて言い放った。
ベルリオーズ家に仕える一介の騎士なら、その声に姿勢を正すであろう。それほど、ベルトランの声音は険しかった。
「なにをしている?」
寝台は、もぬけのからだった。
その代わりに豪奢な椅子に腰かけているのはフェリシエ。
寝ていなければならぬ少女は、クロードや、フェリシエの侍女と同様に、立ったまま控えている。
入室したベルトランを振り返ったフェリシエは艶やかにほほえみ、
「ごきげんよう」
と涼しげに挨拶した。
一方クロードは、やや気まずそうにベルトランに目配せした。その様子から、おおまかな事情が察せられる。
アベルはというと、青白い顔を扉口へ振り向け、訪問者を確認すると表情をゆるめる。
「ベルトラン」
数日ぶりに見るその人の名を、懐かしそうにアベルがつぶやいたそのとき、
「馬鹿かおまえは」
ベルトランは足早に駆け寄り、またたくまにアベルの身体を抱きかかえた。
厳しい言葉は、深い愛情の裏返しである。
アベルは軽い。不安になるほどに。
この頼りない身体に、どれだけの負荷がかかっているのか、ベルトランにはおそろしくさえ思えた。むろんリオネルにとってもだが、ベルトランにとっても大切な弟子である。
「なぜ、起き上がらせた」
華奢なアベルの身体を寝台に戻しながら、ベルトランは怒りをはらんだ声でクロードに尋ねた。
「こんな身体で立ち上がるなど、無茶もいいところだ」
責め立てられるクロードだが、彼もそんなことは百も承知である。幾度もアベルに寝台に戻るように、もしそれができぬなら、椅子に座るように諭した。
けれど、侯爵令嬢であり将来リオネルの妻になるだろうフェリシエのまえで、そんな姿を晒すわけにはいかぬという生真面目なアベルの性格も、クロードには理解できた。自分が彼の立場だったら同じことをしただろう。だからこそ、強制することができなかった。
フェリシエも、クロードとともにアベルを気遣うふりをしていたが、結局のところ、フェリシエがこの部屋に居座り続けるかぎりは避けられぬ状況だったのだ。むろん、そのことにフェリシエは気がついていたが、素知らぬ顔をしていた。
「平気です。幾日も寝ていたので、すっかり元気になりました。クロード様を責めないでください」
力のない声でそう言いつつも、再び起きあがろうとしないのは、すでにアベルには自力で起きあがるだけの体力さえ残されていなかったからだ。
そんなアベルに対し、ベルトランは語気を強める。
「今度起きあがったら、手足を寝台に縛りつけるぞ」
「…………」
師匠が本気で怒っているようだったので、アベルは口をつぐむ。
アベルがおとなしくなったのを見届けると、ベルトランは今度こそフェリシエへと向きなおった。長身をかがめて丁寧に一礼する。
「ご挨拶が遅れて申しわけございません。フェリシエ様におかれましては、ご機嫌麗しく重畳至極に存じます」
礼儀正しい挨拶だが、彼の声音は硬かった。
「ええ、アベルが目覚めたと聞いて、とても嬉しいわ」
体力を消耗してアベルは寝台に弱々しく横たわっているというのに、ベルトランの口づけを手に受けるフェリシエの様子は、呑気でさえある。
「思ったよりアベルはとても元気そうで」
朗らかに笑うフェリシエに対し、ベルトランは表情を変えずに直言した。
「あれは元気なのではなく、無理をしているのです。アベルを直々にご訪問いただき恐れ入りますが、彼はけっして常の状態ではありません。休ませてくださいますようお願いいたします」
すると、挨拶を受け終えた手を胸に寄せながら、フェリシエはひどく傷ついたような表情をつくった。
「わたしがアベルに無理をさせたと、そう仰るのですか? わたくしはただアベルと話したかっただけですのに。気をつかって、何度も休むようにも説得しましたわ。でもアベルは聞き入れてくれなかったのよ」
一瞬、ベルトランは言葉を呑んだ。
目の前の貴婦人は、ベルトランにとって微妙な存在である。主人であるリオネルが愛しているのは、フェリシエではなくアベルだということを、ベルトランはよく理解しているし、彼自身、将来リオネルのそばにいるのはアベルであってほしいと願っている。
けれど、この貴婦人が、ベルリオーズ公爵クレティアンが認めたリオネルの婚約者候補であるという事実には変わりなく、現時点においては、ベルリオーズ公爵夫人の座にもっとも近いところにいる女性なのだ。そのうえ、彼女はリオネルに心底惚れている。
「アベルがとても元気そうだったから、わたし、嬉しくて……」
青緑色の瞳からこぼれ落ちた涙が、白い肌をすっと伝う。
その様子は可憐で儚げであったし、ここにいるだれの目にも、フェリシエは真にアベルの回復を喜び、無邪気に話をしたかっただけなのだとしか映らなかった。
……ただし、ベルトランだけは半信半疑であったが。
「貴女を責めているわけではございません。私の言葉でお気持ちを害されたのであれば、深謝いたします」
ひとまずベルトランは謝る。だが、謝罪したのはフェリシエのためではなく、早くこの場を収拾するためである。
完璧なまでのフェリシエの演技は、だが、ベルトランを操ることまではできなかった。
「フェリシエ様の深いお心遣い、アベルの師としてこれほどありがたいことはありません。貴女のそのお心をもって、私の従騎士に対する老婆心をお許しください」
言葉の意味を頭のなかで咀嚼すると、フェリシエの涙ははたと止まった。
このように言われてしまえば、ベルトランに免じて部屋を出ざるをえない。他のだれよりもリオネルのそばにいるベルトランに、不信感を抱かせるわけにはいかなかった。
涙が止まったことをごまかすために、フェリシエが細い指先で目尻をぬぐうと、さっとライラがハンカチを差し出す。それで目元を隠すようにしながら、フェリシエは素直に納得したようにみせるために、明るい声を発した。
「そうね、あなたの気持ちはよくわかります。アベルを大切に思う気持ちは同じですもの」
立ち上がり、ベルトランが表情を曇らせるのにもかまわず、フェリシエは寝台に近づく。
そして、フェリシエが来れば当然のこと、にわかに起きあがろうとして身体を動かすアベルの髪に、そっとフェリシエは手を触れた。