115
「だれだ」
「クロード・レイル、貴方にお仕えするベルリオーズ家の騎士隊長です」
礼儀正しく名乗ったのは、若々しく、よく通る声の持ち主――クロードだった。
リオネルは声の調子をやわらげ、
「クロードか」
と、いつもの物腰で扉を開ける。
「ちょうどいいところに来た」
「は?」
目を大きくしたクロードの後方に控えているジュストへ、リオネルは即座に視線を移していた。
「ジュストに頼みたいことがある」
主人のひと言を聞くなり、さっとジュストは一歩前に進み出て、腰をかがめる。
こういった所作ひとつをとっても、ジュストは申し分のない従騎士であり、だれの目から見ても将来立派な騎士となって、ベルリオーズ家を守る重臣のひとりとなるに違いない青年だった。
「リオネル様、私にいかなるご用でしょうか」
「アベルが目を覚ましたんだ。医者を呼んできてほしい」
「…………!」
常ならすぐに返答するジュストが言葉につまったのは、想定していなかったことを告げられたからである。
まさか、これほど早くに意識を取りもどすとは。
「ジュスト?」
「申しわけございません。アベルのことを長らく案じていたので、目覚めたと聞き、喜びで言葉を失ってしまいました。ただちに医師を呼んでまいります」
「それから、ベルトランとマチアスにも、アベルが目覚めたことを伝えてほしい」
「マチアス殿に、ですか?」
ベルトランに真っ先に伝えるのは当然のことだが、なぜマチアスが指名されたのかわからぬといった様子のジュストに、リオネルはうなずいてみせる。
「アベルの意識が戻ったことは、マチアスに伝えておけば、ディルクやレオン、その他必要なところにいきわたるだろう」
――おそらく、アベルの回復を待ち焦がれているヴィート、そして心配を募らせているセドリックやラロシュ侯爵、ブリアン子爵にも。
「かしこまりました、リオネル様」
主人であるリオネルと、師匠であるクロードに深々と一礼し、ジュストはさっと踵を返した。
アベルが、目覚めた――。
衰弱しているのか、それとも、かなり回復しているのだろうか。
部屋の奥にいるだろうアベルの様子がジュストは気になったが、目を向けることはしなかった。
もしはっきりと見てしまったら、瞳に宿る色をリオネルに悟られるだろうからだ。
神経質なまでにアベルを大事にしているリオネルが、ジュストの瞳に宿る敵意と嫉妬に気がつかぬはずがない。一度でも疑念を抱かれたら、最後だ。
敬愛するリオネルの不興を被ることは、己の人生の破滅でもある。
だが、だれよりもリオネルに心酔しているがために、彼の関心がどこの馬の骨ともわからぬ少年に向いていることがジュストには許しがたい。
常にリオネルのそばにいるベルトランの従騎士となり、生涯、すぐそばでリオネルを守るのは自分であるはずだった。
アベルがどのような状態なのか……どうだってよい。
冷たい憎悪の炎が、ジュストのなかで燃えていた。
「ジュストは、あいかわらずアベルのことをとても慕っているようですね」
ベルリオーズ家で修業する従騎士たちが仲良くしていることに、クロードは満足そうである。
けれどリオネルの胸中はそれほど単純なものではなかった。クロードを部屋に入れ、扉を閉めてから、
「そうかな。おれは最近ジュストがわからない」
と、相手にだけ聞こえるほどの小声でリオネルはつぶやいた。
「は……リオネル様、それはいったい」
「おれが王宮から戻ってきてから、ジュストは少し変わったような気がする」
「そうですか?」
「……いや、なんでもない」
用兵に長じた比類なき軍人であるのに、人の心の動きやら、人間関係やらにはとかく鈍感なこの男を相手に、些細な気がかりを口にしてもしかたない。すぐにそのことに気がつき、リオネルは話を打ち切る。
「なにか用事があったのだろう?」
「はい。山賊の首長が目覚めた由、ご報告に」
「…………」
しばし考え込むように黙してから、
「……そうか」
と短く答える。
「様子は」
「落ちついています。暴れる様子もありません」
「今はだれが監視についている」
「我が軍からはダミアン他五名を、アベラール家からはディルク様ご本人とバルナベ殿、そしてラロシュ侯爵の配下の精鋭十名が配置されました」
リオネルは深く頷いた。
その顔ぶれなら、仮にブラーガが脱走をはかろうとしても、阻止することができるだろう。けっして侮れぬ相手であるが、手負いの状態でこれだけの剣豪らを相手に勝つこともできはしまい。
……ラ・セルネ山脈に巣食う賊から怖れられ、そしてヴィートからは深く慕われている、首長ブラーガ。
ちらとリオネルはアベルがいる寝台のほうを振り返り、表情を陰らせる。
目覚めたのであれば、ブラーガと一度、話しておかなければならない。
山賊討伐を任された者としての考えがあって助けはしたが、ブラーガは、アベルに危害を加えた人間である。本当なら、幾度殺しても、殺し足りないくらいだ。
己のなかにも「複雑」という言葉以上のわだかまった感情があるし、彼の生存についてアベルがどう感じるか、そのことも気がかりだった。
彼を生かしたことで、再びアベルにあのときの恐怖を呼び起こさせたくない。
「リオネル様、アベルが目を覚ましたというのは……」
部屋の奥の様子に神経を研ぎ澄ましながら、クロードがささやくように尋ねた。
寝台に人がいる気配はあるが、アベルが話せる状態なのかどうかわからないため、気遣っているのだ。
「ああ、気がついている。思いのほか元気そうだし、意識もはっきりしている。けれど、とても不安そうだ。ひとりにしたくない」
「はい」
リオネルの言葉が、単に家臣に対する愛着以上の響きがあることに気がつくはずもないクロードは、生真面目にうなずく。
「『騎士の間』を守るべく戦ったアベルの勇敢な姿勢、私も感服しております。もしこれからリオネル様が山賊の首長に会いにいかれるのであれば、私がここに残り、アベルのそばにいましょう」
主人の今後の行動を見越してクロードが言うと、リオネルは考えこむように視線を下げた。
そうなのだ。
アベルのそばにいたいが、ブラーガと話さぬわけにはいかない。
……なぜ二人は、ほぼ同時期に意識を取り戻したのだろう。雲を裂いて零れ落ちた光には、色彩だけではなく、人の命まで甦らせる力があるだろうか。
やっと雑務やフェリシエから逃れ、ここへ来たというのに。
せめて目覚めて間もないアベルのそばに、あともう少しだけいたかった。
「リオネル様」
弱々しい声が静かな室内の壁に吸い込まれていく。
アベルだった。
会話の断片が聞こえていたアベルは、寝台から起きあがろうとする。
リオネルの行動を制約しているのは、他ならぬ自分が先程発した言葉だということを、彼女はよく承知していたからだ。
「アベル」
扉口にクロードを残したまま、リオネルは眉を寄せて足早に寝台に歩み寄った。
「アベル、動いたらいけない。元気になることが、きみの仕事だと言ったはずだ」
以前よりも細くなった両肩をそっと寝台に押し戻されると、アベルはおとなしくそれに従い、ほがらかに笑んだ。
「はい、あなたの言いつけどおり寝ています。ですので、リオネル様は心配なさらずに用務へ赴かれてください」
リオネルの足枷になるまいとアベルがそう言っていることは、明らかだ。
「…………」
「先ほど、リオネル様をお引止めしたこと、どうか忘れてください。わたしはひとりでも大丈夫です」
思案顔のままでいるリオネルに、アベルは安心させるようにもう一度笑ってみせる。
「どのみち、お医者様がいらしたら、リオネル様にはこの部屋を出ていっていただきますから」
己の寂しさも、リオネルの懸案も、冗談に変えてしまいたくてアベルは明るく言った。
その笑顔をまえにして、どこか諦めたように、リオネルは憂いを含んだ瞳のまま口角を上げる。
アベルは強い。
こんなときでさえ、己の寂しさを笑顔に変えられるのだから。
弱々しく見えるのに、この小さな身体のうちに秘めたとても強い光のようなものが、リオネルの心を魅了してやまない。
「そばにいてあげられなくてすまない」
恋する相手が心細いときに、そばにいてあげることさえできぬ己の立場が、今、リオネルにはひどく悔しく、そして忌まわしく感じられた。
「すぐに戻るから」
この場を離れるのを惜しむようにアベルに笑いかけてから、扉口にいるクロードを振り返る。
「クロード。おれが戻るまで、アベルを守っていてほしい」
「かしこまりました」
深く一礼する姿を確認し、リオネルはアベルへ向き直った。なにか言いたげな表情をしたが、だが声には出さずリオネルは部屋を出ていった。
たまにリオネルには、こんなときがある。
なにかをとても伝えたそうなのに、なにも言わずに立ち去るのだ。そんなときのリオネルは、どこか寂しげにも、苦しげにも見えた。
目に見える場所からいなくなってしまったリオネルのことを思い浮かべながら、すっと室内が寒々しくなったような気がして、アベルは布団のなかで己の腕を抱きとめた。
「本当に気がついたんだな、アベル」
突然、快活な声音が聞こえてきて、アベルは視線を上げる。
心から嬉しそうな顔でこちらに歩んできたのは、ベルリオーズ家の若き騎士隊長だ。
「クロードさん」
「よくがんばった。よく耐えたな」
――よく耐えた。
なにに耐えたのか、クロードが意味することが何なのか、アベルにはなんとなくわかった。
シャルム国内は今、比較的安定しているが、それでも宿敵ローブルグをはじめとする近隣諸国との中小規模の諍いは絶えない。戦場に行く機会のあったクロードには、死の淵からこの世界に戻ることが、いかに困難であり、人の心の強さ必要とするものかを知っていた。
長いあいだ片足を死と近い場所に触れていたアベルにも、己がなにに耐え、どうしてこの場所に再び戻ることができたのか、わかる。
返事の代わりに、アベルはほほえんでみせた。
窓辺にたたずむクロードは、笑顔をつくっているわけではないのに、あいかわらず人のよさがにじみでるような面立ちである。
「よく我々のところへ、戻ってきてくれたな」
「リオネル様をはじめ、皆様のおかげです」
素朴に顔を傾けるクロードに、アベルはうつむきはにかむようにつぶやいた。
「恥ずかしながら、多くの方々が、『アベル、アベル……』と、わたしのような者の名を呼んでくださる声が聞こえたのです。わたしひとりでは、耐えることも、戻ることもできませんでした」
「そうか」
納得したように、クロードは幾度も頷いた。
「そのなかにおれやジュストもいたかな?」
「はい、クロードさんもジュストさんも、ラザールさん、ダミアンさん、ナタルさん……皆がわたしを呼んでくださっていました」
「そうか、それはよかった。きっとそれは本物の声だろう」
二人は顔を見合わせ、言葉なしで笑う。
人を疑う心がないという側面からみれば、二人は似通うところがあった。
アベルが聞いたのは、人を愛そうとする己の心の声に他ならない。幾度傷ついても、人を信じ、愛そうとする心を止めることは、アベルが生きているかぎりできないのだ。それはおそらくクロードも同じだ。人を信じ、愛したいと思うからこそ、生きようと願える。
朴訥としたクロードのまとう空気が、目覚めてすぐにリオネルがいなくなってしまった寂しさを、やわらげてくれたことはたしかだった。
しかし、それも長くは続かなかった。
再び扉を叩く音がして、クロードは寝台脇の窓辺から離れ、扉口へ向かった。
開かれた扉の前にいたのは……華やかなドレスに身を包んだフェリシエ。そのすぐ後ろには、身なりのよい侍女をひとり従えている。
「これは、フェリシエ様」
恐縮したように、未来の公爵夫人――つまりは己の主人となる貴婦人に対し、恭しくクロードは拝跪する。
「騎士隊長様、ごきげんよう。わたくし、リオネル様を探しにきたのですけれど」
大きく開いた扉の手前から室内を見渡すかぎり、リオネルの姿はない。どうやらここにはいないようだと悟ったフェリシエは、当てが外れて落胆したというより、むしろ安堵の溜息をついた。
次々と話しかけてくる諸侯や騎士らの相手をしている途中に、リオネルは「所用がある」と短く言い置いて部屋から出ていってしまったのだ。それから戻ってこないことに、フェリシエは苛立ちと不安を覚えていた。
気持ちを乱すフェリシエに、「それならば、お探しになってみては」と助言を与えたのは、ライラである。
フェリシエは喜々としてそれを実行した。
自分を置いて向かった先がアベルのところだったとしたら、それは、断じて赦せぬことである。もしそうなら、なにがなんでも連れ戻すつもりで来た。
だが、いないなら用はない。
死にかけているアベルを見舞うほど、フェリシエは呑気ではない。このまま死んでくれれば、これ以上の幸運はないと願っているのだから。
病人の顔も見ずに踵を返し、部屋を出ていこうとしたとき、フェリシエの耳に思いがけないクロードの言葉が飛びこんできた。
「リオネル様は、ついさきほどまでこちらにおられました」
「え?」
知りたかったことであったはずだが、それは、最も受け入れたくないものだった。
「今しがたまでアベルと話しておられましたが、山賊の首長が目覚めたと聞いて様子を見にいかれました。フェリシエ様には、ご足労をおかけいたし申しわけございません」
「アベルと……?」
山賊の首長のことなど、フェリシエにはどうでもよかった。
やはりリオネルはフェリシエをひとりにしておいて、アベルのもとに行ったのだ。
嫉妬と怒りで頭に血がのぼり、感情が爆発しそうになるのを、奥歯を強く噛みしめることでようやく抑える。
「さようでございます。アベルは先刻目覚めまして」
「そう……それはよかったわ」
そう言うフェリシエの瞳には、わずかな思いやりの欠片も宿っていない。
「ぜひ話がしたいわ」
「は、しかし、アベルは意識を取り戻したばかりです。容体が落ち着きましたら、本人を貴女様のもとへご挨拶に参らせましょう」
クロードが返答を渋ったのは、フェリシエの敵意を察したからではない。今の状態のアベルに、礼儀を尽くさねばならぬ相手と話させるのは、酷だと考えたからだ。
「できないというの?」
「……まだ体調が万全とはいえませんので。万が一、貴女様に失礼があっては申し開きができませぬ」
「そんなことはかまわないわ。リオネル様とは話したのでしょう? わたくしなどよりよほど高貴なあの方には非礼があってもよいのに、わたしにはあってはならないなどということはありませんもの。そうでしょう?」
フェリシエは食い下がったが、対するクロードも引き下がらなかった。
クロードは、リオネルに仕える家臣でもあるが、ベルリオーズ家の騎士や従騎士の上に立つ者でもある。彼らを守ることは、クロードの仕事のひとつなのだ。
「リオネル様は、主として深くアベルのことをご心配されております。多少の無礼などおかまいになられないのでしょう。しかしながら、もし貴女様に対して失礼があれば、アベルのみならず、他ならぬリオネル様が大変お気に病まれます」
思わぬ抵抗にあい、フェリシエの苛立ちは募っていく。だが、未来の公爵夫人として、ここは声を荒げるわけにはいかぬ。
「わたしも近い将来アベルの主人になるわ。あの子を心配する気持ちは、リオネル様に負けないつもりよ。労わりの言葉くらいかけさせてください、騎士隊長様」
「ならば、貴女様のお気持ち、必ずや私がアベルに伝えておきます。フェリシエ様から慰労のお言葉をいただければ、アベルも深く感激いたしましょう」
「どうしても直接話させてはくれないのね?」
苛立ちがもはや抑えきれないところまで高まり、声に怒りがにじみはじめたとき、クロードの背後から涼やかな声音が響いた。
「このようなところまで足をお運びいただき、感謝の言葉もございません」
緩慢な動作で寝台から降りたのは、とても動ける状態ではないはずのアベル。
このような無理をするのは、あくまで守ろうとしてくれるクロードを今度は自分が守るため、そして、多少強引ではあるが、自分のような者にも労わりの言葉をかけてくれるという、フェリシエの好意に応えるためだった。
ふらつき、足を引きずりながらもクロードの傍らを通り過ぎ、フェリシエの目前でひざまずく。それも、夜着に上着を羽織っただけの姿で。
「見苦しい姿をお見せし、誠に申しわけございません」
幾日ものあいだ目覚めなかった身体では、この体勢でいるだけでも悲鳴を上げたくなるほどの痛みを生ずる。
痛みをこらえて床にひざまずくアベルの姿を目にしたクロードは表情を曇らせ、一方、フェリシエは内心で喜んだ。
憎らしい相手を痛めつけることほどの快感は、他では感じたことのないような高揚感をもたらす。
けれどフェリシエの白い喉から発せられる声音は、信じられぬほどに優しい。
「アベル、別に起きあがらなくていいのよ。そんなつもりで言ったのではないの。あなたは横になっていてもかまわないわ」
「いいえ、大丈夫です」
アベルがこのように答えるのは、当然のことである。無理矢理に寝台に戻さぬかぎり、アベルがフェリシエのまえで休むことはないだろう。
そんなアベルの性格も、フェリシエは敏感に嗅ぎとっていた。
ひたむきで実直、人を疑わぬ性格だからこそ、余計に憎らしい。それは、己が持ちあわせておらぬ、とてもささやかなのに、だが一生かけてもフェリシエには得難いものだったからだ。
リオネルがこの少年を大切に想う理由が漠然とわかるからこそ、内面も、容姿さえ含めて、アベルの美しいところすべてが忌々しかった。