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「ヴィートは無事だ。きみは断じて彼の命を奪ったりしていない。だから、安心して目を開けていていいんだよ」
瞬時には、なにを言われたか理解ができない。
リオネルの言葉が、頭のなかを幾度も反芻する。
――ヴィートは無事だ。
――きみは彼の命を奪っていない。
――安心して目を開けていていいんだよ。
ヴィートが、死んでいない。
ヴィートが生きている。あの、心やさしい若者が――。
目を開けていていいのだと言われたのに、アベルはかたく目を閉ざした。開けていられなかった。
こぶしを強く握りしめ、そして、なにかに耐えるように横向きになって身体を折る。華奢な身体は、全身が小刻みに震えていた。
「アベル?」
その声に答えることができぬまま、アベルは嗚咽を漏らした。自分が涙を流していることに、すぐには気づけなかった。
生きている。ヴィートが生きている。その喜びと、己が犯した罪からの解放とが、アベルの胸をしめらせていった。
震えるアベルの肩に、リオネルがそっと手を置く。
こんなにも苦しませてしまったという自責の念が、リオネルのなかで湧きあがった。
たったひとりで『騎士の間』を守り、ブラーガと戦わねばならなかったときはどれほど心細かったことか。そして、ヴィートを刺さねばならなかったときの気持ちは……。
アベルを危険な目に遭わせ、そのうえ、このような思いをさせてしまったことについて、リオネルは自分の至らなさを感じていた。
肩に触れていたリオネルの手が離れ、アベルの目の縁からこぼれ出る涙をそっとぬぐう。
「すみません」
明瞭になっていく意識が、主人に涙をぬぐわせているということの恐れ多さをアベルに知らしめる。それでも、涙を止めることはできなかった。
あふれ出るのは、ヴィートが生きていることを知った喜び、そして、この青年がそばにいるという安心感だった。
自分がリオネルを守るべきなのに、彼のそばにいると、限りない安堵を覚える。
リオネルは強く、やさしい。
本当は、守っているのではない。
――守られているのは、自分だ。
幾度、この青年のまえで涙を流しているだろう。
リオネルの指先も、声音も、アベルを包みこむようだった。
「かまわないよ。涙を隠さなくていい」
その言葉に、さらに涙があふれ出る。
いつから自分はこんなに泣き虫になってしまったのだろうか。
この青年の前では、涙を隠すことができない。いや、隠さなくてもよいと、身体が知っているのかもしれない。
リオネルの瞳を前にすれば、そこからあふれ出るやさしさと果てしない赦しに、いつだって胸が突かれる。
アベルが泣き止むまで、リオネルはずっとアベルの髪をなでていた。
次第に落ち着いてきたアベルに、リオネルはそっと言葉をかける。
「おかえり」
泣きつかれた瞳で、アベルはリオネルを見て、はにかむような笑みを返した。
うまく言葉が探せない。
けれど、リオネルのひと言で、己がいるべき場所に無事に戻ることができたのだと心から感じた。そんな思いを乗せて、ほほえむ。
アベルの笑みを目にして、リオネルは痛みに耐えるように目を細めた。痛みを覚えたのは、締めつけられるように感じた胸の奥である。
痩せていっそう華奢になり、睫毛を濡らしながらほほえむアベルは、いつにもまして儚く、そして美しかった。
長い陰を携えながら窓から差しこむのは、春の気配を感じさせる薔薇色の陽光。
鮮やかなほど輝いたあとには、すべてのものがまたたくまに色を失っていく時刻。
この夕暮れ時に、消えてしまいそうなほどアベルは儚い。闇に消えてしまわないよう、思わず抱きとめ、深く、深く口づけしたくなるほどに。
その衝動を抑えるために、リオネルはアベルの髪から手を離して言った。
「首が痛むだろう。早く医師に診てもらったほうがいい。目覚めたことを知らせてこよう」
このまま二人だけでいたら、けっして伝えてはならぬことを口にしてしまいそうだった。今は使用人が室内にいないので、自分が呼びに行くしかない。この場を離れるよい機会だった。
だがリオネルが腰を浮かそうとすると、アベルは首を横に振った。
身体じゅうに倦怠感があって、思い通りに動かない。首は、表皮よりもどこか奥のほうが痛い。それでもアベルは首を横に振った。
「いやなのか? どうして?」
不思議そうに見返してくるリオネルの瞳から逃げるように、アベルは視線を伏せた。
「……身体のことか? すまないが、医者はすでにきみが――」
「……違います」
アベルは視線を上げた。
すっとリオネルを見上げる瞳は、懇願するような色をたたえている。そしてためらうように、アベルは指先でリオネルの手に触れた。
瞬間、息を呑んだリオネルに、声を絞るようにして伝えようとする。
「……で、ください……」
言い慣れぬ言葉に、アベルの声が小さくなる。
記憶にある限りの、ずっと幼いころから、甘えたことも我儘を言ったこともなかった。
父は厳格な人だったし、母親は病弱で甘えられる存在ではなかった。弟は幼く、自分がしっかりしなければ、といつだってそう思ってきた。
騎士を志す者として、そして、ひとりの子の母として、今もその状況には変わりはないはずだが。
けれどこの青年の前では、自分は、だれのあいだの子供でもなく、姉でも母でもない。無理をしなくてもよいと、この人の瞳はいつだって言ってくれている。
従騎士や、家臣の立場にこだわっているのは、自分自身だけだということも、よく分かっている。なぜなら、この人は強いから。アベルの微々たる力を必要とするほど、困ってはいないのだ。
いつだって、何度だって、リオネルは言外に伝えてくれる。
ただ生きてほしいと。
だから、だから勇気を出して唇を動かすのだ。
聞き取れなかったらしく、リオネルがやさしく問いかける。
「すまない、もう一度言ってくれないか」
「……ないでください」
「……え?」
心持ち耳を寄せるように首をかしげたリオネルの姿に、自分がとても幼い子供のように感じられて、恥ずかしくなる。
アベルは、早く伝えてしまいたくて、意を決して声を張りあげた。
――行かないでください。
それを言うことは、とてつもない勇気を要した。
己の気持ちをありのまま口にすることへの恐怖。
ずっと自分には許されていなかった気がしたし、それが叶えられなかったときのことを想像すると、今までどうしても伝えられなかった。
けれど、たしかにアベルはこのとき言ったのだ。
行かないで――、と。
ひとりにしないでほしい、と。
紫色の瞳がわずかに見開く。
その表情をまえにして返答を聞くのが怖くてどうしようもなくなり、アベルはリオネルから顔をそむけた。
……なんてことを口にしてしまったのだろう。
言った端から後悔が押し寄せる。
まるで五歳かそこらの子供の台詞だ。それも、近しい親族に対して駄々をこねるような。
そうとわかっていても口にしてしまったのは、心細かったから。
たとえ廊下に控えている召し使いに命じにいくだけだとしても、この部屋からリオネルがいなくなることが怖かった。
一度出ていってしまったら、もうリオネルは再びこの部屋には戻らないような気がしてならなかった。
空っぽの部屋に、空っぽの自分がひとりいる――そんな景色が脳裏に浮かび、想像しただけで涙がでそうになった。
ひとりは、怖い。
それだけアベルの心は弱っていたのかもしれない。
「きみは五日間も意識がなかった」
「…………」
顔をそむけたままのアベルに向けて、リオネルが落ち着いた口調で言う。
そんなにも長いあいだ自分は眠っていたのかと驚くと同時に、そのあとに続く言葉を想像してアベルの心はしぼんだ。
五日間も意識がなく、皆に心配をかけたのだから、すぐに医者に診てもらうべきであることは、アベルにもよくわかる。わかるからこそ、己の口走ったことの子供っぽさに、いたたまれない気持ちになった。
だが、次にアベルに届いたのは言葉ではなく、いったん離れてしまっていた手のぬくもりだった。
向こう側を向いてしまったアベルの頭に、リオネルがそっと触れたのだ。
「ここにいるよ」
静かな湖面のように、穏やかな声だった。
頑なになっていたアベルの心が、すっとほどけていく。
「だから、顔をそむけないでくれ」
ためらいながら、アベルはゆっくりリオネルに向きなおる。
リオネルに呆れられていないか不安だった。分別のない幼稚な人間と、思われなかっただろうか……。
不安げな眼差しで振り向いたアベルへ、
「五日間、きみはひとりで夢のなかをさまよっていた。それなのに、目覚めてすぐにだれもいなくなったら心細いに違いない。気が利かなくて、すまない」
おれはどこにもいかないから、とリオネルがほほえむ。
「…………」
なんと返答してよいのかわからなくなったのは、思いもかけない言葉だったからだ。
いつもこの人には驚かされる。
いつだって相手の気持ちのとても奥深い部分を、察するのだ。
嬉しさと、かすかな恥ずかしさで、アベルはリオネルの顔から少し視線を下げて、ほんのりと笑んだ。
「ありがとうございます」
とても素直な、感謝の気持ちだった。
そんなアベルを前に、リオネルも再び口元をほころばせる。
死の淵をさまよっていたのだ。どんなに心の強い者でも、気弱になるだろう。だからこそ、アベルが自分を頼ってきたのだということも、リオネルにはよくわかっていた。
それでも、嬉しかった。
そばにいてほしいとアベルが口にした――こんなふうに、いつも自分を頼ってくれたなら。
いや、自分でなくともよい。だれかに救いを求めてくれるのならば、それでもよい。ひとりきりで耐えないでほしいのだ。
むろん救いを求める相手が、自分だったらなお幸福であるということは確かだ。
彼女にとって、己が頼るにたる男でありたいと、リオネルは思う。
「ヴィートの怪我の具合はどうですか?」
「順調に回復している。医者も驚くくらいに」
「――そうですか」
安堵したアベルの表情を、リオネルは目を細めて見やる。
「皆、きみが目を覚ましたと聞いたら飛び上がって喜ぶだろうね。ヴィートはむろん、ベルトラン、ディルク、レオン、マチアス、クロード、ラザール、他の騎士たちも、とても心配していた」
「すみません、朝寝坊が過ぎたみたいです」
いたずらっぽく笑ったアベルに、リオネルはやや虚をつかれ、そして一拍おいてからおかしそうに笑った。
「そんな冗談を言う元気があるとは思わなかった」
「本当のことです。山賊が夜襲をしかけてくるまで、わたしはほとんど眠っていませんでしたから。五日間、死の淵をさまよっていたというよりは、ずっと足りなかった睡眠を満たしていたのだと思います」
山賊が夜襲をしかけてくるまで、という言葉にリオネルの胸がうずく。あの夜、アベルを助けにいくことができなかったことで、リオネルは己自身を責めつづけていた。
「よく覚えていないのですが、わたしが途中で目を覚ましたのは、あそこはカザドシュ山だったのでしょうか。気がついたときには、いくつもの剣が撃ちあう音が響き、あなたは……あの山賊と戦っていました」
やわらかな表情のままリオネルは頷いた。
「カザドシュ山だ。……すべては終わったよ。山賊は捕らえ、抵抗した者は斬った。逃れた賊も、首長を討たれて完全に統率力を失っている。連合軍の被害は微少なものだ。我々は勝利したといっていいだろう」
言葉をいったん切ってから、固唾を飲んで話に聞き入るアベルへ、リオネルはとても優しい瞳を向ける。
「だから、もうきみはなにも心配しなくていい」
「『騎士の間』を守りきることができず、そのうえ何日間も惰眠をむさぼりつづけ……リオネル様をはじめ皆様には多大なるご迷惑をおかけしました」
「それは違う」
アベルが言い終えるのとほぼ同時に、リオネルはやや強い口調で言った。
「謝らなければならないのはおれのほうだ」
固い声音に、アベルは戸惑いつつリオネルを見上げる。リオネルが謝らなければならないことなど、アベルにはひとつも思い浮かばない。
「きみは『騎士の間』を充分に守り抜いた。あの部屋にいた手負いの騎士たちも医師も、きみのおかげで皆無事だった。それなのにひとりで戦っていたきみを、おれもベルトランも、守ってやることができなかった……そして、ひどい目に遭わせてしまった。心からすまなかったと思っている」
声を低めて謝罪するリオネルに、アベルはどうしてよいのかわからなくなってしまう。
当然のことをしただけだ。騎士の端くれとして、守らなければならないものを守ろうとしただけ。
逆にリオネルや周囲にどれほどの迷惑をかけたことか。
リオネルは、アベルを守らなければならぬような立場にはいない。それなのに。
「もしきみがあのまま死んでいたら、おれは生涯自分を赦すことができなかっただろう」
「そんなこと――」
「正直な気持ちだ」
真摯な眼差しに射抜かれて、アベルは言葉を失う。
……美しい紫色に酔うように、なにも考えられなくなる。
「二度とアベルを危険な目に遭わせたくない。もう二度と、だ」
戸惑うようにリオネルの双眸を交互に見つめてから、アベルはようやく言葉を口にする。
「……これからは、寝不足と、そのあとの寝坊には気をつけます」
ふっと力を抜くように笑んだリオネルは、
「寝不足はよくないが、寝坊はかまわないよ。好きなだけ寝ているといい」
「そういうわけにはまいりません。リオネル様はわたしを甘やかしすぎるのです。最年少であり、本当は女性だから、と気遣ってくださることには恐縮しますが、わたしは男としてあなたにお仕えする家臣であり、従騎士です」
「……そうだったね」
整いすぎた顔立ちに、寂しさのにじむ微笑を浮かべ、リオネルは小さくうなずいてみせた。
「だけど、きみが大人しく寝ていてくれたおかげで、足の怪我も、首のほうも、だいぶよくなってきていると医者は言っていた」
――あとは、目覚めるのを待つだけ、この少女の生きようとする気持ちを信じるだけだ、と。
そしてアベルは、再び、戻ってきてくれた。
恋愛感情でなくともよい。家臣としての忠誠心からでもかまわないのだ。アベルが生きたいと願い、こうして自分のもとへ戻ってきてくれるのならば。
「家臣であり、従騎士であるきみが怪我をしたままだと、働くことはおろか動くこともできないだろう? しっかりと朝寝坊して傷を治すのも、きみの仕事だ」
議論においては一段上をいくリオネルに、アベルは口を引き結ぶ。怪我をしていてはどうにもならないことは確かだ。
懸命に言い返す言葉を探し、
「では、怪我が治ったらすぐに起き上がり、リオネル様をお守りしてもよいのですね?」
と不敵に笑ってみる。
だが、返ってきたのは、落ち着きはらった微笑。
「もちろん。だから、早く元気になってほしい」
うまく言いくるめられてしまったような気もしたが、これらの言葉のなかに込められている優しさに気づかないアベルではない。悔しさよりも、あたたかい気持ちのほうがはるかに勝った。
――この人に出会えて、よかった。
――一生この人のそばにいたい。
そんな思いが胸の奥に小さな炎のように灯る。
そのとき、扉をたたく音がして、リオネルはわずかな警戒心を込めて扉口へ視線を向けた。
瞬時にアベルに動かぬよう目配せしてから、扉の前まで歩み、扉を開けることなくリオネルは相手の名を尋ねた。