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「私は、下級貴族と農民のあいだの子です。伯爵家と公爵家の血を引くカミーユ様のご身分からすれば、かけ離れた場所にいる者です。本来ならおそば近くにいることも許されぬほどに」
「おれはそんなふうには思わないよ。貴族社会にどういう考えがあろうとも、トゥーサンは、姉さんやおれのそばにいなければならない人だ」
目を細めてトゥーサンはうつむき、ほほえんだ。
優しい主人だ。
純粋で勝気で、曲がったことが嫌いな十三歳の主人は、近頃、姉のシャンティに性格がよく似てきたような気がする。
「もったいないお言葉です、カミーユ様」
「それで、エマはヴィゾン邸を出て、トゥーサンの親父さんと結婚したの?」
話の続きを催促するカミーユに、トゥーサンはうなずく。
「はい。結婚して、端くれだったといえども貴族という身分を捨て、農民の妻となりました。村の小さな礼拝堂で婚礼も挙げたそうです」
「そうか、それじゃあ、幸せになったんだね」
「それは本人にしかわかりませんが……そうですね、おそらく幸せだったのだと思います。父が死ぬまでは」
カミーユが沈痛な面持ちになる。
「なんで死んだんだ?」
「病気です」
「二人はどれくらいいっしょにいられたの?」
「父は私が五歳のときに亡くなったので、二人が過ごしたのも五年ほどでしょう」
「短いね。かわいそうだ」
「そのとき母は二人目の子供を宿していました。……父が死んだのは、その子が産まれる直前のことです」
はっとした表情になったカミーユは、懇願するようにしてトゥーサンの瞳を見つめる。
トゥーサンに兄弟がいるとは聞いたことがない。過ぎ去りし出来事とは知りつつも、それでも、これ以上エマが不幸な運命を生きていないことをカミーユは願った。
そんな主人の思いに気がつき、トゥーサンは瞼を伏せる。カミーユの柔らかな心を、真実という名の鋭利な刃物で傷つけなければならないからだ。
真実とは多くの場合、ひどく残酷だ。
「お腹の子は……残念ですが」
「…………」
「父の死のせいもあったのでしょう。父の死と、お腹の子の死、その二つの哀しみから母は絶望のどん底に突き落とされました」
視線を落としてカミーユは唇を噛む。
神様は、ひどい。
どうして、あんなに真面目で優しいエマに、このようなむごい運命を課すのだろう。
館を追いだされたエマ。
お腹にいたはずの子。
それは、姉の姿とも重なった。
……シャンティのお腹にいた子供は、無事に生まれただろうか。
神は無情だと、カミーユは思う。
この世の中には、もっと手痛い目に遭うべき悪人がいくらでもいるはずなのに。誠実で賢明に生きる人間の手ばかりから、神は大切なものを奪っていくような気がした。
「貴族として育ってきた母は、幼い私を抱え、糧を得ることなどできるはずもなく、『路頭に迷うくらいならいっそ』と自ら命を絶つことも考えたそうです」
「死んだらだめだ。死んだら、もうなにも、なんにもないじゃないか」
「……そうですね」
過去のエマにではなく、手の届かぬところにいってしまったシャンティに向けてカミーユは言っているのではないかと、トゥーサンは思った。
「そのとおりだと思います……それがわからなくなるほど追いつめられていた母ですが、先代のデュノア伯爵夫人に救われたのですよ」
突如、重苦しい表情だったカミーユの目が輝いた。
「祖母上に?」
「はい。大奥様はヴィゾン邸に訪れた際に、侍女として働いていた母と話す機会があったそうです。なにがあの方のお心に留まったのかはわかりませんが、母のことを覚えていてくださり、その後、母が夫を失くし、飲まれることのない乳を搾りながら泣き暮らしていることを風の便りに聞き、シャンティ様の乳母というお役目をお与えくださったのだと聞いています」
へえ、とカミーユは感心したようにトゥーサンの話に聞き入っている。
「そのとき母はシャンティ様を育てることで、子を失った哀しみから救われたのだと思います。精神という面からも、生活という面からも、大奥様に助けられたといえるでしょう」
「そうだったのか」
なにかを思い浮かべるようにうつむきながら、カミーユは心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
「エマのお腹にいた赤ちゃんが飲むはずだった乳は、姉さんが飲んだんだ」
少年の言葉に、トゥーサンは小さく笑う。
「そうですね。そういうことになります」
だからこそ、エマにとってシャンティは実の子同然か、むしろ先代の伯爵夫人に対する恩義も加わって、いっそう大切な、大切な姫であったに違いない。
「祖母上は、いいことをしたんだね。会ったことない人だけど、きっと優しい方だったんだ。トゥーサンはそのとき五歳だったなら、祖母上のことを覚えているんだろう?」
「いいえ」
わずかに声の調子を落として、トゥーサンは首を横に振る。
「当時、私はローブルグ国境近くにあるデュノア家の別邸に預けられていましたから」
エマが乳母としての仕事で忙しく、面倒を見きれなかったためだろう。別邸といってもさして大きな屋敷ではなかったが、国境沿いにあるため異国の情緒も感じられるその場所で、二年のあいだトゥーサンは使用人らに面倒を見てもらっていた。
「ここへ連れてこられたのは、貴方がお生まれになる直前、つまり、大奥様がちょうど亡くなられたばかりのころです」
「姉さんが産まれたときからトゥーサンはそばにいたのだと思ってた。そうしたら、トゥーサンは寂しかっただろう? たったの五歳で二年ものあいだ、母親と離れていたんだから」
「……寂しくなかったといえば嘘になりますが、でも耐えられましたよ。母の辛さがわかっていましたからね。母は必死だったのでしょう。私をどうにかして物乞いにも孤児にもしないために、自分が働かなくてはならないと」
「最初からエマといっしょに、ここに来ることができればよかったのにね」
「…………」
無邪気な優しさからくるカミーユの台詞に、トゥーサンは無言になる。遠くを見据えるような表情に差したわずかな影。だが、そのことに少年は気がつかなかった。
「そうか、残念だな。トゥーサンから祖母上のことをいろいろ聞けたらよかったのに」
トゥーサンは影を振り切るように一度だけまばたきをしてから、カミーユへ優しい笑顔を向けた。
「母や、貴方のお父上様に聞けば、きっと教えてくれますよ」
「うん、決めた。やっぱりトゥーサンもいっしょに王宮へいこう。これはおれが決めたんだ。もう決まったことだよ」
再び話がふりだしに戻ったので、トゥーサンは困った面持ちになる。
「カミーユ様、話の流れがよく見えないのですが。なぜ、今までの話と、私が王宮に赴く話が結びつくのですか」
「それはさ、簡単なことだよ」
カミーユは立ち上がり、服についた汚れを軽く払いながら言った。
「トゥーサンは小さいころ、エマに置いていかれて寂しかっただろう? 今度は、ちゃんとおれが連れていってあげるよ」
はっとした表情になるトゥーサンに、今度はカミーユが優しく笑いかける。
「いっしょにいこう」
その笑顔が直視できなかったのは、彼の上に差しこむように照る落日の陽光が眩しかったからだけではない。
潤んでいく瞳を、主人に見られぬようにするためであった。
遠い過去の記憶からよみがえる思いが、今、瞼の裏を熱くする。
そしてそれは鮮やかに今、浄化されていく。
大人ぶって答えたことなど、この幼い主人にはたやすく見破られていたのかもしれない。
――寂しくなかったといえば嘘になりますが、でも耐えられましたよ。
――母の辛さがわかっていましたからね。
そんなの嘘だ。
『母のことは忘れなさい』
あのときのエマの言葉。
寂しくて、哀しくて、心が引きちぎられるようだった。
もうずっと会えないと言われていた。『ずっと』というのが、どれほどの期間なのか、トゥーサンはひとりになってから度々考えた。
思いもかけず、突然デュノア家本邸に呼び寄せられたのは、それから二年後のことだった。
デュノア邸の前庭で、馬車から降り立った七歳のトゥーサンを抱きしめたエマは、長いあいだ泣いていた。
再会できた喜びよりも、見知らぬ土地に置いていかれ二年間会えなかった恨みよりも、母親があまりに長いことトゥーサンを強く抱きしめ泣いていたので、そのことの驚きのほうが大きかったことを覚えている。
母は、とても哀しそうに泣いていたのだ。
かける言葉も、思いつかないほどに。
これから共に生活できるのだという喜びがトゥーサンの胸にこみあげてきたのは、もうしばらくたって落ちついてからだった。
母親と共に生活ができるようになったうえに、その直後から、デュノア家の二人の高貴な子供たちの目付役にまで命じられた。その後、騎士として叙勲することを許され、カミーユの従者にまで登用された。
ずっと別邸で生活するようにと当初告げられていたことが、まるで幻だったかのような、トゥーサンの立場の変化だった。
だがそれも、今となっては過去の話。
痛みなど、とうに忘れてしまっているはずだった。
十三歳の主人に呼び起され、そして浄化された過去の痛みは、トゥーサンの身体の奥底へ、すとんと落ちていく。
「ここから違う場所へ行くことに、おれは希望を抱いているんだ」
「希望?」
やりすごした涙の痕跡を見られぬように大きく瞳を開いて、トゥーサンは立ちあがったカミーユを見上げる。
「この領地から追放されたのだから、姉さんはきっとデュノア領にはいない。それなら、ここから出るということは少しでも姉さんに会える可能性が高くなるというころだろう?」
「なるほど」
厚い雲の切れ目からのぞく青空。
次第に広がっていくその色は、陽が落ちるにつれて徐々に鮮やかさを増していく。
「今、私は無性にシャンティ様にお会いしとうございます」
「おれは、いつもだ」
いつだって、姉のシャンティに会いたくてしかたがない。
不意に柔らかく吹きすぎたのは、懐かしい香りを乗せた風。
……春が来る。
「ここから出て、姉さんをいっしょに探しにいこう、トゥーサン」
カミーユを見上げる青年の瞳が、眩しげに細められる。
騎士に叙勲された日から、生涯の忠誠をこの人に捧げた。
仰ぐべき主人のある幸福。
トゥーサンは、胸に込み上げてくる熱い想いを噛みしめ、そして、答える。
「お供いたします」
――どこまでも。
+++
『混乱している』という表現が、最も近いだろう。
脳裏に浮かんだのは、水しぶきが激しく跳ね上がる光景だった。
――苦しい。息ができない。
首にからみつく、男の手。
空気をもとめて夢中で相手の手をはがそうとするが、なぜだか、まったく違う感覚に陥る――空気を求めて水面に顔を上げようとする感覚だ。
苦しい。
――溺れる。
そう思うのだ。
地に触れぬ足元が、全身を恐怖に震わせる。
気が狂うほどの混乱と恐怖。
これを、「既視感」と呼ぶのだろうか。首を絞められて息ができぬ苦しさは、水中で溺れる恐怖を呼び起こす。
……溺れたことなど、一度もないのに。
水が怖いと思ったことなど、これまでなかったはずなのに。
――怖い。
怖いのだ。
息をしようとして、多量の水を飲みこむ。胃と、肺のほうにも水が流れ込み、激しく咳きこむ。
――苦しいよ。
………………。
思い浮かべた優しい面差し。
溺れていく。
水の底から上を見上げると、水面は赤く輝いていた。
赤い。
血の赤。
誰かが水面に浮かんでいる。
若い男だ。
身体を長剣で貫かれた若者――うつろな褐色の瞳は、彼の命がすでにないことを物語っていた。
――ああ、そうだ。
彼は、わたしが刺した人。
わたしが、殺した。心から慕う、優しい山賊。
――ヴィート。
自分の、この手で殺したのだ。
もがいていたはずの身体から、力が抜けていく。
水の底へ沈んでいく運命から抗うことをやめる。
……沈んで、消えてしまえばいい。すべての痛みとともに、水中の奥底へ沈み、消えてしまえばいい。
かけめぐる記憶の残像は――。
あの人の嘆き哀しむ顔。
そして、もうひとりの、苦しみの果てに狂気をにじませた瞳。
狂ったような豪雨。
痛み。
父の修羅のような形相、その烈火が燃えるがごとき怒り。
弟の泣き叫ぶ声。
指の付け根から手首に伝う血は、誰のものだっただろう。
――目に痛いほどの、白い包帯。
そして、あの若者を刺したときの、たしかな手ごたえ。剣の束に感じた衝撃はたしかに、若々しい肉体に冷たい鉄の塊を突きたてたときのもの。
彼に仲間を裏切らせたのは、他ならぬ自分だったというのに。
すべては己が招いた結果。
どれほどのものを、自分は傷つけてきたのだろう。どれだけの罪を、自分は犯してきたのだろう。
沈んでいってしまえばいい。この罪を抱いて。
……呼吸が、できない。
意識が薄れていく……薄れていく……。
そのなか、最後に見えたのは、優しい笑顔たち。
皆が書斎の椅子に腰かけ、葡萄酒を片手に、楽しげに談笑している。
そのうちのひとりがこちらを振り返り、片手をあげた。
『アベル、そんなところにいないで、こちらへおいでよ』
――ディルク様……。
『あ、アベル。ようやく来たのか』
つられて振り返り、難しそうな本を傍らに置きながら言ったのは、レオン。
足が固まったように動けないでいると、さっと立ち上がり、歩み寄ってきた者がいた。
均整のとれた長身の青年。彼は目前まで来ると、深い紫色の瞳でそっとほほえむ。
それを目にして、ちくりと心臓が痛みを覚えるのは、なぜなのか。
『蜂蜜酒も用意してある。アベル、好きだろう?』
大きく見開いた水色の瞳が、じんわりと水をたたえる。
『早く飲まないと冷めるぞ、アベル』
笑みを含んだ声で忠告するベルトランに、ディルクは蜂蜜酒の杯を片手で触れながら、
『もう覚めちゃったんじゃないか?』
と首をかしげる。
『私が新しいものを取りに行きます。アベル殿はここで休んでいてください』
マチアスが扉口へ向かおうとする。
そこにいるだれもが、優しかった。
皆が親しげに呼んでいる名は――『アベル』。
そう、それが、自分の名前。これだけが、今の自分が持っている唯一確かなもの。
その名を、皆が、親しみを込めて呼んでくれるのなら……。
――ここにいる人たちの存在も、アベルにとって確かなものなのかもしれない。
『どうかした?』
動こうとしないアベルを、リオネルが促す。
それでもアベルはためらった。
……沈みかけていた身体……。
傷つけてきた多くのもの。
失った多くのもの。
…………。
『さあ、おいで』
はっとする。
冷えきった手を、あたたかな手が包む。
強くたくましいその手は、そっと、だが、けっして離すまいとするようにアベルのほっそりとした手を握りしめている。
『怖がらなくていい。おれがいるから。戻っておいで』
その手に引かれて、アベルは一歩前へ踏み出した。
アベルの心を覆っていた水が引いていく。
溺れていたはずの身体が、上へ、上へと浮上する。
しっかりと手を握っているのは、リオネル。
水中から見上げた水面が、キラキラと光の粒を浮かべて光り輝いている。
眩しい。
なんて綺麗なんだろう……。
――戻っておいで、アベル。
…………。
美しいと思った。
美しい、紫色だった。
「アベル?」
自分の名を呼ぶ声が、心地よく、懐かしい。
幾日この声を耳にしていなかっただろう。
ひどく重く感じられる瞼を、どうにか開けて見るぼやけた視界には、深い紫。
どれほどこの色から遠い場所に、自分はいたのだろう。
身体が動かない。それでも不安を感じないのは、アベルの手を、しっかりと握ってくれている、あたたかい手があるからだ。
水の底に沈んでいくアベルの身体を、引き上げてくれた手。
――夢の続きがここにある。
いつだって、この手がアベルをこの世界につなぎとめてくれる。
「気が……ついたのか」
ぼやけた視界では相手の表情は知ることができなかったが、その声が途切れそうなほど、かすれていることだけはわかった。
なにか答える代わりに、かすかに口元を笑ませたのは、無意識のうちにも相手を安心させるためだ。
「ああ、アベル……」
低く名を呼び、大きく息を吐きながら、リオネルはアベルの手をあらためて握りしめる。その声ににじんでいるのは、深い愛情と安堵だった。
アベルは目を閉じた。
見ていた夢の断片と、そしてこれまでの記憶とが徐々に混じりあい、消化され、現実の出来事だけが鮮明になっていく。
とても長いあいだ、夢を見ていたような気がする。
幼いころから寝起きが悪かったアベルにとって、長い夢のあとはいつも心細かった。
ふと、自分がだれなのか思い出せなくなる。
この世でたったひとり、取り残されてしまったような気持ちになる。まるで、大陸の周囲を囲っているという果てのない海の真ん中に浮かぶ、舵を失った一槽の小舟のように。
けれど今、アベルがいるところはそうじゃない。
アベルの船は、どれだけ陸から離れていても、リオネルという強い手綱によって、港につなぎとめられている。
それは、アベルの心をかつてないほど落ち着かせた。
長い夢から覚めたとき、いつもこの人がいてくれたなら――。
素直にそう思ったのは、自らの立場、相手の身分、貴族社会の掟……そういったものをはっきりと思い出せていなかったからかもしれない。
明瞭になりつつあったのは、意識を失う直前の記憶。
自分より強い相手をまえに剣を構えたときの恐怖、首に感じた苦痛、失われていく現実感、そして朦朧とした状態で目にした、山賊と戦うリオネルの姿、未だに手のひらに残っているヴィートを刺したときの感触……。
リオネルに手をとられている心地よさのなかで、アベルは双眸を閉じ、懸命に現実と、恐怖と、そして哀しみと向きあおうとしていた。そのとき。
「もう一度、目を、開けてくれないか」
遠慮がちに問われて、まだ脳内が焦点を結んでおらぬまま、アベルはゆっくりと瞼を開く。
ほっとしたような瞳が、すぐそばからアベルの顔を覗きこんでいた。
あたたかい眼差し。
もし思考力が完全に回復していたら、このように手をとられ、リオネルから見つめられて、アベルは冷静でいられなかっただろう。ぼんやりとした状態だったからこそ、相手の瞳を見つめ返すことができた。
透明な空色の瞳が、まるでなにかを取り戻そうとするように、まっすぐにリオネルを見つめる。それは、心細そうでもあり、さみしそうでもあり、助けをもとめているようでもある。
ただ純粋に、リオネルに全幅の信頼を寄せ、頼りきっている瞳だ。
そんなアベルの姿に、リオネルは胸からあふれでる感情をもどかしく覚えながら、微笑を向ける。
アベルが今どのような状態にあるのかリオネルはわかっていたが、だからこそ、真っ先に知らせてやりたいことがあった。