112
――アベル殿を、愛していらっしゃるのですか。
その質問に、わずかにベルトランの表情が動いたが、リオネルは視線をアベルに向けたままである。
ようやくフェリシエを客間に残して、リオネルはアベルのそばに来ることができた。
この少女が、まだたしかに呼吸をしており、安らかな表情で眠っているということが、どれほどリオネルを安心させたことか。
彼女が生きているということが、どれほどリオネルにとって意味のあることか。
胸に宿る感情を、言いあらわすことなどできない。けれど、人はこのような思いを、マチアスが口にした言葉で表すのだろう。
「ああ」
――アベルを、愛している。
質問に答えたのは、まるで黎明の湖面を思わせるような、穏やかな声だった。
リオネルはマチアスに真実を告げた。女性と知られた以上、自分がアベルに対して抱く想いを隠す必要もないし、それを知ったとて、マチアスがだれかに話すことなどないと信じられるからだ。
マチアスは双眸を閉じる。
完全に確信したわけではない。
それでも疑念は、徐々に重たい現実となっていく。
――十三歳のときに、池でおぼれて死んだ少女。
――十三歳のときに、リオネルに救われた少女。
空色の瞳。
蜂蜜酒。
デュノア家の少年が浮かべるような、屈託のない笑顔。
どこか、あの伯爵を思わせる顔立ち。
それが、現実でないことを、願ってやまない。
死んだ婚約者のことを思い続けるディルクと、アベルを愛するリオネル。無二の親友である青年二人が、もし同一の人物に想いを寄せているとすれば――。
そして。
『わたしには、子供がいます』
あの夜、バルコニーで聞こえてきた言葉は、これだけだった。
十三歳の少女の身に、なにが起こったのか。
それ以上知ることを、マチアスは恐怖した。
しばらく無言だったマチアスは、リオネルに一礼する。それが、マチアスがディルクのもとに戻るという意味であることを、リオネルもベルトランもすぐに理解する。
「すまない」
リオネルはそのときようやくアベルから視線を外して、近くに立つマチアスを見た。
――すまない。
そう言ったのは、アベルについて知ったことを、マチアスが安易にディルクに告げぬことを知っていたためである。主人であるディルクに隠し事をさせることへの、詫びであった。
軽く口端を上げると、再びマチアスは一礼して、部屋を辞す。
重い扉を閉めてから、マチアスは瞳を閉じ、自らを落ちつかせるように大きく息を吐きだした。
マチアスが抱え込んでいる秘密は、主人に対してだけではなかった。
……おそらくリオネルも、ベルトランも、だれもアベルの出自を知らない。もし疑念が現実であったなら、自分は主人であるディルクにも、かの青年にも、大きな隠し事をせねばならなくなってしまったことになる。
マチアスが抱え込んだものは、リオネルが想像するよりもはるかに重たいものだった。
寝室からマチアスがいなくなると、ベルトランもまた扉口へ向かう。
「おまえはここにいろ。おれは下の様子を見てくる」
階下の様子を見てくるというのは、到着したばかりのフェリシエのことでもあり、諸侯らのことでもあり、捕らえた山賊らのことでもあり、ヴィートやブラーガのことでもあった。つまり、細かいことは自分がやっておくから、リオネルはアベルのそばにいたらよい、という意味である。
「ありがとう、ベルトラン」
「いいや――」
扉の取手を握りながら、ベルトランはリオネルを振り返った。なにか言いたいことがあるのかと、リオネルは不思議そうにベルトランを見返す。
するとベルトランは、ぼそりと言った。
「――おまえの口づけなら、目覚めるかもしれないぞ」
少し驚いたような顔になった主人に、ベルトランはかすかに笑んでから、扉を開けて部屋を出ていった。
扉が閉まると、リオネルは再び視線をアベルへ移す。
無責任なことを言い置いていってくれたものだと、リオネルは心中でぼやく。
子供たちならまだしも、好きでもない大人の男から、眠っているあいだに勝手に口づけされたら、普通の女性はいやだろう。
アベルは、リオネルに惚れていない。
そのことを、リオネルは痛いほどわかっている。
彼女が自分に向ける忠誠心を、愛情と錯覚できれば、どれほど幸福だろう。
けれど、それでも、わずかに信じたい気持ちがある。
お伽話のなかの、決まりごと。
アベルが目覚める瞬間が、来ることを。
愛しい女性を目覚めさせるのが、自分であったなら。
夢物語だと知っていても、藁にもすがる思いでそれを信じてみたかった。
彼女の唇に、自分の唇を重ねることはできない。
だからせめて――。
リオネルは、寝台の傍らに片膝をつき、そっとアベルの手をとった。
優雅なしぐさで、白くなめらかなアベルの手の甲へ口づけを落とす。
手の甲に口づけるのは身分の高い貴婦人に対する挨拶であるが、床に膝をついたこの姿勢においては、愛を伝えるしぐさである。
言葉にも形にもできぬ、己のなかにある気持ちのすべてが、手の甲から伝わればいい。
目を閉じる。
そして祈った。
――戻っておいで、アベル。
いますこしで夕餉の時刻。
窓の外で風が動いた。
厚い雲が流れる。
雲の割れ目から陽光がこぼれ、地上に一本の光の筋を投げかけた――かつて人がそこから天使が地上に舞い降りるのを見たという、「天使の梯子」。
瞬間、部屋に明るい光が差し込む。
まばゆい陽光を受け、世界は、これまでとはまるで違った色彩を持つ。
地上に、すべての彩りが戻ったようだった。
細い指先が、わずかに揺れる。
リオネルの唇に、たしかに伝わるその振動。
青年の、紫水晶のような瞳の奥に灯った、希望の光。
雲間からのぞいた、水色の空。
――――時間が、再び動き出す。
+++
『ママ、お願い、ぼくを置いていかないで』
砂埃を舞いあげて、馬車が走り去っていく。伯爵家の紋章の入った、美しい馬車だった。
それを見送る五歳の少年の心を、だれが理解してやれただろう。
そして、そのとき馬車に乗っていた母親の苦しみを、だれが想像できただろう。
『ぼく、いい子にしているから……。働くよ、なんだってやる。絶対に文句を言ったり、泣いたりしないから。ママの迷惑になったりしないから』
――だから、ママのそばにいさせて。
――こんなところにひとり置いていかないで。
馬車が走りだすまえに交わされた会話が、二人の心を救うことはなかった。
『わがままを言ってはいけません。父親のないあなたが、毎日ご飯を食べ、綺麗なお召し物を着て、きちんとした教育が受けられるようにするために、わたしは働くのよ』
『そんなのいらない。今までどおりでいい。汚い服でいい、教育なんていらない、ご飯も食べなくていい。お願い、ママと一緒にいたい』
少年の切なる願い。
母の、想い。
子は母の気持ちを知ることはなく、また母は子の想いを知っていても、その願いを聞き届けてやることができない。
『あなたはこれから何不自由なく暮らせるわ。だから』
だから。
『母のことは忘れなさい』
それを口にしたときの母の痛み。
それを聞いたときの少年の痛み。
――なにもいらないよ。
ただママのそばにいたいだけなんだ。
子の言葉が、すでに傷つき疲れ果てた母親の胸を、いかばかりえぐったことか。
……馬車が走り去っていく。
母親は、共にいたいと懇願する息子に、なにも伝えられなかった。
なにも伝えられることのなかった少年は、運命の糸がいずれ己を明るい場所へ導いてくれることを、信じて待つしかなかった。
カミーユの背中には、冷やかな芝生が感じられた。
秋の終わりごろから薄い茶色に染まっていた芝生は、なにかに追いつこうとするかのように、もしくはなにかに急きたてられるように、ようやくところどころ淡い緑に色づきはじめている。
眩しい。
彼が眩しいと思ったのは、芝の青さではなく、空から差し込んだ鮮やかな光だった。
重くたれこめていた空から、幾日かぶりに垣間見えたのは、乳白色に透ける陽光。
けれど、芝生は長いこと太陽の光を浴びていなかったせいか、陽光を受けても、青空の色を忘れてしまっているように元気がなかった。
その様子は、未だに館の自室でふさぎこんでいる、痩せた乳母の姿を思い起こさせる。
馳走でもてなし、元気づけようとしたのは一週間前のこと。だが、エマは気力を取り戻すことはなかった。
首飾りの存在が重かったのだろうか。
あの日、姉のシャンティが身につけていた瑠璃の首飾りを目にしてからエマはずっと泣いていた。カミーユも、トゥーサンも、どうすることもできなかった。
今、首飾りはカミーユの手元にはない。
エマは、はっきり「受けとる」とは口にしなかったが、その手から離すこともなかった。
自分には受けとる資格がない。
それでも、その手のなかに握りしめていたい――。
先代の伯爵夫人、そして、シャンティの存在を感じていたい。
そんなふうに見えた。
だが一方で、首飾りが近くにあればあるほど、その所有者の存在を感じれば感じるほど、己を責める気持ちは一層強まるようだった。
カミーユは、エマにとって本当によいことをしたのかどうか、確信が持てなかった。
責めるためではない。元気になってもらうために、ささやかな宴会を開き、あの首飾りを預けようと思ったのに。
結果は、これまで以上に彼女を苦しめることになってしまったのではないだろうか。
日暮時。
暗黒色の雲。
その合間から垣間見える、淡い水色の空が美しい。
――眩しい。
「姉さん……」
つぶやいたのは、無意識のうちだった。
――姉さん、今、どうしてる?
――姉さん、貴女がいなくてエマはとても落ちこんでいるよ。
細められた少年の青灰色の瞳には、悲哀の色がにじむ。
落ちこまないようにしてきた。
もう涙は流すまいと。
シャンティがこの館を去ったのは十三歳のとき。
あの悪夢のような日から、彼女は己に課せられた辛く苦しい運命を歩み始めたのだ、男の自分がめそめそしてなどいられない。そう思ってきた。
それでも、ときとして心が悲鳴をあげる。
最愛の姉がいないという現実に、耐えきれず。
エマのせいかもしれない。エマがあんなに落ちこむから……。
救おうと思って手を伸ばしたのに、逆に、彼女の深く暗い絶望の井戸の底へ、いっしょに引きずりこまれそうになる。
冷たい芝生のその向こうにある土は、あたたかく感じられるというのに。
春は近づいているというのに。
「カミーユ様」
不意に名を呼ばれる。
彼が来ていることに、カミーユはまったく気がつかなかった。
「もうすぐ夕餉の時刻です。館にお戻りになったほうがよろしいかと存じます」
トゥーサンだった。
彼は、幼い主人が中庭にいることを知っていたが、ひとりになりたいときもあろうと気を利かせて離れたところにいたのだ。
「うん、でもせっかく青空が見えたから。もう少しここにいたい」
予想どおりの回答に、従者は小さな溜息をもらす。
「これ以上このようなところにいては、風邪をひきますよ。夏前には王宮に赴かれるのですから、お身体を大事になさってください」
春が来る。
カミーユは、五月の末に十四歳になる。
そうすればここを離れて、従騎士として王宮で近衛隊副隊長を務める叔父ノエルのもとへいかねばならない。
――王宮。
王都。
それはカミーユにとっては、ここから天国や地獄ほども遠く離れた世界のように思える。
「わかっているよ」
反抗的でもなく、かといって、従うでもない調子でカミーユは答えた。
案の定、少年は少しも立ち上がろうとしない。
「カミーユ様」
「わかってるよ」
もう一度答えてから、
「ねえ、トゥーサン」
と、カミーユは己の従者の顔を見ずに尋ねた。
しかたなさそうに、トゥーサンは主人の傍らにひざまずく。この様子では当分ここから動いてくれそうにないと踏んだからだ。
「どういたしましたか」
「おれが王宮にいくときは、トゥーサンもいっしょに来るんだろう?」
その無邪気な問いに、トゥーサンはわずかなあいだ返答を考えあぐねた。
結論に到達してから一拍置いて答える。
「いいえ、私は王宮で陛下のおそば近くにおれるような身分ではございません。赴かれる際は、貴方おひとりです」
回答を得たカミーユは、あいかわらずトゥーサンを振り向きもせず、返答もしない。
不審に思ってトゥーサンがカミーユの顔をのぞきこむのと、カミーユがトゥーサンに顔を向けるのとが同時であった。
「どうして?」
幼い主人に問われたトゥーサンは、少し首をひねる。
「……どうして、と言われましても、それが私の生まれながらの身分だからです」
「トゥーサンは、ちゃんと騎士として叙勲されているじゃないか」
「それとこれとは関係のないことです。私はもともと没落貴族の子。騎士の称号をいただいたのは、ひとえに貴方のお父上様のご厚意の賜物なのですよ」
「『もともと』なんて、どうだっていいじゃないか。叙勲されたなら、みんな同じ騎士だ」
「…………」
弁が立つようになった十三歳の少年に、トゥーサンはどのように説明しようか考えをめぐらせる。
だが、黙ってしまったトゥーサンに、カミーユは方向性を変えて再び質問をしてきた。
「エマはさ、どうしておれや姉さんの乳母になったのかな?」
突然、思いもよらぬことを問われ、トゥーサンは「え?」と聞き返す。
「今、トゥーサンは言っただろう? 自分は没落貴族の子供だって。エマは貴族だったのか? トゥーサンのお父さんはどこにいっちゃったの?」
心中で、まいったな、とトゥーサンは思った。
このようなことを、今ここで問われるとは思ってもみなかった。これまで一度たりとも聞いてきたことのないことに、カミーユは今更なにゆえに関心を示したのだろうか。
「なぜそのようなことをお尋ねになるのですか」
別に隠すことではない。館に勤めている者のあいだでも、知る者は知っている話だ。だが、大きな声で言いまわるようなことでもない。
「考えてみれば、おれはエマのことなんにも知らないんだなと思って。ずっと部屋にこもって泣いているエマを見ていて、ふと、あんなにも近くにいたはずのエマが、実はとても遠いところにいたんだって、はじめて気づいたような気がしたんだ」
「遠い?」
「うん。おれの言葉が届かない、とても遠いところにいるんだ」
「…………」
「慰めの言葉も、励ます言葉も、なにも届かないところ」
カミーユの台詞には、トゥーサンの胸をつまらせるものがあった。
――おれの言葉が届かないところにいるんだ。
――慰めの言葉も、励ます言葉も、なにも届かない遠いところ。
傷ついているのはエマだけではない。
大切なものを救えない苦しみ。
姉を失い、そして今、乳母も遠く離れつつある。
カミーユにはそんなふうに感じられているのだと、トゥーサンはこのとき知った。
両親に深く愛されて育ってきたカミーユだが、繰り返される毎日のなかで常にそばにいたのは、シャンティとエマ、そしてとトゥーサンだった。
そのことが、彼が先程トゥーサンに共に王宮に行くのだろうと尋ねたことにも結びつく。
行方も、生死さえもわからぬシャンティ。
だれの言葉も届かぬところで、ひとり心を閉ざしつづけるエマ。
カミーユにとって、ひとりで王都へ赴くことそれ自体が不安なのではなく、むしろその逆なのだろう。
――トゥーサンをここに置いていきたくないのだ。
一度大切なものを失ったことがある人間は、再び失うことを恐怖する。
ゆるやかな、だが長い吐息を吐きだしながら、トゥーサンはうなずいた。
「母は、貴方が思うほど遠いところにはおりませんよ。貴方の声は、彼女にしっかり届いています。ただ、ちょっと歳で耳が遠くなっただけです」
耳が遠くなった、という表現にカミーユが笑う。
「まだそんなお婆ちゃんじゃないのに」
幼い主人の笑顔に屈託がなかったので、トゥーサンはほっとした。つられてわずかに笑んだが、すぐさま表情をひきしめ、トゥーサンは語りはじめる。
「母は下級貴族の娘で、前のヴィゾン男爵夫人に仕える侍女でした」
「知らなかった」
カミーユは半身を起こして座りなおす。
「どうしてデュノア家の乳母になったの?」
「ヴィゾン邸から追い出されたのです」
「なぜ?」
「館に出入りする小作人と恋仲になり、子を成したからですよ」
カミーユは息を呑んだ。
「それが、トゥーサン?」
そうです、とトゥーサン少しきまりが悪そうに笑った。