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 客間の近くの回廊で、ひとりの青年が窓枠にもたれかかって立っている。

 フェリシエ、そしてその侍女ライラが到着したことで、青年の心のなかでは迷いが生じていた。


 彼の手には、ライラから渡された小さな瓶がある。

 この瓶のなかには毒の粉末と、そして、ライラから下された重たい指示が詰まっていた。


 ――あの者は、リオネル様――引いてはベルリオーズ家にけっして良い影響を与えません。消してしまいなさい。

 ――アベルを殺すのか。

 ――それは、あなたの望みでもあるでしょう? ジュスト。


 今、アベルは昏睡状態である。

 数日のあいだに意識を取り戻すかもしれないし、かぼそい蝋燭の最後の火が消えるようにこのまま息を引き取るかもしれない。この状況は、あらゆる意味で青年を迷わせていた。


 アベルが死ぬのを、じっと待つというのもひとつの方法である。

 だが一方で、危ぶまれずに少年を殺すための、またとない機会でもある。

 つまり、あのような瀕死の状態であれば、ジュストがあと少し手をくわえてアベルを殺したとしても、だれもその死を不審には思わないだろう。むろん、犯人探しも行われないはずだ。


 手を下すか、それとも、このまま死が訪れるのを信じて待つか。

 難しい選択だった。


 けれどジュストは、そもそも命を奪うほどに初めからあの少年を憎んでいたわけではない。もはや、あの従騎士を殺めることは、自らの意思であるかどうかさえ判然としないものになっていた。


 それでも、もし手を下すとすれば、ひとつだけ問題がある。

 それは、リオネルがアベルのことを心配し、長い時間そのそばを離れないことである。

 口をふさごうにも、首を絞めようにも、あのようにリオネルがそばにいては、手も足も出ない。もしくは、医者が用意する薬酒や水に毒を混ぜるか……。


 考えあぐねているうちに、フェリシエとライラが到着したのである。


 二人の存在は、ジュストに心理的な重圧を感じさせた。

 ジュストも愚鈍ではない。重圧に負けて、自分が犯人だと知られるような行動を迂闊にとるような青年ではなかった。そうでなければ、聡いリオネルやベルトランにとっくに勘付かれている。


 結局ジュストが優先したのは、従兄姉ライラとその主人からの重圧よりも、迷いが拭いきれぬ自らの心理状態だった。

 このまま放っておけば、アベルは死んでいくかもしれないし、彼が意識を取り戻したら、それはそのとき考えればよいのである。


 多くの者がアベルの回復を祈るなか、ジュストは胸になにかがつかえるのを感じつつ、騎士らに指示を与えているクロードのもとへ足を向けた。





+






「わたしの王子様は、いつお目覚めになるのでしょうか?」


 王都やシャサーヌからすれば、大変な田舎であるこのラロシュの地で生まれ育った十歳の少女は、貴族の令嬢とはいえ朴訥ぼくとつとしている。同じ年頃であっても、王都あたりを行き来する令嬢は、もっと世馴れしていて、大人びているだろう。


 そんなすれた風情は微塵も感じられない少女に問われ、レオンは返答に窮した。


 周りが忙しく働いており、ヴィートは負傷、アベルは意識不明、そのような状況のなかで、なぜかラロシュ侯爵の子供たちの遊び相手をさせられているレオンである。


 この国の王子はレオンであるが、この幼い少女にとって「王子」とは「アベル」のことであるらしい。本物の王子も形無しである。


「いつ目覚めるかって、それは……それは、だな」


 子供の相手などしたことがない。

 どう答えたらこの少女に衝撃を与えずに、かつ納得させられるのか、レオンには見当もつかなかった。

 まかりまちがって、「いや、運が悪ければこのまま死ぬかもしれない」などと答えたら、この少女をひどく哀しませることになるだろう。ディルクあたりになんと言われることか。


「アベルがいつ目覚めるか――それは、おれにもわからない」


 焦らしたわりには、なんの参考にもならぬ、まったく気のきかない返答に、マドレーヌはあからさまにがっかりした顔になる。


「口づけをしたら目を覚ましますか?」


 聞いてきたのは、八歳の少年セザールである。

 魔法をかけられて眠らされている美しい姫は、運命の相手が口づけをすれば目を覚まし、二人のあいだには愛が芽生えるというのが、昔からお伽話とぎばなしの決まり事である。


「ううん……」


 レオンは頭を抱えこんだ。


 口づけなどをして目を覚ますはずはないが、「そんなことは架空の話だ」と片付けてしまうのも気の毒である。また大陸の北方には、実際に人の心を繰ることができる魔術師がいると聞いたことがあるし、目に見えぬからといってすべてが架空とも言い切れぬ。

 かといって「目覚めるかもしれない」などと答えて、実際に口づけして目を開けなかったら、この少年は落ちこむことであろう。


 子供になどまったく興味がなく、むしろなぜ自分がこのような面倒な役回りを引き受けねばならないのかと内心で愚痴をこぼしつつも、子供たちを傷つけないように賢明に言葉を選ぶレオンは、一国の王子といえども、やはり気の良い青年であった。


 ひとりレオンが考えこんでいると、マドレーヌがなにかひらめいたように、いきいきとした声を発する。


「やってみましょうよ、セザール。わたしも、アベルに口づけするわ。そうすれば、どちらがあの方の運命の相手かわかるでしょ」


 口づけでアベルを目覚めさせることができれば、アベルにふさわしい者がだれなのはっきりするのではないかと、マドレーヌは言うのだ。


 レオンが目を丸くしていると、セザールは「うん、お姫様のところへ行く」と立ち上がる。


「いやいや、二人とも待て。本人の承諾なしに口づけするのは、どうかと思うが」

「わたしが読んでもらったお話では、王子さまは、お姫様に口づけしてもいいかどうかなんて、聞いていませんでした」

「…………」


 たしかにそのとおりだ。

 あの手の物語のなかでは、姫に拒否する権利は与えられていない。

 相手が美しく性格のよい王子だったからよいものの、もし口づけしたのが肥満体形の偏屈な老人か、はたまた、兄のジェルヴェーズのように冷淡で強引な男であったなら、姫もさぞかし不快であっただろう。


 お伽話といえども、寝ている者に無断で口づけをするなど、教育上どうなのかとレオンはひそかに思った。


「さあ、いきましょう、セザール」


 気がつけば、マドレーヌがセザールの手をとって、部屋を出ようとしている。


「いやいやいやいや、待て、二人とも」


 慌てて引きとめようとするレオンへ、マドレーヌはきっぱりと言い放った。


「レオン様は、気が進まなければ、お部屋に残っていてもかまいませんから」

「…………」


 乙女の恋路を邪魔する者は、すげなく追い払われるようである。

 自分の手には負えそうにないことを悟り、がっくりとレオンは肩を落とした。


 そうしているうちにも二人は部屋を出て廊下を歩き出している。だが、少し進んだところで二人は足を止め、背後を振り返った。

 ちょうど二人のあとを追って部屋を出たレオンと視線が合う。


 しばらくレオンを見つめたのち、少女から発せられたのは、次の質問だった。


「わたしの王子様は、どこにいるのですか?」


 レオンはよろけた。

 部屋に残っていてもよいなどと、たいそうなことを言っていたわりには、アベルがいる部屋も知らなかったとは。


「そっちとは、逆だ」


 結局、嘘をつくわけにもいかず、レオンは正直に教えてあげたのだった。







 奇妙な組み合わせの三人がアベルの寝室に入ったとき、医者とエヴァはすでに仕事を終えて部屋を去っており、そこにいたのはマチアスひとりだけだった。


 マチアスはやや驚いた様子で、二人の小さな客人と高貴な青年を見やる。


「レオン殿下、これは――」


 事の経緯をマチアスに説明したレオンは、ひどく疲れた顔をしていた。


「ということで、おれはどうすればいいんだ?」


 レオンの問いに、マチアスもすぐには返答できない。

 リオネルの承諾を得ずに、勝手にこの部屋にだれかを入れること自体、本来ならしてはならないことである。だが、相手がラロシュ侯爵の幼い子供たちでは即座に追い払うこともできない。


 青年二人が無言のままなので、子供たちは遠慮なく寝台に横たわる憧れの相手に走り寄り、顔をのぞきこんだ。このとき、首の痣は布団で隠れていていたので、マチアスはひそかにほっとする。


「アベルだ!」


 嬉しそうな声をあげたのはセザールである。

 両親から、「アベルは眠っている、会いにいってはいけない」と言われていたので、二人にとってその姿を見るのは幾日かぶりのことだ。


「きれいだなあ」


 寝台に横たわる少女の肌はシーツの色と同じくらい白く、月光色の髪は枕からシーツにかけて惜しげもなく波打っている。

 八歳の少年でさえ、感嘆の溜息をもらす。


 けれど二歳年上の姉は、長いこと目を開けぬ青白い顔色のアベルに、美しさだけではなく、どこか脆く儚いものを感じとっていた。


「セザール。わたしが先にアベルに口づけするわ」

「ぼくが言いだしたんだから、ぼくが先だ」

「早くしないと、アベルは永遠の眠りについてしまうかもしれないのよ」

「だから、ぼくが先にするんだ。きっと目覚めるよ」


 少女の「永遠の眠り」という言葉に、マチアスとレオンは内心でどきりとする。この幼い少女が、なにをどこまで理解しているのか、二人にはわからなかった。


 弟の主張に対してしばし考え込んでから、マドレーヌは「いいわ」とうなずく。


「そのかわり、早くしないさいね」


 いつのまにかマドレーヌが、アベルに口づけをしてもよいかどうかの判断を下す権限を有しているようである。

 姉から承諾を得て、セザールはアベルの寝台に両手をついて、身を乗り出した。


 彼を止める機会を逸したレオンとマチアスが、咄嗟に口を開こうとしたのは、まさかセザールが本当に唇に口づけをするとは思わなかったからである。

 まだ八歳の少年である。

 頬にでも口づけするものだと、勝手に思っていたのだ。だが少年は、お伽話をそのままに再現した。


 アベルの唇を、セザールの唇がふさいでいる。

 レオンから、「あ」という声がもれた。

 いつのまにか扉が開いている――そこに立っていたのは、リオネルとベルトランだった。


 静かな時間が流れた。


 セザールの口づけは長かった。

 子供たちは、リオネルがいることに未だ気がついていない。


「いつまでやっているの? セザール」


 姉に催促されて、ようやくアベルの唇を解放したセザールは、泣きそうになりながら首を横に振る。


「だって、起きないんだもん」

「そうしたら、アベルの運命の相手はわたしかもしれないわ」


 ぐっと唇を引き結んで泣くのをこらえながら、セザールはアベルのそばから離れた。姉と交代するためである。

 けれど次の瞬間、セザールはなにかの気配を感じて顔を上げ、はっとしたような表情をした。


 その様子を見て、マドレーヌが背後を振り返る。

 彼女の表情が硬くなった。部屋の入り口近くに立っている二人の姿をみとめたからである。目の前の青年が、アベルの主人であることを知っていたのだ。


「リオネル様……」


 マドレーヌの口から、ぽつりと声がもれる。

 アベルの主人というだけではない。彼は、父であるラロシュ侯爵が、正統な王家の血筋と認める青年である。マドレーヌにとってリオネルは、レオンよりもはるかに高貴な存在なのだ。

 その人が大切にする家臣に対して、自分たちが勝手なことをしていることを、マドレーヌは弟と違って少しは理解していた。


 理解してはいたが、どうしてもアベルをひと目見たいがために、やや強引にここまできてしまった。両親からは、会いに行ってはいけないと、何度も言われていたのに……。

 今更ながら、レオンの制止を聞かずにここに来たことを後悔する気持ちがこみ上げてくる。

 

 だが、自分はまだアベルに口づけをしていない。

 これからだったのに。

 アベルを目覚めさせることが、できるかもしれなかったのに。


 十歳とはいえ、彼女なりに複雑な思いがあるようで、マドレーヌはうつむいて黙りこんでしまった。姉をとりまく空気が重たくなったので、セザールも気まずそうな面持ちになる。


 そんな二人にリオネルはゆっくり近づいた。

 相手が近づいてくる気配を感じたマドレーヌは、なにか言われるまえに、うつむいたまま口を開く。


「ごめんなさい」


 小さく、今にも泣きだしそうな声だった。

 少女の前でかがんだリオネルは、小さな頭に軽く手を置く。


「きみはまだアベルに口づけしていないんだろう? しておいで」


 マドレーヌの耳に届いたのは、どこまでも優しい声音だった。

 はっとしてマドレーヌは顔を上げる。


「……え……?」

「アベルの目を覚まさせようとしてくれていたのだろう?」


 青年の言葉に、みるみるマドレーヌの表情は明るくなっていく。

 満面の笑みで頭を下げてから、マドレーヌはアベルのそばへ駆け寄り、そして背伸びをして寝台に寄りかかり口づける。


 幼い少女が、憧れる相手に口づけを落とす姿はなんともかわいらしい。

 けれど、唇が触れても、アベルの瞳が開くことはなかった。


 マドレーヌは長い睫毛を伏せて、アベルからゆっくりと離れる。

 ――自分は、アベルを助けることができなかった。


 しょんぼりとする二人に、リオネルは視線を合わせるように再びしゃがみこみ、ほほえみかけた。


「薬も、すぐ効くものと、ゆっくり効くものがあるだろう? 口づけもきっと同じで、すぐに目覚めるときもあれば、あとで目覚めることもあるんだ。きみたちがこんなに待っていてくれているのだから、アベルは必ず目を開けるよ」


 子供たちは顔を上げて、リオネルの目をまっすぐに見つめている。徐々にリオネルの言葉の意味を理解してくると、彼らの表情に明るい色が灯った。


「だから、きみたちの口づけの力が効いてくるまで、もう少し待っていてくれるか?」


 マドレーヌもセザールも、大きくうなずいた。

 それを見て、ほっとしたようにリオネルは笑う。


 目覚めたら知らせてあげるから、そのときにまた会いにおいで――リオネルにそう諭されて、二人は素直に従い、再びレオンに連れられて部屋を出ていった。


 マチアスやヴィートも子供の扱いには慣れているほうだが、リオネルは、さらにもう数段その上をいっているようだった。



 子供たちがいなくなった部屋には、常の静寂が訪れる。

 そこにいるのは、意識のないアベルと、リオネル、ベルトラン、そしてマチアスだ。


 リオネルは寝台の傍らまで歩むと、アベルの顔を近くで見るために床に膝をつく。


「リオネル様、どうぞお座りください」


 慌ててマチアスが椅子をすすめたが、リオネルはそれを謝絶した。


 真摯な眼差しでアベルの顔を見つめるリオネルの表情は、この世で最も愛しい者を見つめるときのそれである。


「申しわけございませんでした」


 マチアスは謝罪した。無断で子供たちを部屋に入れたことに対してである。

 だが、静かにリオネルは首を横に振る。


「アベルも、あの二人が来てくれて嬉しかったと思う」

「……ですが、口づけを許してしまいました」


 重ねて言いつのるマチアスに、今度は、リオネルはすぐに言葉を返さない。

 恋しい人の唇を――触れたくともけっして触れられぬその唇を――、八歳とはいえ他の男に目の前で奪われたことは、リオネルにとっても衝撃的であったし、なにも感じないわけではなかった。


 けれど子供がしたことである。

 大人の男が同じことをしていたなら、手加減せずに殴っただろうが――いや、剣を抜いていたかもしれないが――、マドレーヌとセザールならばしかたがない。二人の口づけを、アベルもきっと許すだろう。


 アベルを心配してそばにきてくれた子供たちを叱ることなど、リオネルにはとうていできなかった。


「アベル殿を、愛していらっしゃるのですか」


 問いかけたのは、普段よりも低いように聞こえるマチアスの声だった。













読者様、こんにちは。


たくさんの拍手やお便り、ありがとうございました。

たくさんの勇気と元気をいただきます。読んでくださる方がいらっしゃらなかったら、とっくになろうでの更新ができなくなくなっていたと思います。


たくさんの感謝を込めて。m(_ _)m yuuHi

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