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「リオネル様」


 艶のある声で名を呼んだのは、フェリシエ――リオネルの婚約者候補である。


「ああ、本当にリオネル様でいらっしゃいますね。お久しぶりでございます。山賊討伐を終えられたリオネル様のご無事な姿に、少しでも早くお目にかかりたくて、この部屋まで連れてきてもらったのです」


 連れてきてもらった、というからには控えている侍女以外にも、だれか案内した者が近くにいるのだろう。


 優雅にリオネルに近づき、そしてほほえむと、次の瞬間フェリシエは思いもかけぬ行動にでた。

 リオネルの腕にそっと手をおくと、彼の左の頬に口づけをしたのだ。


 口づけを受ける瞬間、目の前にいたフェリシエが視界から消えたので、そのときリオネルはだれがこの部屋にフェリシエを案内したのかを知った。扉口で立っていたのは、にやりと笑うディルクと、心からすまなそうな顔をする彼の従者であった。


「ディルク……」


 リオネルの声は低い。

 それは、彼の機嫌が少なからず芳しくないことをあらわしていた。

 できればフェリシエとは顔を会わせたくなかった。なぜなら、ヴィートと話が終わったら、すぐにでもアベルのもとへ戻るつもりだったからである。それにくわえて、いきなり頬に唇をあてられたのだ。

 リオネルの機嫌がよいはずがなかった。


「照れているのか?」


 機嫌の悪さを、照れているせいだと受けとって、ディルクは冷やかすように問う。

 そんな親友の質問を無視して、リオネルは自分の腕に触れているフェリシエの身体を、軽く引き離した。


「フェリシエ殿、ここは負傷者のいる部屋です。突然の訪問は遠慮していただきたい」


 丁寧ではあるが、数か月ぶりに会ったにしては冷たい語調で言われ、フェリシエはねたように上目遣いにリオネルを見上げる。


「ですが、リオネル様は一日中、負傷者のおそばにいらっしゃって、ほとんど姿をお見せにならないと兄が言っていましたわ。だからこそ、わたくしから会いに伺いましたのに……ご迷惑でしたか?」


 徐々に大きな瞳に涙がたまり、今にも泣き出しそうな顔で問われる。シャルルが言っていた「負傷者」というのが、暗にアベルのことを差しているのは明らかであるため、リオネルは言葉に詰まった。


「いちゃいちゃするなら別のところへ行ってくれ。この部屋でされると不愉快だ。アベルのことならすべておれが引き受けておくから、あんたは心配しないでゆっくりやってくれ」


 ことさらに嫌味っぽく言ったのは、寝台のヴィートである。

 すべて引き受けておくというのは、「あんたが他の女とよろしくやっているなら、遠慮なくアベルをいただく」という意味である。それがわからぬリオネルではない。彼は睨むようにヴィートを顧みたが、リオネル以上に瞳を吊り上げた者がいた。

 フェリシエである。


「リオネル様に対して、言葉が過ぎませんこと? 無礼ですわ」


 たしかに、リオネルやフェリシエほど身分の者に対して、一騎士が発する言葉にしてはあまりに礼を欠いている。さらに、アベルのことは自分が引き受けるから心配するな、などとリオネルに対して言ったことも、フェリシエにとっては甚だおもしろくない。

 それではまるで、リオネルがこの騎士と共にアベルを取りあっているようではないか。


「あんたがだれだか知らないが、おれは香水の匂いが苦手だ。出ていってくれ」


 一見して身分の高さが知れるフェリシエに対し、ヴィートはこともなげに言ってのけた。

 みるみるうちにフェリシエの顔は赤く染まっていく。


「なんですって……」


 生まれてこのかた、一度も言われたことがない台詞である。

 怒りと羞恥で、美しい青緑色の瞳が大きく見開く。


「フェリシエ殿、この者は負傷しています。とりあえず部屋を出ましょう」


 恋する相手にうながされても、フェリシエは引き下がらなかった。


「ですが、リオネル様。負傷しているとはいえ、この者は――」


 あまりに頭に血が上っているので、次の言葉が続かない。そんなフェリシエを、リオネルは諭した。


「この者は怪我をして、疲れているのです。とりあえず別の部屋へ」


 それでも矜持を傷つけられたフェリシエは納得できぬようで、ヴィートを強い視線で睨んでいる。その視線を受けるヴィートのほうは、涼しげな表情だ。


 たしかにヴィートは怪我をしているが疲れてなどいない。本当に強い香水の匂いは苦手なのだと、正直な意見を述べてもっと相手を怒らせることはできたが、リオネルの困った様子は確実に伝わってきたので、それ以上ヴィートはなにも口にしなかった。


「フェリシエ。あまりリオネルの前で強情な態度を続けると、早々に呆れられるぞ」


 助け船を出したのは、昔から二人をよく知るディルクである。彼がこう言ったのは、事態を収拾させるためでもあったが、フェリシエのためでもあった。

 その言葉に、はっとしたフェリシエは、怒りで染まっていた顔を、今度は恥ずかしさに染め、ややうつむく。


「申しわけございません、リオネル様。あの者があまりに無礼なので……」

「お怒りは当然のことです」


 平然と答えて、リオネルはちらとヴィートを見やる。それは、いらぬことを口にして面倒な事態を引き起こしたことに対する批難であった。


 だが、ヴィートはヴィートで、責めるような目つきでリオネルを睨んでいる。

 アベルに惚れていながら、他の女と親しそうにしているなど、到底気に入らない。

 恋敵がいなくなれば喜ばしいはずなのに、ヴィートはなぜだが激しい苛立ちを覚えてしかたがなかった。


 そんなヴィートの心情を察しているのかいないのか、リオネルは再度フェリシエを促して扉口へと向かった。その後ろにベルトランが従う。


 部屋を出る間際に、リオネルは小声でマチアスに話しかけた。


「マチアス、すまないが――」


 みなまで聞かずとも、マチアスにはこの青年の言いたいことがすぐにわかる。


「かしこまりました」


 すべてを理解し、頭を下げるマチアスに、リオネルは再び神妙な顔で「すまない」と告げた。

 このようにリオネルが繰り返したのは、ひとつにはマチアスの第一の仕事である主人の護衛という役目をおろそかにさせることへの謝罪、もうひとつには、くれぐれもよろしく頼むという気持ちの現れだった。


「おまえはいったいなにを頼まれたんだ?」


 親友と従者の会話の意味がわからなかったディルクは、三人が去ったあとにマチアスへ尋ねる。


「私はアベル殿の様子をみてまいります。ディルク様のおそばにおれず、申しわけございません」

「……そういうことか。べつに申しわけなく思う必要はないけど、それにしても、おまえらはいつから言葉なしで話が通じるようになったんだ?」

「最近、お二人のおそばにいることが多いもので」


 マチアスが言う「二人」とは、リオネルとアベルのことであろう。


「で? 二人のそばにいて、なにか新しい発見でもあったのか?」


 このところ、いやにアベルの様子を気にするマチアスへ、ディルクは探るような視線を向ける。己の従者の態度は、ただ意識が戻らぬ他家の従騎士を心配しているだけには見えなかったからだ。

 だが、マチアスは彼らしい淡々とした表情のなかに、胸のうちにあるものを包み隠した。


「いいえ、とくには」


 そっけない返事に、ディルクはつまらなそうな顔をした。


「別にいいけど。おれもリオネルからいろいろ仕事を任されているから、アベルを見にいく時間があまりとれない。おれのぶんもアベルを頼む」


 主人やリオネルにアベルのことを頼まれ、マチアスは少なからぬ責任を感じ、すぐさま最上階にある彼女の部屋へ向かった。


 しかし、責任感だけではない。

 あの少年が女性であると知ったときから、これまで抱いていた疑念はますます大きく膨らみ、彼女のことが気になってしかたがなくなっていた。









 リオネル、フェリシエ、そしてマチアスが去った寝室では、ディルクとヴィートが残された。

 扉口で立ったままのディルクへ、ヴィートは視線を投げかける。


「あの面倒くさそうな女を連れてくる以外にも、なにかここに用事でもあったのか?」

「面倒くさそうな女ってフェリシエのこと? そんなに気に入らない? 昔に比べればそこそこ美人になったとは思うけど」


 自分に用事があるのかというヴィートの質問を軽く流して、ディルクは明るく言った。

 薔薇の香水の残り香が気になるのか、ヴィートは不愉快そうに顔をしかめている。


「……あれのどこが美人なんだ。アベルのほうがはるかに綺麗だ」

「その二人を比べるのか? アベルはとても綺麗だけど、男の子だからね。……それとも、そう信じているのは案外おれだけなのか?」

「――は?」


 質問の意味がすぐには理解できず、ヴィートは豆鉄砲を食らったような顔になった。

 その顔を見てディルクが笑う。


「冗談だよ。ドレス姿のアベルがあまりに綺麗だったうえに、リオネルやおまえに加えてマチアスまでもがなにか隠しているように見えたから、ついね」


 ついからかってみたくなったんだよ、というディルクは、どこまでが冗談なのか判じかねる調子で、ひとりで言いひとりで笑っている。


 内心でヴィートは冷やりとした。

 もしうっかりこの青年に、アベルが女であるなどと口を滑らせてしまったら、アベルが目覚めたときにどれほど叱られるだろう。


「さっきの女性は、リオネルの婚約者……候補で、エルヴィユ家の令嬢だ。彼は乗り気ではないようだけど、フェリシエは本気みたいだし、両家双方の合意もあるから、どうだろうね……このまま結婚するのが、一番円満な形だと思うけどね」

「……へえ」


 興味がなさそうにヴィートは相槌を打ったが、内心では、怒りとも、苛立ちともつかぬ感情が湧きあがっていた。


 近々婚約するかもしれないという身で、他の女性に想いを寄せるなど、なぜそのような中途半端なことをあの男はしているのだろう。このままいけば結婚するなど、それでよいのだろうか。

 本気でアベルに惚れているのであれば――いや、どう見てもそうなのだが――早々に婚約など取りやめればよいのに。


 山で生まれ育った素朴な性格の若者が、貴族社会の事情も、リオネルの立場も理解しきれず、そう思うのは当然のことだった。


 可能なら、「負けを認める」などと言ったことを撤回したい。

 恋敵に婚約の話が持ち上がっていることが、どうしてこれほど腹立たしいのか、ヴィート自身にもよくわからなかった。


「本当は、リオネルが乗り気でないなら、この結婚に賛成したくはないのだけど――、おれにも、いろいろな思いがあってね。婚約者という存在に関しては、おれ自身の経験もあるし……それに、堅苦しい世界とは無縁なきみにはわからないかもしれないけど、貴族社会は大変なんだよ」


 聞かれてもいないことをディルクはひとりで語っていたが、ヴィートにとっては、彼が二人の関係をどう思っているかなど、まったく興味がなかった。


 そんなヴィートの反応を受けてではなく、ディルクも非常に忙しいので、言いたいことだけ言い終えると足を扉口へ向ける。


「それじゃ、おれは仕事に戻るよ。そのうちエラルドも来ると思うから、ここで大人しくしていろよ」


 面倒くさそうにヴィートが片手で返事をするのを確認して、ディルクは苦笑して部屋を出た。


 自らの手でヴィートを殺そうとしていたエラルドが、頻繁にこの部屋に訪れていることをディルクは知っている。おそらく、ヴィートの怪我や気持ちを心から案じてのことだろう。

 それほどまでに親しい関係ならば、なぜ彼は自らヴィートを手にかけようとしたのか。

 山賊にも、なかなか複雑な事情があるらしいと、ディルクは廊下を歩みつつ思った。


 アベルの様子を見にいきたかったが、先に、捕らえた山賊に不穏な動きがないか確認しに行かねばならない。もし数百人もいる彼らが蜂起ほうきしたら大変な事態である。

 また、リオネル本人にはまだ最終的な報告をしていないことであったが、この地に来てからリオネルの命を執拗に狙っている刺客の正体に、ディルクは思い当たるふしがあった。


 最初は、ラロシュ邸の前庭で放たれた矢。

 次はスーラ山の戦いのさなかにリオネルを矢で狙い、さらに山賊が襲撃してきた夜には多勢で攻撃を仕掛けてきた。

 それらは、おそらく同一の人物の差し金であり、また、あれだけリオネルの動向に詳しいということは、おそらく首謀者は味方として諸侯の連合軍に加わっている……。


 あの夜、山賊襲撃の騒動のなかで飛び起き集まった諸侯らのなかで、ただひとり、夜着をまとっていなかった者がいた。そのことに、館のなかで戦っていたディルクは気がついたのだ。

 騒動の直後には気にとめなかったのだが、よくよく考えてみればおかしな話である。

 とっくに寝静まった時刻。彼は着替えもせず、あんな真夜中になにをしていたのか。


 その人物が不審な動きをしないか、ディルクは様子を探っておきたかった。アベルのことが心配でしかたないだろうに毅然として振る舞うリオネルに、これ以上余計な心労を与えたくない。

 それに、自分を含めて皆が皆、アベルのもとへ集まってしまってはどうにもならないので、リオネルやマチアスがそちらへ行くぶん、自らは働きまわっていなければならなかった。


「損な役回りだなあ。でもまあ、おれがそばにいるよりも、リオネルがいたほうがアベルも早く意識を取り戻してくれそうだし」


 青年の独り言は、長い廊下の片隅に、だれにも拾われることなく置いていかれた。











 若い「婚約者候補」を連れて客間に入ったリオネルは、内心で溜息をついていた。

 薔薇のように華やかなフェリシエに、若い騎士や諸侯らが、ひっきりなしに挨拶に訪れる。


「リオネル殿は、このような美しいご婚約者がいらして幸せ者ですな」


 口々にそんなことを言われるので、もはや「婚約者ではなく、婚約者候補です」などと説明する隙も与えられなかった。

 そんなリオネルの傍らで、フェリシエは楽しそうに周囲と話している。シャルルだけではなく、ウスターシュまでがいったん仕事を切り上げ、この客間に集まっていた。


 ふだんは威嚇するような鋭い眼差しのウスターシュも、フェリシエのまえでは表情をゆるめ、頬を染めて話している。


 貴族界で生きていくのにふさわしい素養を幼いころから身につけ、かつ社交的な性格の彼女は、おそらく本来であれば公爵家の夫人となるのにふさわしい女性なのだろう。彼女であれば、重圧を受けずに、むしろ喜々として公爵夫人の仕事をこなせるに違いない。


 一方、出自がわからず、既に子供もいるアベルは、そもそも公爵夫人として認められるかどうかも不明であるし、素朴でまっすぐな性格の彼女は、その座についても大変な苦労をするかもしれない。


 辛い思いをさせたくないと思う。

 けれど、だからといって、アベルへの想いを断ち切り、フェリシエとの結婚に踏み切る気持ちには到底なれなかった。


 アベルに対する想いをごまかすことなど、もはや自分にはできない。たとえば一切の反論を許されずにフェリシエと結婚させられても、フェリシエを愛せる自信はまったくといっていいほどなかった。

 フェリシエだから、ではない。

 アベル以外の女性を愛することなど、リオネルにはできそうにない。


 ふと気がつくのだ。

 自分はこれほどまでに――絶望的なまでに、アベルを愛してしまっているということに。


 なにが己をそうさせるのかわからない。

 ただ、彼女のすべてが愛しかった。


 やわらかい髪の一本一本から、細い指先、素直な笑顔、声、自分を見上げるときの眼差し、それを縁取る睫毛、本を整理するときの要領の悪さ、いっこうに改善しない寝坊、それなのに剣を握ったときの凛とした佇まい、頑固で勝気で、けれど泣き虫で、一生懸命で、不器用ながらも必死に生きようとする姿……愛しいことのすべてを言葉にすれば潰えることはないが、結局のところ理由などないのだ。


 彼女のことを思うだけで、切なさと愛しさで胸は苦しくなる。

 アベルを救うためなら、何度でもこの命を差しだすことができるのに……。


 今、意識が戻らぬ状態で、彼女はひとり死の淵をさまよっているのだと考えると、リオネルは居ても立ってもいられなくなる。さっさとこのような場を辞して、アベルのもとへ向かいたい。

 たとえ彼女が気づかなくとも、そばにいたい。

 今、自分が彼女にしてあげられることは、それだけなのだ。


 フェリシエや諸侯らの笑い声が、どこか遠くのもののように聞える。

 もしヴィートだったら、迷わずこの場をはねのけ、アベルのもとへ向かうだろう。貴族社会のしがらみにとらわれずに生きられるヴィートのことを、このとき心からうらやましく感じた。

 他人を羨むなどリオネルらしくないことである。それほどまでに、リオネルは自分が置かれた立場の窮屈さを、思い知らされていた。











いつもお読みくださり、ありがとうございますm(_ _)m


フェリシエとリオネルの関係…今回、ご批判の多い回かと思います。

前書きを書こうか…今回の更新はやめておこうか…と色々考えましたが、お話が先に進まなくなってしまうので、更新させていただきました。

ご不快な思いをさせてしまったら、すみません。

リオネルの身辺が片付くまでにはまだ時間がかかります。

気長におつきあいいただければ、誠に幸いですm(_ _)m





++あとがきのあとがき++


いつも拍手やメッセージ、評価をくださっている皆様、ありがとうございますm(_ _)m

とてもありがたく、また、いただいたひとつひとつのメッセージを嬉しく読ませていただいています。


先日、「ひなげしの花咲く丘で」スタートから一周年をお祝いいただくメッセージを頂戴いたしました。

作者自身がまったく忘れていたので、嬉しかったですし、とても感慨深かったです。ありがとうございます!


一年間お付き合いいただいている読者様、新らに読み始めてくださった読者様、本当にありがとうございます。

これからもお付き合いいただければ、とても幸いですm(_ _)m yuuHi


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