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『いいえ、父上』


 そのとき、リオネルはきっぱりと断った。


『用心棒など、いりません』


 母を亡くして間もなくのころである。


 アンリエットがこの世を去った日、六歳のリオネルは、気がふれるのではないかと周囲が心配するほど泣き続けた。

 母の遺体にすがりつき、涙を流し、そして言った。


 ――母上、なぜ――。

 なぜですか――、と。


 アンリエットにリオネルが問いたかったこと、それは、父であるクレティアンにも、はっきりはわからなかった。

 なぜアンリエットは死んでしまったのか。

 なぜ死神は、この二人を選んだのか。

 そう問いたかったのか、それとも――。


 狂ったように泣いたその翌日から、不思議とリオネルはひと粒も涙を流さなくなった。

 アンリエットの葬儀の日でさえ、どこか空虚な瞳でベルリオーズ邸の地下礼拝堂に棺がおさめられるのを見守っていた。

 まるで魂が抜けてしまったかのように。

 少女にも見紛うほど容姿の整った少年は、まるで人形のようだった。


 魂がなければ、心は安らかでいられる。哀しむことも、嘆くこともない。

 だから、彼は魂を失くしてしまったのではないか。

 クレティアンは、そんなふうにも見える息子の様子を心から案じた。

 愛する妻を失った哀しみに暮れている場合ではなかった。次は息子を失うのではないかという恐怖に、日々苛まれていた。


 そんなときだった。

 アンリエットの上の弟であるフェルナン・トゥールヴィルが、ルブロー伯爵家の三男に会ったときのことを手紙で送ってきたのだ。


 ルブロー家はトゥールヴィル家に隣接する王弟派の伯爵家で、かつてクレティアンの叔母が嫁いでいるため、ベルリオーズ家とは縁が深い。

 三男であるベルトランは、家を相続する可能性が極めて低い。そのため、生まれたときからリオネルに仕えることがすでに両家のあいだで取り決められており、主人を守り抜く強い意志と力を兼ね備えた剣士にすべく育てられていたが、騎士見習いになる十四歳までは親元から離す予定ではなかった。

 そのクレティアンの考えを、フェルナンの手紙は一変させた。


 領地が隣りあっているため、フェルナンの弟シュザンと年の近いベルトランは親しく、頻繁に剣を撃ちあわせていた。その場に、フェルナンが偶然居合わせ、即座に義兄クレティアンに手紙を送ったのだ。

 ベルトランは十歳にして、右に出る者がないほどの腕の持ち主である。それに加えて、勇敢であり、頭も良く、真面目で、心根もよい。母であるアンリエットを失い、心を閉ざしているリオネルのそばに、できるかぎり早くベルトランを置き、リオネルにとって頼ることのできる存在をつくっておくべきではないか。

 それに――。

 これからおそらくリオネルを暗殺する動きは、ますます激しくなるだろう。早くから腕の良い用心棒を伴って行動すべきだ。

 フェルナンはそう書いてよこしたのだ。


 彼が実際に会ってそのように判断したのであれば、おそらくそのとおりなのだろう。

 クレティアン自身がベルトランを見たのは、彼がまだ生まれて間もないころだったが、今は卓越した剣技の持ち主であるというし、また、これからはリオネルの良い話し相手になるのではないかと思った。


 だからこそ、本人に直接そのことを話したのだ。

 その返答が、先程の言葉である。


 ――用心棒などいりません、と。


『なぜだ、リオネル』


 父親の質問に、六歳の少年はすぐには答えなかった。

 顔をうつむけて、表情が乏しいなかでも、なにかに耐えるように黙っている。


『おまえの良き友にもなると思うのだが』

『友達なら、ディルクがいます。周辺の領地や、シャサーヌの街にもいます』

『そうではなく、この館に共に住み、毎日話すことができる友だ。ディルク殿とは毎日は会えないだろう?』

『…………』


 なおも晴れぬ息子の表情を、クレティアンはしゃがみこんで視線の位置を合わせるようにのぞきこむ。


『どうしたんだ? 母上が亡くなって寂しいだろう。だが、アンリエットはおまえがずっとそんな様子でいては、心配で神様のもとへ行けないよ。ベルトランと話をし、剣を打ち合わせ、共に学び、共に遊び、おまえが元気に笑う顔をアンリエットに見せてやってくれ』


 息子が元気に笑う顔を最も見たかったのは、アンリエットではなく、クレティアン自身だったかもしれない。けれどリオネルを納得させるために、あえて彼は妻の名を出した。


『父上』


 返ってきたのは、硬い声音だった。


『私はもう失いたくないのです』


 思いも寄らぬその言葉に、クレティアンは咄嗟に口にする台詞を見つけられなかった。


 ――失いたくないのです。


 六歳の息子がなにを思い……もしくはなにを思い起こして、そのように言っているのか、すぐにわかったからだ。

 リオネルはこれまでに幾度も、近くに仕えてきた者たちを失っている。それはすべて彼を狙った刺客のためだった。


 生まれたときからこれまで、幾人の若い騎士たちがリオネルのためにこの世を去ってきたか。

 騎士だけではない。ときには、女中や侍女、さらにリオネルの乳母までもが変死を遂げていた。

 乳母は、リオネルが四歳のとき、彼に用意された食事を口にした直後、もだえ苦しみ、数日間高熱に浮かされて死んだ。むろん毒味役は別にいたのだが、乳母がその食事を口にしたのは、それでも安心しきれず自ら毒味をしたからである。

 その事件のあと、ベルリオーズ家の料理人、使用人、女中、すべての者が調査され、少しでも疑わしい言動のあった者は館から出された。厳重な警戒態勢が敷かれ、食事に毒が混入されることはなくなったが、それでも刺客は絶えない。


 アンリエットの死については、特に不審な点はないはずだったが、リオネルはどこかで自分自身を責めていたのかもしれない。

 ……自分のせいで、大切な人たちが死んでいく。

 失いたくない。

 もう、だれも――。


 たった六歳の息子の胸に、どれほどの哀しみ、苦しみ、孤独、そして恐怖があるのかと思うと、クレティアンは胸が押しつぶされそうになった。

 この子をこれほどまでに苦しませているのは、己の出自のせいである。

 十八年前、腹違いの兄に王座を奪われなければ、このように小さな胸を痛めさせずにすんだのに。


『すまない、リオネル』


 クレティアンは息子の肩を強く抱きしめた。


『おまえにこんな思いをさせる父を、赦してくれ』

『父上?』


 強く抱きしめられて、リオネルは戸惑うような声を発した。


『約束する。今度来るベルトランは、絶対にそなたの前からいなくなることはないと。だから、友人として、臣下として、受け入れてくれないか』


 なぜ父親がそんなことを約束できるのか、リオネルにはわからなかったはずだ。けれど真剣なクレティアンの態度に、リオネルはようやく首を縦に振った。


 父親がいかにして「約束」を守ろうとしたか、それは、リオネルにもすぐにわかった。

 ベルリオーズ家にきたベルトランは、十一歳にしてクレティアンの騎士見習いとなり、武術の鍛錬を受けた。公爵自ら、ベルトランを鍛えあげたのだ。

 こうして、ベルトランはリオネルにはなくてはならぬ存在になったのだが――。



 ベルリオーズ邸にいるクレティアンが、このような昔のことを思い出したのは、ある手紙を受けとったからだった。

 山賊討伐に赴いたクロードからの報告が、先程届いたのだ。


 これをベルリオーズ邸に届けたのは、騎士でも侍従でも馬でもなく、鳩である。

 人が馬を駆けるよりも、早く安全に情報を運ぶことができるため、クロードはいざというときの情報の伝達に伝書鳩を用いていた。こういうことにかけては合理性と確実性を追求する彼らしい方法だ。


 受けとった手紙には、討伐の状況が詳しく書かれていた。

 リオネルとベロム伯爵家の嫡男の意見が対立して話し合いが難航したこと、囮を使う作戦によって山賊の居場所を突きとめ、スーラ山とラナール山の山賊を無事に討伐できたこと、囮になったアベルはリオネルのもとに戻り、さらに山賊のひとりが仲間になったこと……それらの経緯が事細かに記されている。

 だが、報告はそこでは終わらなかった。


 その三日後にラロシュ邸が攻撃され、館では多数の死傷者が出たうえに、アベルは連れ去られた、と続いたのだ。アベルを助けに行くために、リオネルは少数で山賊の本拠地であるカザドシュ山へ向かい、彼らの首長を討ち、あとから駆けつけた援軍によって残りの山賊らを捕らえ、もしくは激しく抵抗した者たちは殺害した。

 こうして討伐はほぼ完了したものの、未だアベルの意識は戻らず、リオネルはそのことでひどく心を痛めている。ベルリオーズ邸へ帰館するのは、アベルの容体次第でいつになるかわからない。

 そのような内容であった。


 兵力にも甚大な被害なく、山賊討伐の命を遂行できたことは喜ぶべきことである。けれど、クレティアンの気持ちにはもやがかかっていた。

 リオネルの忠実な臣下であるアベルは、意識が戻らないという。

 この話を聞いて、クレティアンはかつてのリオネルの言葉を思い出したのだ。


 ――私はもう失いたくないのです。


 あれほど用心棒を伴うことを拒否していたはずなのに、自らアベルを用心棒にしたいと申し出たとき、クレティアンは正直なところ驚いた。


 リオネルはどのような気持ちで、あの少年を用心棒にしたのか。

 アベルを父親である自分に紹介したときのリオネルは、あの少年を用心棒にしたいというよりも、むしろ、自分の手で守りたいと願っているようにさえ見えた。

 そしておそらく、それは真実だったのではないか。


 自分を守らせるためではなく、自分が守るために、アベルをそばに置いた。

 だからこそ、かつてはあれほど頑なだったリオネルが、彼を用心棒にしたいと自ら言い出したのではないか。

 だからこそ今回の討伐では、あの少年を助けるために、リオネルは少人数で山賊の本拠地に乗りこむなどという危険を犯したのではないか。


 それなのに、今、あの少年は瀕死の状態であるという。

 ――リオネルには守り切れなかったのだ。


 彼は今どれほど心を痛め、あの少年の回復を待っていることだろうか。後悔と、自責の念に苛まれながら。

 六歳のときの、リオネルの空虚な瞳が、クレティアンの瞼の裏にこびりついて離れない。



 礼拝堂の鐘が鳴る。

 クレティアンは、その音に重ねるように、双眸を閉じる。

 そしてそっと鐘の音に祈った。


 かの者にとってかけがえのない存在を、守りたまえ――。


 そう願うと同時に、当の少年本人の姿を思い浮かべると、クレティアンの胸には、なにか釈然としない思いが湧きあがる。

 あの水色の瞳、月光のような髪、透けるように白い肌……それは己の記憶のなかにある一点の黒い染みのようにその部分だけが読みとれず、またなにか暗いものを彷彿とさせた。







+++







 青い空が見えない。

 どんなに空が曇っていても、雨が降っていたとしても、この瞳が輝いてさえいれば、いつだって澄んだ空が見えたのに。


 もう幾日も、青空は隠れたままだった。

 それは青年の心のなかにも厚い雲を生じさせていた。彼女の瞳が開かなければ、青年の心に光が差し込むことは永遠にないだろう。


 リオネルはそっと月光色の髪に触れる。

 それは溶けてしまいそうなほど、柔らかく温かい。

 ゆっくりと、指先に伝わる温もりをたしかめるように、リオネルはアベルの髪を梳いた。その瞳は寂しげであり、そしてどこまでも優しかった。



 ここはラロシュ邸の、最上階の一室である。

 リオネルの寝室の隣に位置するこの部屋が用意されたのは、ラロシュ侯爵の気遣いからだった。


 カザドシュ山を降りてから、リオネル、ベルトラン、マチアス、そして数人の騎士は、瀕死の三人を連れて最も近い領主の館へ駆けこんだ。それは私兵もほとんどいない小さな辺境の領地で、そこで二日間を過ごし、三人に応急措置としての治療を施し容体が安定したところで、ラロシュ邸へ戻ってきたのだ。


 それから既に二日が経つ。

 その間、アベルは一度も目を覚ましていない。水と薬酒を毎日飲ませており、それだけがアベルの命を繋いでいた。


 少女は浅い呼吸を繰り返している。ゆるやかに上下する胸元だけが、彼女が生きていることを証明してくれていた。

 濃い青紫色に変色した痣が、アベルの白い首に痛々しく残っている。リオネルは髪を梳く手を止め、もう片方の手でその色をそっとなぞった。


 リオネルの表情が曇る。

 アベルの首を絞めたブラーガに対して、湧きあがる感情は抑えきれぬほどのものだった。

 けれど、その感情の炎をいったん鎮めなければならない。

 アベルをこのような状態にした彼を助けると決意したのは、ヴィートを救うためという意外に、もうひとつ目的があった。


 自分の感情はさておき、山賊の首長には生きて、やってもらわねばならないことがあったからだ。

 彼が斬られたときの山賊らの反応。

 そして、ヴィートの反応。

 少なくとも、あの束ね役は、山賊から怖れられ、そしてヴィートからは慕われている。

 彼の命があれば、リオネルが当初から考えていたことを、成しうるかもしれなかった。


 首の傷跡からゆっくりと手を離す。

 そのとき、ふとリオネルの表情に複雑な影が落ちる。あることを思い出したためである。


 それは、アベルをカザドシュ山の麓の小領地で医者に診てもらったときのことだった。

 アベルが女であることを知られないために、体調を崩してもいままでは医者に診せてこなかったが、今回はそうはいかなかった。命にかかわることであることもひとつの理由ではあったが、もうひとつ理由があった。

 それは、下山の途中でマチアスが口にしたひと言のためである。


『リオネル様』


 どこか遠慮がちに、だが、はっきりとした語調でマチアスは名を呼んだ。振り返ったリオネルへ、マチアスはまっすぐに視線を向ける。


『アベル殿の服の襟元が乱れています。念のため、医者に確認したほうがよろしいかと存じます』


 リオネルの顔から血の気が引いた。

 肩から麻布をかけられた少女が、マチアスの腕に丁寧に抱えられている。青年が顔色を変えたのは、彼女が女であることをマチアスに知られたからではなく、彼女の服の状態が、リオネルを不安にさせたからである。

 急ぎ下山し、アベルを医者に診せた。


『意識がいつ戻るかは、まったくわからない状態です。呼吸が浅く危険な状態にあり、もし目を覚ましても、本人が息を乱すようなこと――たとえば激しく動くようなことはけっしてさせてはなりません。首を圧迫されているので、声を発する際にも少し影響がでるかもしれません』


 このようにアベルの怪我の状態を説明してから、


『さらに、貴方様がお尋ねになった件ですが――』


 医者はいったん言葉を切った。


『心配することはなにもございません。彼女は無事ですよ』


 その言葉を聞いて、どれほど安堵したことだろう。

 おそらくマチアスにはアベルが女性であることを知られてしまったが、それは今更どうにもならないことだ。アベルが無事だったことに比べれば、小さなことだった。


 今、目の前の少女の顔は安らかである。まるで、死の世界に足を踏み入れているかのように。

 あるいは、死の世界はアベルにとって幸せな場所なのだろうか。

 ……二年前、死を欲したアベルを、この世界に押しとどめたのは自分だ。


 それがはたして彼女にとって真に幸福なことであったのか、リオネルには確信が持てない。なぜなら、アベルの苦しみが折にふれて感じとれるからだ。

 アベルは、生きることに苦痛を感じている。

 生きることは、おそらく彼女にとって、哀しく辛いことなのだ。


 けれどリオネル自身にとっては、アベルが生きていること――それはなににも代えがたい幸福である。

 アベルを失って生きることなど、もはや考えられぬことだった。

 自身の自己満足のために、アベルをこの世界につなぎとめておきたいわけではない。けれど、二年前のあの日に命を絶たなくてよかったと思う瞬間が一度でもあったなら、これから先も生き続けてほしいと思う。もしそう思う瞬間に自分が彼女のそばにいたならば、これ以上の幸福はない。


 生きてほしい。

 主人と仰ぐ自分の命を守るためでもかまわない。


 ――戻ってきてほしい。


 わずかに胸が上下していなければ、リオネルは不安に押しつぶされていただろう。

 少しでも目を離した隙に、アベルの呼吸が止まってしまうのではないか。そんな焦燥を抑えることができず、あとのことはディルクやクロードに任せて、リオネルはどうしても外せぬ用事がないかぎり片時も離れずにアベルのそばにいた。


 他の者にどう思われようがかまわない。

 ただ、アベルのそばにいたかった。








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