107
山賊らが戦意をそがれたように呆然としているなかで、ただひとり動いた者がいた。彼は、倒れたブラーガものとへ駆け寄ったのではない。
長剣がひらめく。
それは、ルブロー家の紋章の入った長剣。剣先は迷いなくリオネルの胸元に向かっていた。
――リオネルに斬りかかったのは、ヴィートだった。
激しい一撃を、リオネルはブラーガの血で濡れた長剣で受け止める。
ヴィートの攻撃は、これまでのように相手を傷つけないよう加減したものではない。確実に相手を殺傷することを目的とした剣さばきだった。
言葉を発する隙さえ与えぬかのように、第二撃、第三撃とヴィートの攻撃は続く。リオネルはそれを隙なく撃ち返していった。
その光景に周囲は束の間、呆気にとられる。戦う両者のうちに、明確な敵を見いだせなかった。
「とち狂ったのか! 剣を下ろせ!」
ヴィートに向けてディルクは叫んだが、彼の耳には届いていないかのようである。
冷静にヴィートの攻撃をかわしてはいるが、リオネルの顔には隠し切れぬ戸惑いの色。それは、彼の剣技の冴えに陰を落としていた。
リオネルは攻勢に出ない。
それでも、ヴィートが一方的な攻撃をやめないのは、彼のなかにあの日の約束があるからだった。
ずっと自分を守ってくれていたブラーガを、守ることができなかった。
助けると約束したのに。
だから――――。
ヴィートにその機会が訪れたのは、戦っているあいだ常に相手の動きが精細を欠いていたからである。
本気でやろうと思えば、リオネルにはこれまで幾度もヴィートを殺す機会があった。
このときも同様である。だが、ヴィートが剣を振りあげた瞬間、リオネルはどうしてもその心臓を貫くことができなかった。
リオネルの脳裏に浮かんできたのは、アベルの顔。
あの夜、アベルが泣いていたのはなぜなのか。
アベルの涙の意味を考えれば考えるほど、リオネルには、ヴィートの命を奪うことができなくなっていた。
「あの馬鹿!」
エラルドと刀身を交えせながら、ディルクは苛立ちと焦慮を混ぜ合わせた声で吐き捨てる。
むろん、主人を守るために咄嗟に動いたのはベルトランだった。
けれど彼より先に動いた者がいた。
鈍い音がした。
青年を斬ろうとしていたヴィートの剣が宙で止まる。
リオネルの双眸が見開く。
だれもが己の目を疑った。
ヴィートの腹からは、小指の長さほど剣先が飛び出ていた。そこから、湧きでるように血がこぼれる。
背後を振り返ったヴィートが、ほほえむ。
とても優しく。
ヴィートの背中に、深く短剣を突き刺したのは――。
……アベルだった。
アベルを捕らえていたはずの山賊は、すでに土のうえで息絶えている。
あれほど弱っていたアベルが、どうして己の力で動き、そのうえ剣を振るうことができたのか。それは、ただひたすらにリオネルを守りたいがためであっただろう。
けれどアベルの瞳からは、ヴィートの腹から溢れ出る血のごとく、涙が溢れていた。
だれもが心から血を流していた。
アベルの口が小さく開く。なにかを言おうとしたか、もしくは、なにかに気がついたかのような表情でもあった。
そんなアベルの表情に目を細め、そのままヴィートはアベルの足元に崩れた。
「ヴィート……っ」
かすれた叫び声は、アベルの喉から上がったものだった。ヴィートに続き、彼女の身体も地面に崩れる。
かけがえのないものを取りもどそうとするかのように、弱った身体で、かすれた声で何度も名を呼びながら、アベルは涙を流し、ヴィートの身体にすがりついた。
――大切な人だった。
出会ってから、ずっと自分を守ってくれた。そして、好きだと、結婚してほしいと、生まれてはじめてアベルに愛を告白してくれた人。
その人の命を己の手で奪うなどとは。
リオネルの危機をまえにして、身体は咄嗟に動いていた。
リオネルの命に代えられるものはない。
それでも、心が砕け散ってしまいそうなほど苦しい。
「泣かないでくれ、アベル」
止めどない涙をながしながら己を見つめるアベルの頬に、ヴィートは手を添えた。
これほど哀しげで、しかし、これほど美しい泣き顔を、ヴィートはかつて見たことがなかった。
透きとおった瞳から生まれる、宝石のような涙。
それは、自分ひとりのために流される涙である。
「知っていた、きみがこうすることを」
愛おしそうにアベルの頬に触れながら、ヴィートはあえぐように言った。
結婚を断られたとき、リオネルを殺せば自分を受け入れてくれる余地があるのかと、ヴィートは尋ねた。そのときアベルは、「そんなことをすれば、あなたを殺す」と答えたのだ。
ヴィートの腹部から血が湧き出て、周囲の土や雑草を赤く染めあげていく。
「きみの手にかかって死にたかった。仲間といっしょにこの場所で死にたいんだ。……アベル、ありがとう。おれなんかのために泣いてくれて――」
アベルは首を激しく横に振った。なにに対してそうしているのか、もはや自分にもわからない。
感謝されることなどなにもしていない。
ヴィートのために泣いているのか、自分のために泣いているのかも、わからない。
死んでほしくない。
死んでは、だめだ。
ヴィートの身体にすがりつき首を振りながら、アベルは嗚咽をもらして涙を流した。
アベルが動ける状態ではないことに気がついているリオネルは、落ち着かせるためにその腕に手を添える。
顔を上げたアベルは、涙と絶望に霞む瞳をリオネルに向けた。
その瞳をまえにしてリオネルの胸には例えがたい感情がうずく。
大切な人が、これほどまで哀しみうちひしがれる姿を目にして、平静でいられるはずがなかった。
こんな顔を見たくなかったからこそ、ヴィートを斬ることができなかったというのに、その結果、アベルに最も残酷な役回りを与えてしまった。せめて自分が斬っていれば、彼女がこれほど苦しむことはなかったのだ。
まるで救いを求めるようにリオネルの名をつぶやいてから、アベルはなにかが途切れたように小さく息を吐き、そしてゆっくりと意識を手放しリオネルの腕に倒れ込んだ。
精神的にも肉体的にも、すべてにおいて限界だったのだ。
こうして気を失って、アベルの心に一時的な安らぎが訪れたのかもしれない。
だがリオネルの心は安らぐはずもなく、蒼白になって叫ぶ。
「アベル!」
呼吸が浅い。
ブラーガに締められた首の痕は、うっ血した色の濃さを増している。命を失いかけているのは、ヴィートだけではない。アベルも彼と同様、危険な状態であり、一刻も早く手当てをしなければならない。
リオネルの心に迷いと葛藤が産まれる。だがそれも、ほんの一瞬のことだった。
遠くから地面が鳴り響くような音がした。
貴族側の援軍が駆けつけてきたのである。
その事実に気がついた山賊らの一部は、徐々に戦意を喪失し始めていた。首長であるブラーガが倒された今、彼らは集団としてのまとまりを欠き、一丸となって貴族の大軍に対抗する力を持ちえない。
リオネルは立ちあがる。
「ベルトラン!」
まず彼は腹心を呼び、ブラーガを直ちに山の麓まで運ぶように指示した。
「助けるのか、この男を」
意外そうに問う赤毛の男へ、
「助かれば」
と短く答えてから、今度はマチアスを呼ぶ。
「すまないがアベルを頼む。この子を抱えておれたちと共に山を降りてほしい」
即座に主人が了承するのを確認したうえで、かしこまりましたと、マチアスは真剣な面持ちで頭を下げた。
「ディルクは、到着したクロードに指示を与えてくれ。山賊らについては、降服する者は殺さず、生かして捕らえるように。そして、ここに住む女子供を傷つけないようにと」
「それはかまわないけど、おまえはどうするんだ?」
「ヴィートを運ぶ」
「…………」
一瞬黙したディルクは、地面に倒れるヴィートやブラーガを見やる。
二人の周りには血の海が広がりはじめていた。もう助からないだろう。こんな状態の彼らの命を、はたして救える可能性があるのだろうか。
「今すぐおれはヴィートを抱えて、ベルトラン、そしてマチアスと下山する。あとのことはディルクに任せたい」
「わかった」
確かにうなずく親友の返事は力強いものだった。
そこに、わずかに疲労感をにじませた声が上がる。
「ということは、おれもまだ山から降りられそうにないな」
「――すまない、レオン」
わずかに眉を寄せて、リオネルは申しわけなさそうな面持ちになった。できれば、ディルクとレオン、二人に留まってほしかったのだ。
ここに残れば、あと半日は下山できないだろう。
「あ、いや、別に謝らせるために言ったわけではない。おまえとマチアスがそばにいないとなると、おれひとりでこいつの面倒をみなければならないのかと、気が遠くなっただけだ」
こいつとは、むろんディルクのことだ。
「なんだよ、それ」
言葉では不服そうだが、ディルクはさほど気にしておらぬ様子である。だが、次のリオネルの一言で、ディルクのそんな余裕も消え去った。
「大丈夫、クロードやシャルルがいるから」
「なんだよ、リオネルまで。だれかがそばにいなければ、おれがなにか問題を起こすと、おまえもそう思っていたのか」
心外だというように表情を曇らせたディルクに、リオネルは手短に答える。
「けっしてそういう意味ではないけど、レオンが不安そうだったから」
そこへ、マチアスが追い打ちをかけた。
「今、そのようなことにこだわっている場合ではないのではありませんか、ディルク様。リオネル様は貴方をご信頼なさっておられるからこそ、この場をお任せになるのです。そのようなことより一刻も早く私たちは山を降りなければ、アベル殿が危険です」
己の従者の容赦のない言葉に、ディルクは口をつぐむ。
マチアスのやり方に、レオンは心の底から感嘆した。彼の生きざまを学びたいとまで、密かに思ったほどである。
そのとき、貴族の援軍と入り乱れ混乱する山賊のなかから、ひとりの男が進み出た。先程までディルクと剣を交えていた若者――エラルドである。
「下山の道なら、おれが案内できる。ブラーガとヴィートを助けたい。案内させてほしい」
しばしその若者の顔を見つめてから、リオネルは彼の名を尋ねた。
「おれはエラルド。二人とは幼馴染みだ」
「――わかった」
よろしく頼む、とつけくわえたリオネルの返事に、周囲も異論はなかった。エラルドの案内を断る理由はない。道案内があれば心強い。
彼が信用に足る人間かどうか、それは、リオネルが問題ないと判断したのであればそれに従うのみだ。
そうと決まれば、あとは瀕死の三人を抱えて下山するだけである。
ベルトランは、山賊の首長の身体を抱え上げた。身長の差以外にも、筋肉の重みがあるせいだろうか。先日抱え上げたアベルの身体とは、比べ物にならない重さである。この体格差では、己の大切な従騎士が勝てないのも納得できることだった。
リオネルはヴィートを、マチアスはアベルを抱き上げる。この組み合わせにしたのには、理由があった。
本当なら、むろんのことリオネルはアベルを連れていきたかった。けれど自らヴィートを運ぶことにしたのは、アベルのためである。
言葉には表しこそしなかったが、はじめてアベルはリオネルに頼ったのだ。
――助けてほしい、と。
ヴィートの命を、助けてほしいと。
己の心を救ってほしいと。
リオネルの名をつぶやきながら意識をなくしたアベルは、たしかにそう訴えていた。
だからこそ、どうにかしてヴィートの命を――アベルの心を、助けたかった。
自らよりも長身で、体格もよいヴィートの身体を抱え上げたリオネルに、ベルトランは「代わろう」と言ったが、リオネルはそれを断った。自らの手でヴィートを山の下まで運ぶ。それは責任感にも近い気持ちだった。
愛する者がはじめて自分に頼ったのだ。それに、応えたい。
そして、アベルがあのように哀しむ顔を、もう二度と見たくない。あんな顔をさせたくない。
ヴィートが死んでしまったら、どんなにこの腕にかき抱き、慰めの言葉をかけても、彼女の哀しみを癒すことはできないだろう。
それならば、持てる力のすべてを尽くしてヴィートを助ける以外に、彼女を救う方法はない。
ヴィートを助けるためには、ブラーガもまた救わねばならないのだ。彼らの命を救うことは、選択の余地のないことだった。
到着した援軍と入れ違うようにして、少数の騎士を伴い、リオネル、ベルトラン、そしてマチアスは、それぞれ瀕死の身体を抱きかかえて下山の途についたのだった。
山を降りる途中の出来事だった。
アベルが羽織っていた麻布が、マチアスの剣の鞘にひっかかり、するりと足元に落ちた。
すぐに気がつき視線を落としたマチアスは、息を呑んだ。アベルの衣服の襟もとから、かすかに垣間見えたのは――。
マチアスは思わず、視線をそらす。
心臓が早鐘を打っていた。
けっして見てならならぬものを目にしてしまった、そんな気がした。
薄々わかってはいたが、それが真実であることを己の目で確認すると、マチアスは少なからず動揺した。主人の、どのような破天荒な行動にも動じぬこの男にしては、珍しいことである。
強健な騎士らに混ざり、身体を張り、危険を顧みずに常に主人を守ろうとしていたのが、年端のいかぬ女性であったのだと思うと、マチアスは胸を突かれるような感覚になる。
即座に麻布を彼女の肩から胸元にかけなおしてやり、ちらとリオネルを見やる。
少年だと思っていた人物が、実は少女であったということを知ると同時に、この青年の想いもマチアスはたしかに知ることとなった。
……アベルの、白い首元にかけられていたのは、淡い水色の首飾り。
それは以前、女中が立ち去ったあとの廊下で、リオネルが隠すようにして手にしていたものだ。主人であるディルクはこの首飾りのことをしつこく問いただしていたが。
彼が首飾りを贈った相手は、アベルだったのだ。
――リオネル様は、自分が今腕のなかに抱く少女を、愛している……。