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 ――なぜ、こんなことになってしまったのだろう。


 いまさら考えてもしかたのないことを振り切るように、エラルドは剣を構えようとした。

 けれど構えなかったのは、ためらったからではない。悠長に剣など構えていては自分の命が危うかったからである。


 かつて経験したこともないほどの速さで飛んできたのは、弓矢と思いきや、そうではなく、輝くような短剣だった。


 エラルドは身体を大きく横に逸らして、片手を地面につく。

 標的を失った短剣はそのまま後方で、ブラーガの剣によって叩き落とされ、地面に伏しているアベルのすぐ近くに落ちた。


 その短剣に彫られていた模様は、ヴィートが携えていた長剣のものとまったく同じだった。これを投げたのがベルトランであることを、ヴィートは即座に悟る。

 ……リオネルたちが到着したのだ。


 ヴィートやエラルド、そして他の山賊らが短剣の飛んできた方角へ視線を向けたときには、すでに山賊らが次々と地面に倒れていくところだった。


「なにやってるんだ、ヴィート!」


 その瞬間、かばうようにしてヴィートの前に躍り出たのはディルクである。


「死にたいのか、おまえは。なんのために山賊をやめたんだ。馬鹿じゃないのか!」


 己がかつてカミーユに繰り返された「馬鹿」という言葉を、ディルクはこのとき腹の底から山賊あがりの男に対してぶつけた。


 ディルクとほぼ同時にその場に現れたのはリオネルで、真っ先に地面に伏したアベルに近づこうとして、それを阻まれる。

 ほんのわずかな間合いで先をこされ、アベルの身体はブラーガに抱え上げられたのだ。


 貴族の青年の顔に浮かんだ激しい感情を、ブラーガは見逃さなかった。


「これを手元に置いておくと、ずいぶんおもしろいことが起こるようだな」


 リオネルの美しい紫色の瞳が、馬二頭分ほど離れた場所にいるブラーガを睨み据える。

 それを見返すブラーガの瞳は、アベルの明るい青空色の瞳とは対照的な、漆黒の夜空の色をたたえていた。

 これが、山賊の束ね役と、山賊討伐を命じられた貴族の青年との対面だった。


「その者を返してもらおうか」


 銀色に輝く長剣の刃をまっすぐ相手に突きつけながら、リオネルは低い声音で言った。


 自分より少なくとも五歳は年下と思われる若い貴族の青年を、ブラーガはわずかに目を細めて見やる。それは、生まれてはじめて感じる、なにかぞくぞくするような感覚を抑えるためだった。


 ――強い。

 この若者は、強い。

 己の肌が総毛立つのを、ブラーガは感じた。


 ――愉しい、と。

 人は、こういうとき、「愉しい」と表現するのではないかと、ブラーガは思った。

 肌がひりひりするような殺気は、この青年から発せられるものだ。それはおそらく、自分の腕のなかにある、ひとりの少女のため。


 ブラーガは笑った。

 少女の細い身体を雑に抱え直す。アベルのうっすら開いていた瞳に苦痛の色が浮かぶが、抵抗しようとする手は、ただ宙をかいただけだった。


「アベル……!」


 リオネルの切迫した声が、朦朧としていたアベルの意識を呼び覚ます。


「返してほしければ、奪い返してみろ」


 ブラーガがすべてを言い終わらぬうちに、リオネルは踏み込んでいた。

 瞬時に少女の身体をかたわらにいた仲間のほうへ放り、ブラーガは剣で攻撃を受け止める。ブラーガですら全神経を集中させて迎え撃たねばならぬほどの斬撃だった。

 すさまじい刀身の激突が起こった。

 まばゆい火花を散らして刃と刃がぶつかりあうと、二人の視線が間近で交差する。


「――おまえを殺す」


 リオネルは小さくつぶやくと、相手の幅の広い刃を押し返し、もう一撃を叩きこむ。

 山じゅうを震わすのではないかと思われるほどの高い金属音が鳴り響いた。撃ち交わされた剣の音に重なって、鳥たちが鋭い鳴き声をあげて飛びたっていく。


 再び同時に斬りかかった二人の腕に、衝撃から痛みが走る。

 これほどまでの敵と対峙したのは、リオネルにとっても、ブラーガにとっても初めてのことかもしれない。

 二合と撃ち交わさずアベルの剣を叩き落としたという山賊の頭領の懐に、リオネルは容赦なく刀身を撃ち込んだ。


 あの夜、自分がアベルのそばに居さえすれば、この男の手から彼女を守ることができたのに――。

 後悔と自責の念、そして相手に対する憎しみで、リオネルが振るう剣はいっそう冴えを増した。


 リオネルの攻撃を、ブラーガは刃の大きい剣でようやく受け止める。

 このような頑丈な剣でなければ、受け止めても刀身が折れていただろう。ブラーガは劣勢に追い込まれながらも、口元を歪めて笑っていた。

 皮肉っぽい笑みではあるが、それはたしかに彼の愉悦をあらわしている。


 愉しいのだ。

 己と互角に戦える相手がいることが、嬉しいのだ。

 ――生きている、気がした。


 その表情が貴族側には余裕の表れだと受け止められたのか、エラルドと剣を交えていたディルクが、「リオネル、気をつけろ!」と叫ぶ。


 ベルトラン、レオン、マチアス、そしてその他の騎士たちは、湧いて出てくるような山賊たちと剣を撃ち交わす。

 彼らは皆、卓越した剣士であったが、総勢二十三名の彼らに対して、相手は数百人単位である。もともとカザドシュ山にいた数は不明だが、山賊の本拠地であるうえに、スーラ山とラナール山の生き残りがこの山に集まっていることを考えれば、五百人をゆうに超えている可能性もある。

 一瞬でも気を抜けば、八つ裂きにされるだろう。

 豪胆なシャルムの剣士たちも、とても余裕があるとはいえぬ状態だった。


「すごい数だ。これだけの人数が生活していたのだから、農村の略奪も多いわけだ。大男ばかりだからよく食べるだろうし」


 エラルドひとりが相手でもらくではないのに、それに加えて四方から攻撃を受けるディルク。だが余裕がないからこそ、普段の自分の調子を保つかのように無駄口をたたいてみる。


「山賊に仕留められて、鍋料理にされるのは御免蒙ごめんこうむる」


 ディルクとさほど変わらぬ状況であるレオンもまた軽口に乗っかった。


「レオンは、鍋の材料になるのと、ベルリオーズの領民に返り討ちにあうのと、どちらがいい?」

「……そんなくだらないことを言っている暇があるなら、リオネルの助太刀をしてアベルを賊の手から救い出せ!」


 明らかに不機嫌になったレオンの口調と共に、彼の振るう剣の動きも雑になる。


「それができたら苦労はしないよ」


 危うく避けたエラルドの剣の切っ先が、ディルクの癖のある髪を一部切り取り、カザドシュ山の大気に舞わせた。エラルドと一対一なら、これほど苦戦は強いられなかっただろう。


 ベルトランとマチアスは無言で敵を斬り続けている。その一帯では、すさまじい血の雨が、逆さに降り注いでいる。

 皆が、未だ敵の手のなかにあるアベルをいかにして救い出すか、戦いながらそのことを考え続けていた。


 ヴィートもまた、戦っていた。

 仲間だった者たちに、剣を向けることを望んだわけではない。

 相手が襲いかかってきたから、迎え撃たねばならなくなってしまったのである。

 貴族がここに現れたということは、つまりヴィートは彼らを案内した明白な裏切り者である。そのうえ、貴族であるディルクが彼の命を助けたのだから、ヴィートは山賊らにとって疑いようのない敵であった。


 死ぬ覚悟をしていたヴィーとだが、少し事情が違ってきていた。

 このような激しい争いになってしまった今、アベルがリオネルらに無事に返還される保証はないのだ。アベルを安全な場所に移し、山賊ではなく貴族らの手に戻したい。それまでは、なんとしても戦い続けねばならなかった。

 だが、そこはヴィートの甘さであり、優しさでもあるのだが、剣を向けてもけっして相手を死傷させることはなかった。折り合いが悪かったとはいえ、かつての仲間だった者の命を奪いたくないのだ。


 カザドシュ山に血の匂いが満ちはじめる。

 まだ冷たいながらも、春の香りを乗せた風が、生臭い匂いに染まった。


 自分が賊の腕のなかに囚われていることに、アベルは気づいていた。

 手足がしびれ、重たく感じられる。

 意識が戻ったにもかかわらず、己の意思で身体を動かすことができない。

 そのことを知ったうえでのことなのか、賊は安心しきったようにアベルを片手で抱えながら、戦う二人の後方に控えている。


 戦う二人――。


 彼女の目に映っていたのは、すさまじい気迫で剣を交える、リオネルとブラーガの姿だった。


 なぜリオネルがここにいるのか。

 そこまで考えられるほど、アベルの意識は明瞭ではない。

 だが、自分を一瞬にして打ち負かした相手と、互角か、むしろ優勢に戦っているリオネルの姿は、はっきりと認識されていた。

 彼ならあの山賊に勝てるかもしれない。そう思っても、気持ちは焦慮にかられて、どうにもならなくなっていた。

 朦朧とした頭で思うことはただひとつ。


 ――戦わなければ。


 あの山賊の強さは、並外れている。リオネルの……仲間の、足手まといになりたくない。

 だが手足は感覚がないように感じられ、動かそうとしてみても、実際に動いているのかどうかさえわからなかった。


 焼けつくように痛む喉から、声を絞りだす。

 リオネル様……と。


 それは、ゆるやかな風にも吹き消されるような小さな声だったが、戦いのさなかにあるリオネルの耳には届いたのだろうか、それともなにかを感じとったのか、リオネルは敵を見据えたまま、だが、かすかに口元だけを笑ませた。


 ――大丈夫だ、心配はいらない。

 アベルを安心させるために、そう伝えようとしているかのような表情だった。

 必ずこの男に勝って、きみを助けるから――、と。


 勝敗が決したのは、リオネルが笑みを消してすぐのことだった。

 そのとき既にブラーガとリオネルは数十合、剣を撃ちあわせていた。

 双方とも疲れの色は現れていなかったし、劣勢に追い込まれていたといっても、ブラーガが負ける気配もなかったのだ。……その瞬間までは。


 ブラーガが隙を見せたのは、人がまばたきをする瞬間ほどのあいだだった。

 相手を傷つけまいと戦っていたヴィートの頭上に、賊の剣が振り下ろされるのを視界の端でとらえたとき、ブラーガは自分でも意識せずにそちらへ注意を向けた。

 一瞬の出来事だった。


 ヴィートはすんでのところで攻撃を避けたが、ブラーガは避けられなかった。

 相手がリオネル以外の者だったら、容易に避けられただろう。だがこの青年のまえで見せた隙は、決定的な命取りとなった。


 この機会をリオネルが見逃すはずはなく、するりと相手の懐に入っていったリオネルの長剣が、ブラーガの胸を突く。

 ブラーガの背中から飛び出した鋭い剣先は、目に痛いほどの赤に染まっていった。


 凍てついたように、時間が止まった。


 山賊らはだれも、目の前の光景を信じることができなかった。

 彼らにとってブラーガは、この世でもっとも強く、無敵で、なによりも恐れるべき存在だった。

 それは、生まれてから、今の今に至るまでずっと変わらぬ事実だった。

 そして、これからも永遠に変わらぬ事実であり続けるはずだった。


 けれど今たしかに、目のまえでは、ブラーガの胸を一本の長剣が貫いている。

 ブラーガを刺したのは、若い貴族の青年。

 突き出た長剣の先から滴る血が、この出来事が真実であることを告げているようだった。

 ブラーガは、笑っていた。


「最後まで、面倒ばかりかけやがって」


 抑揚のないその声は、はっきりしている。

 ――ヴィートに向けられた言葉だった。


 リオネルが剣を引き抜くと、もはや己の力では立てなくなった男の身体が、カザドシュ山の地面に伏した。

 この瞬間、山賊たちは首長と仰ぎ従うべき者を失った。


 ひとりの男の絶叫が響きわたる。

 幼馴染みであり、親友であり、兄であり、そして父親でもあり、だれよりも反発し、だれよりも甘え、そして慕っていたその男の名を叫んだのは――ヴィートだった。






 ……。

 遠い昔。


 それは…………。



 それは、真夏のことだった。




『おい、ヴィート! そんなところで、ぼんやり突っ立ってるんじゃねえよ』


 あの日の声が聞こえる。


『おまえが地べたにいると、移動するときに邪魔なんだよ』

『おれは、騎士の子だ! おまえらみたいに、木の上を移動したりなんてしない』

『聞いたか、みんな。ヴィートは騎士だってよ!』

『騎士様か、すげえや!』


 記憶のなかにある残像が、ぐるりぐるりとまわっている。

 高い木々が、黒い化け物のようにヴィートを取り囲み、襲い掛かってくるような気がした。

 あのときも、泣くことしかできなかった自分を守ってくれたのは、ブラーガだった。

 彼が現れると、またたくまに仲間たちが逃げ去っていく。


 視界が晴れる。

 化け物が去る。

 ああ、いつもの優しい木の葉だ。


 だが、手を差し伸べてくれたブラーガに、自分はそっぽを向いた。

 視界は涙で揺れていた。


『いつまでも昔にこだわるな。おれたちは山賊だ』

『わかってるよ。でも――』

『おまえは、わかってない』

『――おれは、殺すんじゃなくて、守りたいんだ。奪うんじゃなくて、与えたいんだ』

『なんの受け売りだ? 安っぽい台詞だな』


 ブラーガは苦笑していた。


『おれは騎士になれなくても、その精神を忘れたくない。弱い者を守って、いつか愛する貴婦人に出会って、その人に惜しみない愛をささげて、命をかけて戦いたい。おれはいつか山賊なんてやめて、まっとうに生きるんだ』

『そうか。だが、おれを裏切ったら容赦しないぞ』

『ブラーガこそ、おれの愛する人を傷つけたりしたら、赦さないからな』


 無言でブラーガは踵を返した。


『でも、ブラーガ! 助けてくれてありがとう! もし、いつかおまえが危ない目に遭ったら、おれは必ず助けにいくから!』


 ブラーガの後ろ姿が、鬱蒼とした森の奥へ消えていく。


 あのとき彼は、どんな顔をしていたのだろう。



 それから、十五年の歳月が経ったが、あの日から二人はなにも変わっていない。

 騎士になって、愛する貴婦人を守ろうとしたヴィート。

 そして、最後までヴィートを気にかけ、守ろうとしたブラーガ。

 あの日の約束もまた、今でもヴィートのなかにある。








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