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 さほど広くはない部屋の扉口に、ふと人の気配を感じて、エラルドは顔を上げる。

 いつから戻っていたのだろう、ブラーガだった。


 そのときエラルドは、部屋の壁にもたれかかって座っていた。少し離れたところには毛皮が敷かれており、麻布を肩からかけられた少女が、その上に横たわっている。

 そんな光景を眺めやり、ブラーガは口もとを皮肉っぽく歪めていた。


「殺し損ねたのか」

「おれにはできない」


 きっぱりと答えたエラルドに、ブラーガはヴィートよりもさらに濃い色の瞳を向ける。

 一方エラルドは、アンセルミ公国の血よりもシャルムの血のほうが濃く混じっているため、彼らよりも明るい色の瞳でブラーガを見返した。


「ならば、おれを恨むなよ」

「待て。この子が言っていた。ヴィートは裏切っていないと。スーラ山の場所や、ラナール山の仲間の存在を貴族らに伝えたのは、ヴィートじゃないかもしれない」


 囲炉裏の灰が、隙間風に吹かれてわずかに部屋に舞う。

 エラルドの言葉は、かすかにブラーガの眉を動かしただけで、彼の心を大きく動かすことはできなかったようだった。


「それなら、どうしてやつらにはスーラ山にある拠点の場所がわかったんだ」

「……それは、わからないが」


 小さくなったエラルドの声を、近づいてくる慌ただしい足音が消し去る。

 扉に現れたのは仲間のひとりで、ブラーガの住居の入り口を守る男である。その様子は、急いでいるようではあったが、慌ててはいなかった。


「首長、ヴィートが現れました」


 エラルドは息を呑む。

 だが、ブラーガは普段どおりの口調で、


「『裏切り』の定義を論じるつもりはない。結果がすべてだ」

 

 と言い捨て、意識のないアベルの身体を片手で抱えあげ、扉口へ向かった。


「その子をどうするつもりだ」


 咎めるようなエラルドの問いに、ブラーガは短く答える。


「あいつ次第だ」


 黒く冷たい瞳がエラルドを一瞥し、去っていった。







 柵をとびこえたヴィートは、迷うことなく集落の奥へと突き進んでいく。


 二年ぶりに訪れる、生まれ育った場所――そして永遠に別れを告げたはずの場所。懐かしさと共に、言い知れぬ疎外感を感じる。

 未練などないはずだった。

 それなのに、尖った爪でひっかかれたような痛みを覚えるのは、なぜなのか。


 それは、昨夜アベルに、「彼らは、それだけのことをしてきている。殺されて当然だったのだ」と語ったときの痛みと、同様のものだった。



 数件の小屋を行き過ぎたとき、ヴィートは人の気配を感じて足を止めた。振り返ったヴィートの視界に、無数の鈍い光が広がる。

 かつて仲間だった男たち――共に育ってきた者たちが、それぞれ直剣や斧を手にして周りを取り囲み、その刃先をヴィートに向けていた。


 そのことに対して、ヴィートは驚きもしないし動揺もしない。

 幼いころから、いつだって彼らの刃はヴィートに向けられていた。

 かつては、石を投げつけられ、沼や崖に突き落とされたこともあった。時が経った今でも、スーラ山において幾度か命を奪われかけている。実際の刃がこちらに向いていようがいまいが、昔から彼らに心を傷つけられてきたという意味において、状況になんら変わりはない。

 ヴィートはいつのときも、仲間から、見えぬ刃で傷つけられてきたのだ。


「裏切り者が、のこのこ殺されるためにここまで来たのか」

「貴族みたいな格好しやがって。憧れの騎士様にでもなったつもりか?」


 山賊らから、凶器と敵意、そして冷笑を向けられたヴィートは、己の武器を構えることなく告げた。


「ブラーガに会わせてほしい」


 束の間の沈黙が、山賊らのあいだに流れる。それは、ヴィートとブラーガの関係を知るがゆえの沈黙だった。


 しばらくして、ひとりが嘲るように鼻で笑う。彼も、この山でヴィートやブラーガと共に育った男である。


「今更、赦してほしいとでも頭を下げにきたのか?」

「そうじゃない」


 わずかに眉を寄せ、ヴィートは視線を集落の奥へと向ける。


「……大事なものを、取り戻しにきた」

「大事なものを、取り戻しにきた?」


 男はさもおかしそうに復唱し、さらに馬鹿にするように笑った。


「おまえの大事なものっていうのは、雀の雛か、雛菊ひなぎくの蕾かなにかのことか?」


 夢見がちなヴィートをあざけってから、男は最後に笑いをおさめて目を細める。


「それとも、首長が捕らえた子供のことか?」


 かつての仲間とヴィートは無言で睨みあった。


 ――大事なもの。

 むろんそれは、アベルのことである。

 だが、それだけではなかった。


「話している時間はない。通させてもらう」


 ヴィートは顔をうつむけると、彼らのあいだをぬうように歩きだす。すると、その頭上へ、今しがたまで睨みあっていた男の直剣が振り下ろされた。


「そうはいかねえよ、ヴィート! 裏切り者をこれ以上先へ通すわけにはいかねえ」


 一回転してするりと切っ先を避けたヴィートは、即座に体勢をたてなおし、次に襲いかかってきた刃先を、携えていた長剣の柄で受け止める。この長剣は、ラロシュ邸を出るまえにベルトランから渡されたものである。

 アベルを助けるまで貸しておく、と。


 夢見がちで理想主義者ではあるが、ヴィートの腕が立つことは、仲間も重々知っていた。

 山賊らは警戒していた。

 だが今のヴィートはたったひとりで、この山にいる数百名の山賊を相手にしているうえに、さきほどから攻撃をかわしてはいるが、長剣を柄から引き抜こうとする気配はない。


 ――ヴィートに戦う気はない。


 そのことに気がつくと、周囲は恐れを捨てて猛攻に出た。

 いくら強いといえども、抜き身の剣を構えぬ相手である。過剰に恐れる必要はない。


 柄に収まったままの刀身を打ち合わせながら、ヴィートは声を張り上げた。


「殺したいなら、殺せばいい。だがそのまえにブラーガと話させてくれ」

「首長は、おまえの死に顔しか見たくないだろうよ!」


 噛み合った刀身が、いったん離れる。息をつく間もなく降りかかってくる剣先を、ヴィートは弾き返し、撥ね飛ばし、叩き落とした。

 この集落に足を踏み入れてから、すでにそれなりの時間が経過している。早くしなければ貴族らが踏み込んでくるだろう。

 そうなれば、もはやブラーガと話し合うことなどできない。


 逸る気持ちが、汗の粒となってヴィートのひたいを流れたとき、その声は聞こえた。


 幼いころ、おそらく記憶にあるよりも昔から、そばで聞いていた声である。

 二年ぶりに聞くその声は、懐かしさと、そしてわずかな距離を感じさせた。そう感じたのは、ヴィートのうちにあるなにかのせいだったかもしれない。


「ずいぶんと洒落しゃれた格好じゃないか」


 視線を向けた先で山賊らの波が割れ、開かれた道からひとりの男が現れる。

 背丈はさほど高くはなく、山賊のなかではむしろ低いくらいであるが、彼が放つ存在感はすさまじい。


 はじめて見るヴィートの騎士姿を、ブラーガは皮肉を込めて眺めやった。


「剣を抜かないのは、それも騎士道的精神などというやつか?」


 己の身長ほどもある巨大な直剣を肩にかけ、もう片方の腕に意識のないひとりの少女の身体を無造作に抱えている。


「ブラーガ……」


 首長の登場により攻撃をやめた山賊らだが、武器の刃先はヴィートへ向けたままである。彼らに囲まれながらヴィートは立ちつくしてその名を呼んだ。


「剣を抜かずに、己自身と、この子供ガキを助けられるとでも?」


 アベルの顔は見ることができない。

 ただ、横に流れた金糸の髪の背後に、紫色に変色した首筋がのぞいていた。だらりとぶらさがった腕、青白いほどの指先が、ヴィートに激しい不安を与える。


「……まさか、殺したのか」


 問われて、皮肉っぽく口を歪ませたブラーガは、無言でアベルを抱きなおし、仲間のひとりに目で合図する。


「なにをするつもりだ」


 不安感と、訝る色とを混ぜあわせた表情のヴィートへ、ブラーガは漆黒の瞳を向けた。

 仲間が持ってきたのは雪解け水が入った壺で、ヴィートが止めるより先にそれを少女の頭に浴びせかける。

 今すぐなにか手を打たなければならない。それなのに、ヴィートは動くことができなかった。それはブラーガに対する恐怖からではない。ブラーガに対する思いからだった。


「ブラーガ、頼む。手荒なことをしないでくれ」


 なおも信じたい。ブラーガのなかにある優しさを。自分とブラーガのあいだにある繋がりを。

 ……今までヴィートが、唯一信じてきたものを。


 懇願する声も聞こえていないかのように、ブラーガは冷然と言う。


「生きているようだぞ」


 冷水をあびせかけられた少女の瞳が、うっすらと開いたのだ。

 ブラーガの腕に抱えられたまま、淡い水色の宝石は、まるで魂が宿っていないかのように、宙の一点を見つめている。


「アベル!」


 駆け寄ろうとしたヴィートのまえに、数人の賊の身体と、その手に携えた得物が立ちはだかった。とっさにヴィートが長剣に手を伸ばしたとき、ブラーガは言い放った。


「生きていることはわかっただろう。これで終わりにしないか、ヴィート」

「――――」


 ――これで終わりにしないか、ヴィート。


 朝の空気が囚われるような沈黙が流れた。

 周りを囲む山賊らも、息を殺すようにして次の言葉を待っている。


 遠くで鳥が鳴いた。

 この山のどこまでも響きわたるような、切ない声だった。


 ヴィートは長剣を両手で鞘ごと握りしめ、いったん伏せた視線を再び上げて、ブラーガにひたと向ける。


「アベルを、貴族側に返すと約束してくれるか」

「約束しよう」


 返答は早かった。


 ――約束はするが、そのときに、アベルが確実に助かるかどうかは保障できない。

 かような状況であることは、互いに承知のうえである。だがヴィートにとって、ブラーガに剣を向けずにアベルを救うため、他にとりうる道はなかった。


 ヴィートは片手で掴んでいた長剣を、おもむろに両手に持ち替え、そして、ブラーガの足元へ放った。

 山賊らには、その剣の柄に掘られた模様がなにを意味するのかわからなかったが、獅子の描かれたそれは、ベルトランの実家であるルブロー家の紋章である。


 片手に抱いていたアベルを地面に横たえ、ブラーガは足を踏み出すと、放られた長剣の脇を通りすぎ、ヴィートのもとへと近づく。


 互いに、二年ぶりに間近で見る姿である。

 これほど長く離れていたことは、これまでに一度もなかった。


 不思議なものである。気がつけば、二十数年間、二人はずっと共に過ごしてきたのだから。

 離れていたこのたった二年の年月が、少しずつ二人のあいだに小さな溝をつくってきたのだろうか。

 否、離れていても、離れていなくても、いずれはこうなる運命だったような気がした。


 今日、この瞬間からまた二人は再び離ればなれになる――そして、二度とまみえることはない。


 それなのに、ヴィートの口からはどんな言葉も出てこなかった。

 己にとってブラーガは、幼馴染みであり、親友であり、兄であり、そして、父親でもあった。だれよりも反発し、だれよりも甘え、そして慕っていた。

 首長などやめて、いっしょに山を降りよう。

 まっとうに働いて、生きよう。

 ついにその言葉は伝えられぬまま、ここで二人は別れるのだ。


 ヴィートはゆっくりと両膝を地面についた。

 そして、ブラーガを見上げる。

 貴族の衣服をまとったヴィートの姿は貴公子然としており、すっとブラーガに顔を向けるさまは、優雅なほどだった。

 最後の最後に、ヴィートは騎士になれたのだろうか。


「ブラーガ、ありがとう」


 ようやくヴィートの口から出たのは、そのひと言だけだった。


 小さいころから、ずっと一緒にいてくれて。

 いつもいじめっこから守ってくれて。

 ――ありがとう。


 振り上げられたブラーガの刃幅の広い剣が、薄暗い空の光と、山の新緑を鮮やかに映し出した。


 冷たい風が吹く。


 振り下ろされるはずの間合いが来ても、鋭い剣は天高くに留まったまま、その動きを止めている。

それは永遠にも感じられる時間だった。

 けれどその時は来る。

 ブラーガが右足を踏み込む。

 だれもが息を詰めた。


 ――あのブラーガが、ヴィートを斬る。


 剣が振り下ろされ、重たい空が切り裂かれる。

 けれども、直後に降りおちたのは重い沈黙と、言葉にならぬ溜息。

 山賊から足を洗い理想を追いかけた若者の、血しぶきが舞い散ることはなかった。


 刀身がヴィートに触れる前に、止まっていたのだ。

 剣を握るブラーガの腕を掴んでいたのは、エラルドである。


「おれにやらせてくれ」


 無言で振り返ったブラーガは、なにかを探るようにエラルドを見やった。


「おまえは殺すな」


 エラルドの明るい色の瞳が、ブラーガの漆黒の闇を射抜く。

 だが、ブラーガの心の闇に光を灯すことができるのは、この世でただひとりヴィートだけなのだ。


「おれは同時に二人の友人を失いたくない」


 ――ブラーガがヴィートを殺すとき、ブラーガの心もまた死ぬ。

 それはおそらく、取り返しのつかぬことだ。


 わずかに口角を上げて、エラルドは笑う。

 ……この男は、なんて顔をしているのだろうと、エラルドは思った。ヴィートを斬ろうとしたとき、そして今、目の前のブラーガの表情といったら……。

 これが、自分の知るブラーガだろうか。


 他の者にはわからなかったかもしれない。だが、エラルドにはたしかに見てとれた。

 山賊の首長であるこの男のなかに生じる激情――それは彼自身でさえ気づいていないかむしれぬ、失うことへの恐怖。


 なにも答えないブラーガのまえへ、エラルドはやや強引に進み出た。無言であることを許可と解釈し、ヴィートを殺すことのできる位置に立つ。

 剣を構えるまえに、エラルドは両膝をつくヴィートの顔をのぞきこんだ。


「すまない。おまえとブラーガにしてやれることは、これくらいしかない」


 ブラーガを説得することも、ヴィートを逃がしてやることもできない。

 ヴィートに対しては、彼の愛する少女を救ってやること、そしてブラーガに対しては、自分の手でヴィートを殺してやること。今のエラルドの力でできることは、たったそれだけだった。


「こっちこそ悪いな、エラルド」


 すべてを理解した表情でヴィートは、笑った。

 彼らしい、柔らかな笑みだった。








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