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 卓越した剣士である若者たち、そして鍛錬された騎士たちにとっても、そこは厳しい環境だ。

 ラ・セルネ山脈の山々のあいだの低地を馬で駆けてきた彼らだったが、カザドシュ山の麓に到着すると、そこから先は馬を降りて徒歩で進まざるをえなくなった。


 スーラ山においては、かつての住人や先に討伐に向かった騎士たちがつくった「道」とはいえぬほどの空間があり、かろうじて馬で登ることができた。だが、ここは違う。


 鬱蒼とした森林の地面には、倒れた大木、雑草というにはいささか存在感のある子供の背丈ほどもある植物、蔦、複雑に絡み合う草花の茎と木の根、侵入を拒むようなそれらの存在が彼らの動きを鈍らせる。


 それでも、彼らが通っているのは、この山のなかで最も歩きやすい道である。

 案内しているのはヴィートだ。彼は、この山のことを知りつくしている。

 五人の若者と、そして二十人に満たぬ騎士らを導くヴィートの足取りはしっかりしており、迷うことなく森林のなかを進んでいく。さすがは山賊、山の男というべきであろう。


 ヴィートのあとに、ベルトランとリオネル、ディルクとマチアス、レオン、そして騎士らが続き、その騎士のなかには、ラザールやダミアン、バルナベもいる。

 ベルトランが周囲の目立った草や蔦を斬りつつ歩んでいるので、後方に続く者はいくぶんか歩きやすかった。マチアスは歩みながら、片手に持った石灰岩の欠片で木々に印をつけている。あとから来る援軍に道筋を知らせるためだった。




 アベルが連れ去られたと知ったリオネルは、すぐに、最大の拠点があるというカザドシュ山に向かうことを決断した。囮になったときとは違い、今回はアベルがいるであろう場所へ案内できる者がいる。


 カザドシュ山に赴くにあたり、リオネルは一切の迷いを見せず、また一切の反論を周囲に許さなかった。


 一方、ラロシュ邸内は山賊に襲撃された混乱から立ち直っておらず、死傷者の数も定かではなく、すぐに部隊を編成してカザドシュ山に向かうわけにはいかなかった。

 かような状態であっても、アベルを一刻でも早く救いだしたい。そのために、リオネルたちは先発隊として出立し、それに一部の騎士が同行することになったのだ。

 むろん彼らは皆、アベルの安否を心から案じる者たちである。


 残った騎士らを編成し、あとから駆けつける役目を任されたのはクロードとシャルルで、ラロシュ侯爵以外の諸侯らも用意ができ次第それに参加する手はずになっている。

 ラロシュ侯爵は、襲われた館の後処理をしなければならない。死傷した者の多くが、ラロシュ家の兵士や使用人であったからだ。




 不気味な悲鳴のようなもの、あるいは低く短いもの……方々から幾種類もの鳥の鳴き声が流れてきては、また木々の合間に吸い込まれていく。

 虫の声、風の音、木々の葉や草がこすれるざわめき。

 険しい山を行く者たちは、無言でそれを聞きながら、ひたすら先へと進んでいた。


 口数が少ないのは、登るのに必死であるということだけではなく、アベルの身を案じる気持ちが彼らの心に暗い影を落としていたためである。


 たったひとりの従騎士のために、主君らが少人数の騎士だけを伴って敵の拠点に乗り込むなど常軌を逸しており、このうえなく無謀かつ非常識なことだと一部の諸侯や騎士たちは眉をひそめたが、現在、険しい山を登る男たちのなかに、そのような考えの者はひとりもない。


 リオネルにとってアベルは、この世でだれよりも愛しい相手であるし、ディルク、レオンにとっては既に失うことのできない仲間、ベルトランにとってはかわいい従騎士であり、主人の愛するかけがえのない存在でもある。


 また、マチアスのなかには様々な疑念があったが、それを抜きにしても守るべき存在だった。

 ベルリオーズ家とアベラール家の騎士らにとっては、よき友人であり後輩、そして主人が大切にしている年若い臣下である。


 こうしてアベルを取り戻すべく、シャルム国内でも指折りの剣士らがカザドシュ山にある賊の拠点を目指したのだった。



 鬱蒼とした木々の向こうに、早朝の明るい空が見えたような気がしたのは、木々が少なくなり空間が開けてきたからである。

 そのときすでに、若者たちや騎士らの足には、枝や石などでついた傷が無数にできていたが、その痛みを気にする者はなかった。


 ラロシュ邸を発ってから、丸一日以上が経っていた。

 山賊らより時間はかかっただろうが、ようやく目的地に辿りついたのである。


 木々の陰に身を隠しながら、彼らは山賊の拠点のあるほうを見やった。

 柵と堀が周囲にめぐらされている集落は、スーラ山にあった拠点の構造と同様だ。

 それは、外部からの攻撃を防ぐためではなく、捕らえた獲物――女子供――が万が一逃げ出しても、集落の外へは出られないようにするためのものだった。せっかく捕らえた獲物を、熊や狼の餌食にするのはもったいないのである。それに万が一、麓に辿りついたときには彼らの居場所を知られることにもなる。


 柵の向こうには、この険しい山のなかでも比較的平らで、地盤の硬い土地を利用してつくられた集落が広がって見える。それは、ひとつの村ほどの大きさはあるようだった。

 麓にある領民の家より簡素な造りだが、彼らの住居もそれなりのものである。


 この集落のどこかに、アベルがいるかもしれない。命があるとも知れぬアベルが……。

 そう思うとリオネルの胸は痛みを覚えた。


 早く救いだしたい。

 一刻も早く。

 どんな痛みや苦しみからも、彼女を守りたかった。


 それと同時に、リオネルの心のうちには葛藤があった。

 アベルを連れ去った男は、山賊の首長であるという。もともと首長と話し合いたいと考えていたリオネルだが、今となってはアベルに危害を加えた男と冷静に議論などできそうにない。

 愛する女性を傷つけられて、赦せるはずがない。


 もしもその男に、アベルが殺されていたら――。

 己がどう振る舞うのか、どうなってしまうのか、リオネル自身にもわからなかった。


 他方で、ヴィートは、ブラーガはけっしてアベルを殺さないと、信じていた。

 人は、己のうちにあるものを他人のなかにも見出すものである。つまりヴィートは、彼自身のなかにある優しさを、ブラーガのうちにも見出そうとしていたのだ。


「入口はどこにあるんだ?」


 小声で尋ねたのはディルクだった。


「まさか堀を飛び越えていくわけじゃないだろう?」

「そのまさかだ」


 すかさず答えたヴィートに、ディルクは片眉を寄せる。


「山賊には翼があるのか?」

「堀には水がないし、数か所、登り降りのできる場所がある。堀は足で越えるんだ」

「柵は?」

「それこそ、飛び越えていく」

「ずいぶん老人や女子供に親切な構造だな」


 冷ややかに言及したのは、ディルクではなくレオンだった。


「さらってきた女子供を、閉じこめておくためのものだからな」


 ばつが悪そうに、ヴィートは説明する。


「それで、アベルがいる場所の見当はついているのか?」


 再び尋ねたのはディルクで、ヴィートはややうつむき、うなずいた。


「じゃあ、どうやってそこに近づくかが問題だな。相手はかなり警戒しているだろうから」


 ブラーガをはじめとする山賊らは、貴族側がスーラ山を攻撃した時点でカザドシュ山も同様に攻め入られることを覚悟しているはずだ。そのうえ、ヴィートが山賊をやめて貴族側についたという疑念を抱いていれば、なおさらである。


「警戒しているわりには静かだな。人影がない」


 太い木の幹に片手をつき、長身をかがめて、ベルトランは集落の様子をうかがっている。


「もしかすると、ここではない場所に戻ったのか」

「とすると、ラナール山?」

「まったく別の場所か――もしくは裏の裏をかいて、この集落に身を潜めているのかもしれない」


 ベルトランとディルクが話していたが、リオネルは集落へひたとひたすら鋭い視線を投げかけている。


 周囲の者には、彼がなにを思っているのかわからない。けれど、周囲が想像する以上に彼は冷静だった。集落を観察し、いかにして効率的に堀や柵を越え、集落に入りこめるかということを頭のなかで周到に考えていた。


 アベルが本当にここにいるかどうかはわからない。それを知るためには、この集落に飛び込み、確認するしかないのだ。

 ならば、あとは行動するのみである。

 リオネルがそう考えていたところに、ヴィートは、頼みごとをするというよりは小さくつぶやくように言った。


「まずは、おれひとりで行かせてくれないか」


 それに即答する者はなかったが、しばらくしてリオネルが口を開く。


「ひとりで行って、どうするつもりだ」


 ヴィートは褐色の瞳をリオネルへ向けた。


「ブラーガは、おれの幼馴染みだ。あんたじゃないけど、まずは話し合いたい」

「…………」


 リオネルは表情を変えず、再び口をつぐんだ。

 どうすれば仲間の被害を最小限に抑え、アベルを早く安全に、そして確実に助けられるか――リオネルは考えをめぐらせる。


 だが、ヴィートにはそれ以外の問題があった。

 ブラーガと、二年ぶりに落ちついて話しがしたいのだ。

 このまま全員で突入し、争いと混乱のなかで剣を交えたくはない……否、なにがあろうともヴィートにはブラーガを害することはできない。


 ヴィートは、山賊であった父親がさらってきた若い娘に産ませた子供である。商家の娘であった母は、多くのさらわれてきた娘がそうであるように、山の環境に適応できず産後間もなくに死に、父親もヴィートが幼いころに死んだ。

 甘える相手もなく、山賊の仲間からは受け入れてもらえず、今でこそエラルドとは気のおけぬ関係だが、幼いころはほとんど話すこともなかった。彼に同情して親切にしてくれた大人は、前の首長であるチェルソだけだ。


 そんなヴィートにとって、もはやブラーガはただひとり、幼少のころからずっとそばにいてくれた、幼馴染みであり、親友であり、兄であり、そして、父親のごとき存在でもあった。


 ブラーガが首長の座に就いたとき、ヴィートがカザドシュ山からスーラ山へ移ったのは、チェルソを殺したことへの怒りと、そしてもうひとつ、親兄弟に対するような甘えを伴う反抗心を抱いたからだ。それは、間違いなくブラーガへの愛情の裏返しであり、自分の気持ちに気づいてほしいという訴え方のひとつだった。


 なぜ山賊の首長などになったのか。

 首長などやめて、いっしょに山を降りよう。

 まっとうに働いて生きよう。

 本当は、そう伝えたかったのだ。


 初めからきちんと向き合い、そう言えばよかったと、今になって後悔している。

 どうして、あのとき自分は逃げたのだろうか。ブラーガと真正面から向き合うことから。

 敵味方の関係――裏切り者と、裏切られた者という関係になり、ヴィートは初めてそう感じた。


「しばらくして戻ってこなかったら、こちらから行く」


 それでかまわないならば、とリオネルは了承する。


 まっさきにリオネルは踏みこもうとするだろうと思っていた周囲は、ヴィートの申し出を許したことを意外に思う。だが、考えてみればリオネルらしい返答でもあった。


 己の急く気持ちに距離を置き、冷静に判断したのだ。

 話し合いで取り戻すことができるのであれば、それに越したことはない。

 それができなければ、攻め入り、奪い返すのみ。


「わかった」


 ヴィートはそれだけ答えて、ほんのわずかなあいだリオネルの瞳を見つめる。

 二人の視線が交差した。


 そのときリオネルの脳裏に、ラロシュ邸からここに来るまでの道中において唯一交わしたヴィートとの会話が蘇る。


 ……カザドシュ山を徒歩で登りはじめてすぐのことだった。




『おれは、アベルに謝らなければならない』


 先頭を行くヴィートが振り返りもせず、近くを歩いていたリオネルへ唐突に切りだした。


『廊下で偶然すれ違って、あんたにアベルを幸せにできるのかと言ったときのことを覚えているか』


 悠長に会話などする気分にもなれず、しかしヴィートがなにを話しはじめるのか、まったく気にならないわけでもなく、リオネルは「ああ」とだけ答えた。


『あの夜、おれはアベルに結婚してほしいと、自分の気持ちを伝えたんだ』


 独り言のように話すヴィートの言葉が、そのとき初めてリオネルの視線を上げさせる。


『断られたよ』

『…………』

『自分は女としての生き方を捨てた――主人を守ることだけに一生を捧げるのだと言われてな。だからあのとき、おれはあんたに「幸せ者だな」と言ったんだ。あんたがうやらましくもあったし、憎くもあった』


 寝室の前で立っていたアベルの顔に涙の跡があったわけを、リオネルはそのときようやく知る。

 彼女は、あのときヴィートに結婚を申しこまれたのだ。

 そして、アベルは断った。

 自分は女としての生き方を捨て、主人を守ることだけに一生を捧げるのだと言って。


 ――だが、リオネルは疑念を抱いた。


 それは、彼女が真に望んだことなのだろうか。

 だとしたら、なぜアベルは泣いたのだろう。

 リオネルの胸に、静かな、だが残酷な小波が広がる。


『断られたが、おれは諦めないつもりだった』


 話しながらも、ヴィートの進む速さに変化はない。

 リオネルは地面を見据えながら、ヴィートのあとに続いた。


『そのはずだったのに、おれはひどいことをあの子にしてしまったんだ』


 闇に染まりはじめた大気が、冷たい夜風を運んでくる。

 昨夜アベルと二人で話したときもまた、夜風が冷たかったことをヴィートは思い出す。


『子供がいると――二年前に子を産んだと聞いて、おれはあの子を見る目を変えた。あんたと話すまでのあいだ、ずっと気持ちがわだかまっていた。そんな些細なことでおれは彼女に対する想いに迷いを抱いて、そしてその結果、アベルの心を傷つけた』


 アベルはこう言った。

 ――結婚できない理由をわかっていただけましたか?

 ――わたしは、あなたが思っているような、無垢で汚れない人間などではないのです、と。


 どうしてあのとき、すぐにそれを否定できなかったのだろう。

 あのとき、だれよりも傷ついていたのは、このような台詞を口にしなければならなかったアベル自身だったはずなのに。

 その台詞を言わせたのは、ほかならぬ自分であったのに。


『だからあの子に謝りたいんだ』


 ヴィートの話はそれで終わった。

 その先はなかった。


 彼はリオネルに、なにを伝えたかったのか。

 謝って、あらためて結婚を申しこむのだとは、彼は言わなかった。

 ――謝りたい。

 ――「最期に」。

 そう、リオネルには聞こえた。


 アベルの流した涙。

 リオネルの胸に広がった、静かな、だが残酷な小波。

 ――本当は、アベルはヴィートの気持ちを受け入れたかったのではないか。

 だとしたら……。




 リオネルから視線を外したヴィートは、踵を返すと、飛ぶように走りだした。


 しばらくして戻ってこなかったら自分たちも行く、というリオネルの言葉がヴィートの耳に残っている。

 ……しばらくして戻ってこなかったとき――そのとき、己の命はもうないだろう。


 木の陰から、朝の曇り空のもとに出たヴィートの姿は、またたくまに堀を過ぎ、柵を越えていく。

 長いあいだ暮らしていた場所である。目をつむっていても行ける。

 その身軽さは、まるで翼があるようだった。


「死ぬつもりかな、彼は」


 ヴィートの後ろ姿を見送ったディルクが小声でつぶやく。

 それに返事をする者は、ひとりもなかった。







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