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 仲間の死傷者はさほど多くはなかった。

 夜襲であったため、油断していた門番や牢番、眠っていた使用人や騎士……これらの無抵抗な者たちを殺めることができたからだ。


 山賊にとって最も被害が多く出たのは、「騎士の間」である。たったひとりの若い騎士の手によって、数十人を超える仲間が斬られた。

 だが、その復讐は果たされたのである。

 首長であるブラーガが、彼を捕らえたのだ。


 スーラ山にいた山賊のうちでも、その若い騎士が、実は女性であり、ヴィートの惚れた相手であることに気づいている者はない。少年騎士の姿が、美しいドレスをまとった先日の雰囲気とかけ離れているためである。


 その少年騎士の命があるかどうか、だれも知らない。いや、だれもというと語弊があるかもしれない。彼女の首を絞めた本人であるブラーガと、しきりと彼女のことを気にかけ、ブラーガから引き離そうとしていたエラルドだけは、やがて知ることとなった。



 カザドシュ山の集落に着いたとき、ブラーガは己の小屋の一室に、山で狩ってきた獲物を扱うかのようにアベルを無造作に放り、それから彼女が女性であるということだけを確かめると、それ以上は関心を示さずにアベルから離れ、部屋までついてきたエラルドに告げた。


「最後に力を入れ損ねたようだ――おまえが余計なことを言ったせいだ」


 立ちあがったブラーガが、少女のそばから離れると同時に、エラルドは横たわる身体に駆け寄る。

 襟元からは、きつく締められて変色した首が垣間見える。胸元はほんのわずかに上下し、唇からはかすかな息がもれていた。

 生きているのだ。


 なぜこの少女が意識を失う直前に、負傷した騎士を殺さないよう懇願することができたのか、そのときようやくエラルドはわかった。ブラーガは最後の最後に、首を絞める力をゆるめたのだ。

 だから彼女は、あのとき話すことができた。

 裏を返せば、あのとき話すことよりも呼吸することを優先していれば、少女はこれほどひどい状態にはならなかったのではないか。


 部屋を去りかけていたブラーガが、扉のまえで足を止める。


「この女が死んでいれば、ヴィートの命は助けるつもりだった」


 いつもと変わらぬ抑揚に欠ける彼の声だったが、その中に微妙な感情の揺れをエラルドは聞いた気がした。

 それはエラルドを責めているというより、どこか寂しげに響いた。


「おれはどちらが死んでもかまわない。だが、もしおまえがヴィートを助けたいなら、そいつにとどめを刺しておけ」


 無造作に伸びた漆黒の髪に感情を隠して、ブラーガは隣の部屋へ消えていった。

 小さな窓から差し込む早朝の薄い日差しが、部屋に残されたエラルドの浮かぬ顔を映している。


 ……おそらく、ブラーガは本気だったのだ。

 最大限の苦しみをヴィートに与えると知っていて、この少女を殺そうとした。それはおそらくヴィートにとって、己が拷問にかけられて死ぬよりも辛いことだからだ。


 だが、ブラーガがそうしようとした行動の裏に、もうひとつ彼の本心が隠されているような気がする。

 ……ブラーガは自分の手で、ヴィートを殺したくなかったのではないだろうか。

 ヴィートを生かしておきながら、最も重い制裁を加えようとしたのではないか。

 だが、それが叶わぬなら、直接ヴィートの命を奪わねばならない。

 つまり、この少女を生かしていくことは、ブラーガを苦しめると同時に、友人であるヴィートの命まで失うことになるのだ。


 まだ幼さを残す少女の顔を、エラルドは見つめた。

 あれから丸一日ほど立つが、一度も意識は戻っていない。

 眠っているというよりは、昏睡状態だろう。このまま目覚めなければ、どのみち死ぬかもしれない。

 ならば――ならば、ヴィートの命だけでも救いたい。

 これ以上、仲間を失いたくない。


 すでに濃い痣のついた少女の首に、エラルドは己の大きな手を巻きつけた。

 後ろで指をからませることができるほど、細く頼りない首。

 親指に力を入れる。

 もう少女はすでに虫の息である。さほど力を加えずとも死ぬだろう。

 今まで人を殺すときに、怖気づいたことはない。だがそのとき、エラルドの手は震えていた。幾多の者を殺めてきたが、女子供は手にかけてこなかった。

 ましてや、ヴィートの惚れた相手……。


 気道をふさがれた少女の顔が、苦しげに歪む。

 無意識のなかでも、空気を求めて唇が開き、首に巻きつくエラルドの両手を引きはがそうと指が動く。

 それは、細く、小さな指だった。


 ――おれは、弱い者を守って、いつか愛する貴婦人に出会うんだ。

 ――そしてその人に惜しみない愛をささげて、命をかけて戦いたい。


 脳裏に蘇ったのは、ヴィートの口癖だった。


「――――」


 首を締めつけたまま、エラルドの動作が止まる。

 そのとき、少女の長い睫毛と瞼が震え、うっすらと開いた。

 隙間から、淡い水色の宝石がのぞく。

 まるで、秋の日の、澄みきった青空のような色だった。


 瞬間、胸が熱くなる。

 なにかが胸の奥からこみあげてきて、エラルドの喉をつまらせた。


 ――ああ、そうか。


 彼にはわかった。ヴィートが彼女に惚れた理由が。

 なにかがぽつりと己の頬に落ちるのを感じた。

 親指からは完全に力が抜け、ゆっくりと少女の首から両手が離れていく。


 ……自分もブラーガも、ヴィートも、望むと望まざるとにかかわらず、生まれながらにして山賊になる運命を背負っていた。産まれたその瞬間から、自分たちの手はすでに汚れていた。まっとうに生きる道など用意されていなかったのだ。

 それでも、ヴィートはどこまでも純粋で、ひたすら己の心にまっすぐで、常に正しいこと、美しいものだけを求めつづけていた。

 あんな生き方ができたなら――。

 あんなふうにいつまでも子供のころの思いを抱きつづけ、まっさらに生きられたら。

 知らず知らずのうちに、心のどこかでそう思っていたのは、自分だけではないだろう。ブラーガは、ずっと幼いころから感じていたのかもしれない。

 そして、そんな純粋なヴィートだからこそ、この娘に――この娘の瞳が宿す澄みきった色に、惹かれたのかもしれない。


 美しい水色、というだけではない。その瞳には、たしかに彼女のうちにある、無垢でありながら強く、清らかなものが映しだされている。

 それは、ヴィートが追い求めていたもの。

 どこまでも汚れなく、美しいもの。

 汚い仕事をしている山賊の皆が、焦がれてやまないもの。

 ブラーガはヴィートに、ヴィートはこの少女に、それを求めた……。


 自分がしようとしていたことの罪の重さに気がついたとき、エラルドは身震いした。

 血と罪に染まったこの手で、ヴィートにとってかけがえのないものを壊そうとしていたのだ。


 少女の瞳はうっすらと開いたままである。

 不安にかられてエラルドが口元に手をもっていくと、その唇からは吐息が感じられた。

 ――生きている。

 見知らぬ男をぼんやりと見つめながら、アベルはピクリとも動かずにいた。まだ意識がはっきりしていないのか。


 エラルドはなにかを吹っ切るように袖で顔をぬぐい、立ちあがる。

 部屋の隅にたたんで置いてあった毛皮を壁際に敷き、アベルの身体を抱き上げその上に移してやった。


「大丈夫か……?」


 少女の瞳をのぞきこむと、少女の瞳がエラルドを見返す。だが、なんの反応も返ってはこなかった。


「ひどいことをして、すまなかった」


 敷いた毛皮のまえに、エラルドは胡坐をかいて座る。


「まだ苦しいか?」


 問いかけても、返ってくるのは不思議そうに相手を見つめる眼差しだけである。


「首、痛いだろう。もうすぐ、ここにヴィートが来ると思う。あいつが本当に裏切ったのなら、貴族たちの率いる兵士たちも来るだろう。すべてのカタがついたら、きみをもとの場所に戻せるように努力する。もう少しここで辛抱してくれ」


 すべてが終わるころには、自分の命があるかどうかも定かではないが……。エラルドは、今はそのことを考えないようにした。


 少女の瞳に映った光が、わずかに揺れる。


 違う、アベルの唇はそう言うために動いたが、喉から出たのは声にならぬ声だけで、同時に彼女の喉の奥は激しく痛んだ。

 それでもアベルは再び口を開く。


「ヴィー……ト、は、裏切って……ない。わた……しが……」


 懸命に声に出して伝えることができたのは、それだけである。

 空気を求めるように苦しげに息を吸うと、それ以上話しを続けることなく、アベルは再びぼんやりとした面持ちになった。


 うつろな瞳でエラルドを見ていたかと思うと、淡い水色はゆっくりと薄い瞼に覆われてしまった。少女の意識は朦朧としているようだった。

 無理に動いたり話したりすれば危険な状態である。だが、どうすればいいのかエラルドにはわからず、そのまま横たえておくしかなかった。

 この娘はなにを言おうとしたのだろうか。


 ――ヴィートは裏切っていない。わたしが……。


 どういう意味だろう。

 もしヴィートが裏切ったのでなければ、ブラーガに彼の命を奪わせないですむのではないか。そんな淡い期待が、エラルドの心によぎる。


 できることなら、ヴィートとブラーガ、そしてこの少女を救いたい。

 そう思ったとき、エラルドはふと自嘲気味に笑った。

 いつのまに、自分はこのような甘い考えを持つようになったのだろうか。二年間、スーラ山でヴィートのそばにいたせいだろうか。


 小さな窓から差し込む日差しは、明るさを増していく。

 だが、今エラルドの脳裏に浮かぶのは、それとは対照的な、何も寄せつけぬようなブラーガの漆黒の瞳だった。







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