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ステンドグラスから差し込む光は弱く、燭台の火によって、ようやく空間を把握できるほどの明るさである。
夜が明けて間もない。
もう少し時間がたてば今よりは明るくなるだろうが、ここしばらく上空にたちこめている厚い雲が流れぬかぎり、劇的に変わることはないだろう。
陽が照れば聖堂内に花が咲いたような美しい模様が、ステンドグラスから降り注ぐが、今のこの空間はどことなく陰鬱とした雰囲だった。
木製の足置きに両膝をつき、祈りを捧げている男がいる。
ブレーズ家の当主である彼がこのような姿勢を取るのは、この国の王族と、神の御前だけである。
堂内はひんやりとしており、ブレーズ公爵のまとう服はそれに充分耐えられるほど厚手だった。
「こんなに早い時間から礼拝堂に来るのは、前の正妃様と、貴方くらいですよ」
静かな堂内に男の声が響く。
その声は聖職者らしい穏やかな口調だったが、洞察力に優れた者が聞けば、その声に潜む冷たさに気がつくだろう。
「前の王妃様……おなつかしい」
「私は直接お会いしたことはありませんが、毎朝、早い時間からここで祈られていたと聞いております。そういえばあの方は、ベルリオーズ家のご息女でしたね」
わざとらしく思い出したように言う大神官ガイヤールの声には、どこか含みがある。それは、相手への挑発や侮蔑といったものはなく、心情を見透かすような響きであった。
この聖職者に見透かされたとて痛くもかゆくもないのか、祈りを捧げていたブレーズ公爵は独り言のように言った。
「そう。我が母が、死ぬまで忌み嫌っていた御方――」
純白の祭服をまとった、糸杉のように細く背の高い男ガイヤールは、口元に静かな笑みを浮かべた。
ガイヤールは前王妃の顔を見たことがない。彼女は二十九年前に、この世を去っている。
だが、前王妃ともうひとりの貴族の娘が正妃の座を争ったという経緯は、彼もよく知っていた。
シャルムでは、有名な話である。
――前王妃マリアンヌ。
現ベルリオーズ公爵クレティアンの生母であり、リオネルの祖母にあたる人物。
前国王ジョアシャンが王太子であったころ、その妻の座にふさわしい者として、二人の令嬢の名が挙がった。ひとりはベルリオーズ公爵家のマリアンヌ、いまひとりはコルニヨン公爵家のオディル。
ベルリオーズ家は右に出るもののない由緒ある名門貴族であり、コルニヨン家は名門ブレーズ家とのつながりが深く、格式のある家だった。両家共に名家であり、その令嬢はいずれおとらぬ器量の持ち主で、しかもまったく同じ年齢だった。
結局のところ、どちらが王太子妃になってもよかったのである。
条件の同じ二人の令嬢のうち、どちらが王太子妃になるか――。
王太子の父、つまり当時のシャルム国王が決めかねているあいだにも、ベルリオーズ家を支持する者と、コルニヨン家――ひいてはブレーズ家を支持する者に大きく別れ、かつてから貴族社会にあった潜在的な、だが根の深い対立が、ますます深まる事態に陥っていた。
それに終止符を打ったのは、王太子本人だった。
ジョアシャン王子は二人の花嫁候補に直接会い、そして、ベルリオーズ家のマリアンヌを選んだのである。
かくして王太子の心を射止めることができなかったコルニヨン家のオディルは、ブレーズ家の長男に嫁いだ。彼女こそ、現ブレーズ公爵の生母である。
「ジョアシャン様に選ばれなかった母は、我が父のもとに嫁いだあとも、ずっと苦しみ続けた」
祈る姿勢のまま、ブレーズ公爵は言った。
そこには普段の張りつけたような笑顔の仮面はなく、淡々とした表情のなかにも、どこか疲労感に似たものがにじんでいる。
ここにいるブレーズ公爵と、そして彼の妹で今はデュノア家に嫁いでいるベアトリスの母でもあったオディル。
――自分は選ばれなかった。
そんな気持ちを、オディルはどうしても捨てることができなかった。
彼女が苦しんだのは、ジョアシャン王太子のことだけではない。
夫となった相手もまた、オディルではなく、若い愛人を愛したのだ。
美しいが気が強く、気位の高いオディルよりも、大人しくいつも静かにほほえんでいる妾のほうが、公爵にとっては気が休まったのだろう。前ブレーズ公爵と愛人カトリーヌのあいだに産まれたのが、今は王宮にて近衛隊の副隊長を務めるノエルである。
だれにも選ばれることのなかったオディルは、深い苦悩と嫉妬のなかで、二人の男と二人の女を生涯恨みながら死んでいった。二人の男とはジョアシャンと夫である前ブレーズ公爵、二人の女とは正妃マリアンヌと愛人カトリーヌのことである。
オディルが世を去ったのは、二十九年前のこと。奇しくも、マリアンヌ王妃が没したのと同じ年だった。
それから間もなく当時のブレーズ公爵が死に、愛人であるカトリーヌが残された。
当然、館を追われるものと思ったカトリーヌは、息子ノエルを連れて馬車に乗った。だが、それを引き止めたのは、当時十七歳だったベアトリスである。
夫を愛人に奪われ、だれからも愛されず、嫉妬に苦しみ続ける母の姿をだれよりも近くで見ていたはずのベアトリスが、そのとき、なにを思ってそうしたのかはわからない。
かくしてベアトリスに引きとめられたカトリーヌとノエルは、ブレーズ家の館に留まることになった。
しかし、己を恨み死んでいった正妻の子供たちのものとなったブレーズ邸では気が休まるはずもなく、肩身の狭い思いで暮らしていたカトリーヌは、次第に身体を壊していき、五年後に館の片隅でひっそりと息を引き取った。
ブレーズ公爵は、組み合わせた手に額をつける。
こんなことを思い出すのは、少し疲れているからだろうか。
己がしたことは、母の恨みをほんの少し、晴らしてやることだった。
母が死んだとき、既にその四年前にジョアシャン王は崩御しており、マリアンヌも母とほぼ同時期に亡くなっていたため、復讐のしようがなかった。意図してか、意図せずしてかはわからないが、カトリーヌに対しては妹のベアトリスが、ある意味においては非常に残酷な方法で復讐を始めたころである。
直接復讐する相手はもはや他に残されていなかったが、母の人生を思えばなにかせねば気がすまなかった。母はあれほど苦しんでいたのに、ジョアシャン王とマリアンヌは愛しあい、幸せに生涯を終えたのだ。
今度は自分が母に代わり、死したこの二人に復讐する番だった。
公爵はすぐにそれを思いついた。ジョアシャン王とマリアンヌのあいだの息子であり、正式な王位継承者である十三歳のクレティアン王子から、玉座を奪うことを。
ジョアシャン王が若かりしときに手をつけたメイドが産んだ子で、一時的に王座を預かっていたエルネストに近づき、ブレーズ公爵はささやいた。
『ブレーズ家は、いかなるときも貴方様に忠誠をお誓い申しあげます。貴方様は聡明で思慮深く、立派に成人あそばされておりますが、弟君はまだわずか一三歳の子供。なにゆえ弟君に王座を譲る必要がありましょう。長子である貴方様こそが、この国の王座にふさわしい』
エルネスト二十五歳、ブレーズ公爵二十三歳のことであった。
母が憎んだジョアシャン王とマリアンヌ。二人が慈しみ育てた息子クレティアンを王宮から追い出し、無事にエルネストを王座に就けることに成功すると、ブレーズ公爵は言い知れぬ達成感と充足感を覚えた。
ついに二人に復讐した。
――母上、貴女の憎むべき二人が愛した子供を、欺いてご覧にいれました。
いつも陰鬱な表情をしていた母も、これで、天国で少しは笑顔になってくれるだろうか。
そのときブレーズ公爵は満ち足りた気分だった。
そのときは、それでよかったのだ。
否、今でも後悔などしていない。
それなのに、こんなふうに疲れたと思うのは、やはり年のせいだろうか。
もう公爵は五十も半ばにさしかかろうとしていた。エルネストに忠誠を誓った日から、二十年以上の歳月が経つ。
「ジェルヴェーズ殿下のことですか」
またしても心を見透かしたように言ったのは、この国の大神官ガイヤールである。
「貴殿の耳にも届いているか」
「もちろんです。殿下の御気性の荒さは、さて、祖先のうちどなたの血を受け継いだものでしょうか」
少なくとも、母である正妃グレースではないだろう。
ルスティーユ家から嫁いだ、ジェルヴェーズとレオンの母であるグレースは、口数の少ない、気の優しい女性である。その血は、レオンのほうへ濃く受け継がれているかもしれない。
「カルノー伯爵をこの宮殿の庭で、しかも多くの貴族らの前で殿下御自ら殺傷なされたのは、いささか拙策でしたね」
いまや宮殿外まで知れ渡っているこの話に、ガイヤールは軽く口端を吊り上げる。笑っているというよりは、皮肉めいた表情である。
殺されたとき、伯爵は抜刀していなかった。
無抵抗な人間を、ジェルヴェーズは斬ったのだ。
「私が忠告申しあげていたのに、殿下には聞き入れていただけなかった」
「今回のことで、王弟派の貴族たちが、ずいぶんと息巻いているそうですね」
「…………」
そのとおりである。
熱烈な王弟派であるカルノー伯爵をジェルヴェーズが咎なく殺したことで、王弟派の貴族、さらには一部の知識ある民までもが憤りをあらわにした。
それをどうにかして鎮めることができたのは、シュザンが死ぬ間際の伯爵を医者に診せ、死に際を看取ったという経緯があったからだ。つまり、ジェルヴェーズの剣によって即死したわけではないという説明によって、ようやく彼らを少し納得させることができた。
「やっと騒ぎが収まりつつあるところだというのに……」
「おや、なにかございましたか?」
ブレーズ公爵はうなった。
そして、公爵はガイヤールに昨日の出来事を語ったのだった。
国王に呼び出されて執務室に赴いたとき、室内にはジェルヴェーズ王子と、ルスティーユ公爵、それにベルショー侯爵と他、幾人かの国王派の貴族がすでに集まっていた。
皆の表情はそれぞれで、熱っぽい様子の者もいれば、困惑している者もいる。その雰囲気から、なにか厄介な問題が生じているのだとブレーズ公爵は即座に感じとった。
つまり、話はこういうことだった。
ジェルヴェーズ王子は、自分が殺したカルノー伯爵の遺体を家族らから没収し、その首を刎ね、謀反人として城前に見せしめにすると言い張っているのである。
そのことに対して、国王も、多くの重臣らも、難色を示していた。
そんなことをすれば当然、怒りをくすぶらせている王弟派の者たちの感情を、さらに逆なですることになる。憤った彼らが、今後どのような動きを見せるかわからない。
平時であれば、それは彼らを一掃する良い機会となるだろう。
だが今、王宮において、官僚らが深く憂慮している問題があった。
……周辺諸国の動き、特にエストラダ王国の動向である。
今や大陸中が、かの国の存在に対して神経質になっている。驚異の強さと速さで、北方における国々の王都を征服しているエストラダが、何時ここまで責めてくるともかぎらない。
さらにシャルム王国には、長年の敵国であるローブルグ、政治的に不安定な関係であるユスターとの問題、そしてラ・セルネ山脈に巣食う賊の討伐についても情勢が見えぬままだ。
このようなときに国王派と王弟派が正面からぶつかりあえば、シャルムは砂の城のように、どの敵からいかような攻撃を受けても、一瞬にして崩れ滅びるだろう。
国王派貴族の一部で私利私欲に走っている諸侯らのなかでも、そのことを理解している者は少なくない。
だが、そのことがはっきり理解できぬ者もいる。
たとえば、王妃グレースの兄であるルスティーユ公爵などは、血の繋がった甥への愛情からか、ジェルヴェーズの意見を支持した。
『殿下の行動の正当性を示すべきだ。カルノー伯爵は王に盾突いた罪人である。死して当然だったのだ』
などと言うのだ。
次期国王になるであろうジェルヴェーズの機嫌をとっておきたい若手の諸侯も、ルスティーユ公爵に同調する。そんなありさまであるから、ますますジェルヴェーズへの説得が難しくなるのだ。
その日、父である国王に対しても強気かつ強情な態度をとりつづける王子に対して、最も頭を使い、様々な言葉を駆使して説得にあたったのはブレーズ公爵だっただろう。
それこそ、思いつくかぎりの問題点を列挙した。そして、リオネルの存在を引きあいにだしたとき、ジェルヴェーズをどうにか説き伏せることができた。
『王弟派の者たちを最も苦しめ、瞬時にそのうるさい口を黙らせる方法があります。それは、リオネル殿が「最も自然な形で」亡くなることです。王弟派の者たちが抗議できぬような形で、です。カルノー伯爵の首を晒しても、彼らが抱くリオネル殿への崇敬の念を深め、今以上に団結させるだけという、無益な結果を生みましょう』
ジェルヴェーズはうなった。そして、ブレーズ公爵の意見を渋々ながらも受け入れた。
長年、父王に仕えている重臣の言葉である。彼にとっても、聞き入れる余地があったのだろう。
だが、その会議が終わったあと、ブレーズ公爵はいっきに疲れを感じた。
若いころは感じたことのない感覚である。
あるいは、自分がそそのかし、押し立てた王の息子がこれほど危うい人物であり、その者にこの国の未来がかかっているという現実を目の当たりにしたときの、自責の念のようなものだったかもしれない。
これから先、自分や王の死後も、だれがいかにしてこの血生臭い人物を制御していくか――制御できるのか――。
話を聞き終わったガイヤールは、切れ長い目を細めて、ブレーズ公爵を見据えた。
ガイヤールとブレーズ公爵には、少なからず考えの近いところがある。
公爵のどこか疲れた様子を心配したわけではないが、ガイヤールはある提案をした。
「貴方様のご子息はたいへん利発でおられる。そういえば、殿下と同じご年齢で、お二人は顔なじみではありませんでしたか? 貴方様が国王陛下のそばにおられたのと同様、ジェルヴェーズ殿下にもお仕えする方が必要かもしれません」
ブレーズ公爵は、しばらく黙っていた。
大聖堂に満ちる暗さが、徐々に和らぎはじめている。陽が高くなってきたのだろう。
「フィデールか……」
なにかを思い出すようにつぶやいた公爵の心にあるものを、さすがのガイヤールも見透かすことはできなかった。