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「どうした」
ふと剣の動きを止めたリオネルに、ヴィートが尋ねる。
戦いのさなかである。リオネルが動きを止めたのは、ほんの一瞬のことだった。
「……いや」
ヴィートにはなにも答えなかったが、リオネルの胸には言い知れぬ不安があふれていた。
――胸騒ぎがする。
しばらくまえから、館に静寂が戻っている。
山賊は引き揚げていったのか。
地下牢のあたりから上がる火の手は、未だに消し止められていない。このまま火が燃え広がれば、被害は甚大になる。
館内の者たちは無事なのか。
ディルクやレオン、マチアス、諸侯ら、騎士、女中や使用人、侯爵の家族、そして、アベルは――。
そのとき、長いあいだ戦い続けて数を減らしたはずの敵側が、突如、攻勢をやめて後退した。
「気をつけろ」
低いベルトランの声が注意を促したとき、彼の剣がわずかな光を反射した。
ベルトランの刃に断ち切られたのは、数本の矢である。それをかわぎりに、再び矢の豪雨が三人を襲った。
「しつこい相手だな……! どれだけ坊ちゃんを殺したいんだ」
舌打ちしたヴィートもまた、この戦いが終わらぬことへの苛立ちと、館で起こっていることへの心配で、頭のなかは埋め尽されていた。
東の空が白む。
次第に周囲の様相が明らかになるとともに、ほとんどの敵を倒したのだということを三人は知る。
周囲には数え切れぬほどの死屍。それらの顔には、ひとりとして見覚えがない。
敵がまばらになったとき、彼らはしばし逡巡をみせてから、ついにリオネルたちに背を向けて木立の中へと走り出した。
逃げたのだ。
それは、今までの刺客にはない行動だった。
これまでの刺客は、どちらかの命が失われるまで戦い続けた。けれど今回は、用意周到であり、卑劣な方法で襲ってはきたが、目的を達成することが不可能であることを悟ると背を見せて逃げたのだ。
だが、三人は彼らを追わなかった。
今は刺客の正体をつきとめるよりも、気がかりでしかたのないことがある。
戦いが終わると一目散に館へ向けて走り出した三人が、バルコニーを通り、大広間を抜け、「騎士の間」へ続く廊下へ出たとき、後方から声をかけた者がいた。
「リオネル!」
その声はディルクだった。
振り返ったリオネルを見るディルクの眉間に、深く皺が寄っている。三人が、血の海を泳いできたような格好だったから、ではなかった。彼らが大広間から出てきたからだ。
「……外に出ていたのか?」
怪訝な表情で尋ねるディルクのそばには、レオンとマチアスがいる。
マチアスはわずかな返り血を浴びているだけであるが、ディルクとレオンの格好はひどかった。
例えて言うなら、数年間手入れされていなかった暖炉の掃除をしてきたようである。
ディルクの淡い茶色の髪も、レオンの鳶色の髪も、普段は高貴で清潔な両者の服と肌も、黒い煤に覆われ、黒ずんでいる。
とても一国の王子と侯爵家の跡取りには見えない。
だんだんと募る不安のなかで、リオネルは問い返す。
「おまえたちは、どこにいたんだ」
「地下牢で、賊退治と火消しだよ」
短くディルクは答えた。
たしかに火を消さねば、館内に火がまわり、身動きできぬ重傷者や使用人も含めて多くの死者が出ただろう。シャルルやシャレット男爵ら諸侯も、騎士らに女子供を守るよう指示を出しつつ、自らも火消し作業に奔走していた。
しかし。
「残念ながら地下牢は破られてしまったけど、ラロシュ侯爵のご家族や、ブリアン子爵、宝物殿も皆無事だ」
そう説明したのはレオンだった。
訝るようにディルクは目を眇める。
「……そっちは? アベルは無事なのか?」
リオネルとディルクは視線を絡みあわせた。皆が動きを止めたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
それから全員が同時に駆けだす。
――だれも、「騎士の間」へ行っていないことがわかったからだ。
リオネルたちが「騎士の間」に到着したときには、山賊が去ってからすでにかなりの時間が経過していた。
室内は、ひどい有様である。
入口付近には、山のように賊の死屍が積みあげられたまま放置され、そんな状態の部屋に次々と負傷者が運びこまれてくる。美しい絵画の描かれていた壁も、天井も、血の塗装がほどこされ、敵味方双方の血の匂いで部屋中が生臭かった。
部屋に入って即座に、リオネルはアベルの姿を探す。
だが、立ち働いている者の中にも、負傷者のなかにもその姿はなかった。
「アベルは、どうした」
先のスーラ山での戦いで負傷し、もともとこの部屋で看護されていた騎士に近づき、リオネルは低い声で問う。
「リオネル様……!」
うろたえたように、騎士はうつむき言葉をためらった。その騎士はフォール家に仕える者で、右足に矢傷がある。
「……申しわけございません」
「アベルはどこへいったんだ」
「――連れていかれました……」
紫色の双眸が、大きく見開く。
「……アベルを守ろうとした我が主は、ひどい怪我を負い、アベルは……」
奥歯を食い閉めるように、騎士は言葉をつむいだ。
「……アベルは、もはや命もないかもしれません」
騎士が発した言葉に、リオネルだけではなく、周囲にいた皆が言葉を失った。
「なん……だって?」
ようやくリオネルの乾き切った喉から出てきたのは、ひどくかすれた声だった。
聞こえてきた言葉の意味を理解しようとすると、鼓動が激しくなる。心臓が痛いほどに。
リオネルの顔には、普段はけっして見せぬ動揺の色が浮かんでいた。
「なにがあった」
騎士は眉を寄せて双眸を閉じ、リオネルに頭を下げるように、もしくは懺悔するようにうなだれる。
「アベルはひとりでこの部屋を守っていました。そこに積み上がった賊の遺体の多くはアベルの剣によるものです。ですが、突然現れた男にアベルは――」
並はずれて精強な賊が、セドリックを斬り、アベルを連れ去るまでの経緯を、騎士は語った。
……二合と撃ちあうことなく、叩き落とされたアベルの長剣。
賊の刃がアベルの命を奪おうとしたそのとき、自分がアベルの名を呼んだ声に、彼の剣が止まる。その一瞬をついてセドリックがアベルの命を救うが、彼も賊の剣に倒れた。
その後、短剣を手にアベルは賊の懐に飛びこんだが、倒すことはできず、首を掴まれ呼吸を奪われた。動かなくなったアベルの身体を、賊は抱えて去っていった。
セドリックは斬られたものの、咄嗟に急所から外れるように剣を受けたため、一命はとりとめている。だが、アベルの生死についてはまったくわからない。
剣名名高い二人を打ち負かした賊の名を、仲間は「ブラーガ」と呼んでいた。
「おそらく我々を見捨てて逃げれば、アベルは助かったでしょう。ですが最後まで、アベルはこの部屋にいる者のために戦ってくれました。それなのに私はなにもできぬまま、己の主と、あの少年が賊にやられるのをただ見ていたのです」
フォール家の騎士は片手だけで拳を握り、それを悔しげに寝台に押しつける。
責任感の強い騎士なのであろう。彼の身体では、とても動けるはずがない。だが騎士は己を責めるように謝罪した。
「本当に――申しわけございません」
「そんな馬鹿なことがあるか」
吐き捨てるようにつぶやいたのは、ディルクだった。
「命がないかもしれないなど――アベルが死んでいいはずがない。生きているに決まっている」
リオネルはなにも言わなかった。艶やかな茶色の髪に表情を隠して、うつむいている。
だがしばらくして、ひとことだけ騎士に対してつぶやいた。
「きみが自分自身を責める必要はない。二人が守り抜いた命を、大切にすることだけを考えていればいい」
騎士は頭を深く垂れて、涙を流した。
リオネルの長い指先は、かたく拳を握る。ディルクの言ったとおりだ。
――死ぬはずがない。死んでよいはずがない。
奥歯を強く噛みしめる。
いかにしてアベルを助け出すか、今、彼の考えるべきはただそれだけだった。
「アベルは無事だ」
皆が声を発せないでいるなかで、突如、言い放ったのはヴィートだった。
リオネルが顔を上げる。
すべての視線が、ヴィートに集まった。
「どういう意味だ」
低く問いかけたのはベルトランである。
「その男なら、知っている」
流れた沈黙は、彼の言葉の続きを待っていた。
「おれたちの首長だ」
「なぜアベルが無事だとわかる」
再び問われて、ヴィートは返答に窮する。
「……理由は、ない」
ヴィートの答えに、落胆した空気が漂う。
フォール家の騎士は、実際にアベルが首を絞められ力が抜けていくところまでを目撃しているのだ。むしろ命がないと考えた方が自然である。それなのに「理由はない」では、納得のしようがない。
……だがヴィートには、ブラーガがアベルを殺すとは思えなかった。様々な考えが混じっていて、うまく言葉にできない。だから、問われても答えられなかった。
ブラーガがこの館を襲った目的は、自分に制裁をくだすことだったのかもしれないとヴィートは思う。
そしてブラーガは、おそらく仲間から聞いて、ヴィートがアベルに惚れていることを知っている。だからブラーガは彼女を連れ去ったのだ。
もし制裁を加えるなら、いくつかの方法がある。
ヴィートの愛するアベルを殺すこともそのひとつである。だが彼はアベルの名を聞いて、殺すのをためらったのだ。一度殺すのをためらったブラーガが、あらためて相手を殺めるだろうか。
もうひとつ考えられるのは、ヴィート本人を殺すという方法である。リオネルらと共に刺客と戦っていたヴィートを探し出せなかったブラーガは、アベルを連れ帰り、ヴィートを山におびき寄せ、そして始末する……ということだ。
しかしそのどれも、アベルが生きているという確実な根拠にはなりえない。
つまるところ、幼いころから自分にだけは優しかったブラーガが、その想い人であるアベルの命を奪うとは考えられぬ、考えたくない――というところだったのかもしれない。
好いた相手を害されるくらいならば、自分が直接殺されたほうが、幾倍もましだ。
ブラーガは、そんなふうに考えるヴィートの性格を、よくわかっている。そこにすがりたい気持ちがあった。そして、アベルが生きていることを信じたい気持ちが、それに併存していた。
「首長がどこにいるか、知っているか」
激しい感情を押し殺して問いかける声は、リオネルのものだ。
「――知っている」
「案内してくれ」
「今回はおれひとりで行く」
その言葉に、リオネルは眼差しを強めてヴィートを見据えた。
「万が一――」
深い紫色の瞳は、氷塊のように冷たく、鋭利な刃物のように鋭い。
「万が一アベルが殺されていたときには、ブラーガとやらも、こんなことに巻きこんだおまえも、山賊も、全員おれの手でひとり残らず殺してやる。必ずだ。――おれを連れていけ、ヴィート」
怒りを通りこし、もはや憎しみに近い感情を向けるリオネルの気迫は、すさまじいものだった。その場にいただれもが、ひとことも口にできぬほどに。
なぜアベルが連れ去られなければならなかったのか、それにはヴィートが関与しているとしか思えない。そもそもヴィートがあのときアベルをさらったりしなければ、このようなことにはならなかったはずだ。
もしかするとアベルの命は――。
そう考えると、リオネルは己のなかで抑制しがたい感情の渦が湧きあがるのを感じる。
それは、いままでに一度たりとも覚えたことのない感情だった。
――喪失感。
絶望。
それと共に、あらためて生じる、気が遠くなるほどのアベルへの想い。
せっかく再会できたというのに。
もう二度とアベルをこの手から離さないと、彼女を危険な目にあわせたくないと、自分の手で守ると――そう心に誓っていたのに。
愛しい少女が山賊に首を締められ、やがて力を失ったというその光景が繰り返し脳裏に浮かび、リオネルを苛み苦しめる。
運命にも、己の境遇にも、他人にも憎悪を抱いたことはない。
けれど、もしそんなふうに彼女を死なせてしまったのなら――。
彼女を害した賊を殺してやりたい。八つ裂きにしても足りないくらいだ。
……そして、おそらく自らも死ぬのだ。
「リオネル」という人間はいなくなる。アベルの死と共に。