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 館内の異変に真っ先に気づいたのは、夜間の警備をしている兵士たちと、眠らずに働いていた「騎士の間」の者たちだった。


 どこからか最初の悲鳴が聞こえたとき、アベルはとっさに長剣に手をかけて動きを止めた。窓の外からだろうか。いや、もっと近くで聞こえたような気がする。


「今のは……?」


 室内に不安げな空気が漂う。

 重症の騎士らの半数は薬酒で眠っていたが、痛みで眠ることができなかった残りの騎士や、医師たち、そして看護にあたる二人の若手騎士と三人の医者見習いは、無言で視線を交わした。


「だれかが寝ぼけて頭でも打ったのかもしれませんね。少し館内を見てきます」


 彼らを安心させるために、アベルは穏やかな笑顔で言う。


「アベル殿、ひとりで行くのは危ない。だれか連れていきなさい」


 片腕を斬られ、右足にも矢を受けるという大怪我を負ったフォール家の騎士が、アベルに声をかける。だが、アベルは再び笑ってみせた。


「わたしは大丈夫です。すぐに戻りますので」


 そっと扉を開けた瞬間だった。

 再び上がった悲鳴に続いて、幾人もの断末魔の叫びがアベルの耳を打つ。


 宝石のような瞳が見開いた。

 ――近い。

 悲鳴が上がっているのは、この廊下の先だ。

 アベルは剣を鞘から抜き払う。敵の足音が迫ってきているのがわかったからだ。


「だれかが来ます! 隠れることができる方は隠れてください!」


 広間を振り返って叫ぶが、もう遅い。

 すでに扉口に姿を現していたのは、アベルが山賊の拠点で目にしたような姿の男たちだった。

 館のあちこちから悲鳴があがり、だれかの「山賊だ!」という声もこの部屋に届く。


「そちらの扉を閉めてください!」


 叫びながら、アベルはひとりめの賊が繰り出す攻撃を、長剣で受けとめた。


「騎士の間」にある扉は二つ。

 こちら側はもう山賊が踏み込んできているので閉めることはできないが、もう片方の扉を閉めておけば、最低限こちら側のみを守ればよいことになる。


 直剣を受け止め弾き返すと、すかさずアベルは相手の心臓部に剣を突き刺す。引き抜きざまに、右前方から襲ってくる男の首元を裂き、返す剣を、いまひとりの男の足元めがけて薙ぎはらった。

 次々と室内へ入りこんでくる敵を、アベルが一切の無駄のない動きで、次々と倒していく。だが、片足が動かせぬため、離れたところにいる何人かを仕留め損ねる。その者たちの侵入をくいとめたのは、共に看護を担当していた、二人の若い騎士たちだった。


 どうしても、この部屋に賊を入れるわけにはいかない。

 ここにいるのは、剣を握ることのできぬ負傷者と、医師たちである。

 賊の侵入をゆるせば、彼らが容易く敵の剣によって無残な最期を迎えることはわかりきっている。そんな事態を招いてはならない。


 アベルの周りには、男たちの屍が積み上がり、降りそそぐ血の雨が、真紅の海をつくっていく。

 その中心に立って剣を振るうアベルの姿は、この場にいた皆の目に、気高く美しい戦いと勝利の女神アドリアナにも――もしくは少年の姿をした、死神の使者ミハイルのようにも見えた。


 どこからか煙の臭いが漂い始めたころ、アベルのまえにひとりの男が現れた。

 切り口が整っておらぬ動物の毛皮を重ねて身につけ、手には己の身長にも近い長さの、幅広い剣を携えている。


 アベルは総毛立った。

 彼が他の賊と違うことは、一目でわかった。

 服装や姿形からではない。深淵のような瞳が放つ眼光の強さ、まとう空気の重さ――。


 その男が現れた瞬間、山賊たちは動きを止めて彼に道を譲った。

 狙った獲物を逃すまいとするかのように、男はアベルをひたと見据えながら、ゆっくりと距離を縮める。


 アベルの瞳に宿る光が、ためらいと警戒心をにじませてわずかに揺れる。自分がこの人物には敵わぬことを、ひと目で悟ったからである。


「こんな子供に手を焼いているのか」


 男が声を発する。

 低く、抑揚のない声で、嘲るような響きをまとっていた。


 たったひとりの細身の少年相手に苦戦を強いられていたことを指摘されて、周囲の賊は決まりの悪そうな表情になる。そんな周囲の反応を感じとって唇を皮肉に歪めつつ、闇のような瞳を持つ男はアベルの目前まで歩み寄った。


 言葉もなく、アベルは男を見上げる。

 一歩も動くことができなかったのは、男の放つ圧倒的な存在感に呑まれていたのと、ある種の動揺からだった。

 アベルはベルトランの従騎士になってより今まで、これほどまでの相手を敵にしたことはない。勝てぬ相手と知って、どう振る舞うべきかアベルにはわからなかった。


「どうした? さっきまでの勢いはどこへいった。それとも、騎士などというご立派な呼称を持ちながら、戦わずして剣を捨てるか?」


 立ち向かい、おれを愉しませてみろと挑発しているかのようなその声に、弾かれたようにアベルはあとずさりをして、同時に長剣を払った。

 相手に勝てないだろうことはわかっている。

 冷たい汗が、背中を流れる。

 死ぬかもしれない。


 けれど、ここを守れるのは自分しかいない。

 なんとしてでも、負傷した騎士や医師を守らなければならない。戦わなければならない。ベルリオーズ家の騎士として、リオネルの臣下として、恥じぬように。


 男の握っている刃幅の広い剣がアベルの剣をたやすく打ち返す。痺れが走った手で長剣を握りなおし、男の頭上に振り下ろすが、今度は先程とは逆の方へ薙ぎ払われる。

 彼との戦いにおいては、技量の差だけが問題なのではなかった。

 明らかに、体力的な力の差があった。

 彼は、すさまじい腕力の持ち主である。

 女であるアベルには、とても太刀打ちできない――彼女の技量で補えるだけの差を、それはゆうに超えていた。

 リオネルやベルトランほどの卓越した剣技の持ち主なら、もしくはディルクやレオンなら違っていたのだろうが。


 アベルは次なる一撃を打ち出せなかった。

 ためらったのではない。次に斬りこめば、殺される。それを直感したからである。

 どうしても、アベルは足を踏み出すことができなかった。


「おまえからの攻撃はそれだけか?」


 わずかに笑むやいなや、男はアベルの握っていた剣に己の武器を打ち下ろす。

 その衝撃でアベルの腕に痛みが走り、高い音を立てて長剣が床にたたきつけられた。


 とっさに後退しようとするが、左足が動かない。

 男の握る刃幅の広い剣が高くふり上げられた。

 ――もう終わりだ――。

 己の死をアベルは悟った。

 ここで、この男が振るう剣に貫かれ、自分は死ぬのだ。

 恐怖と諦めとが、同時にアベルの身体の芯を突きぬける。


 ひらめく刀身。

 今まで彼女の手によって守られていた、負傷した騎士のうちのひとりから叫び声が上がる。

 アベル、逃げろ――――と。

 それは刃がアベルの身体に触れる直前のことだった。剣の動きが止まった。


 それはほんのわずかな瞬間だったが、たしかに剣が制止したのだ。

 その一瞬を逃さず、男の得物を抑えこんだ者がいた。


 刃幅の広い巨大な剣とかみあっていたのは、装飾の施された美しい長剣。

 剣を握っていたのは、フォール公爵家の嫡男だった。


「セドリック様――」


 驚くアベルに、セドリックはかすかな笑みを返したが、それも一瞬のことである。相手の激しい反撃をどうにか撃ち返したが、体勢を立て直す間もなく、右から左から攻撃を立てつづけに受ける。

 彼も優れた剣士であるはずだったが、それでも賊の力はセドリックを上回っていた。


 加勢しようとするアベルや、セドリックの従者に、周囲の賊が群がる。

 叩き落された長剣を拾う余裕すらない。彼らに立ち向かうために、アベルは短剣で戦わなければならず、それは想像以上の苦戦をアベルに強いた。


 このままではセドリックが危ない。……あの賊は、並外れて強い。

 わかっていても、湧きあがるような数の山賊が相手では、彼らの侵入をくいとめることで精一杯だった。

 目の端で、セドリックが――、そして従者の若者が次々に斬られるのをみとめて、アベルは戦慄する。


 ――自分の命を守ってくれたセドリックを、助けることができなかった。

 深い自責の念と、悔しさ、追いつめられていくこの状況に対する焦りとが、アベルの鼓動を早くする。


 巨大な剣に付着したセドリックの血を払いながら、山賊がこちらへ近づいてくる。

 得物を引いて道を譲る山賊たち。


 硬直したまま相手をまっすぐに見上げる淡い水色の瞳に、なにかを見定めようとするような相手の色が映った。


「アベル、だと……?」

「だとしたら、どうだというのです?」


 たとえ虚勢であったとしても、ここまで追い詰められてもなお怯まぬアベルの態度に、男は束の間、虚を突かれたようだった。

 そのとき。

 油断しているようにも見えるほど悠然と構える相手の懐に、アベルは短剣を握りしめ飛びこんでいった。


「――――っ」


 アベルが握る短剣は、男の腹に小指の先ほど入ったところで、動きを止める。

 かけぬける痛み。

 そのとき皆が見たのは、男の片手に首を掴まれ、身体ごと宙に持ち上げられるアベルの姿だった。


 短剣はアベルの手から滑り落ち、無情な音をたてて床に転がった。

 呼吸ができない苦しさからアベルは己の首に巻きつく賊の手を、無我夢中ではがそうともがく。だが、相手の力はすさまじいもので、アベルに動かせるはずもなかった。


「おまえは、アベルという名か」


 引き寄せられ、相手の息がかかるほどの至近距離で問われるが、呼吸ができぬ状態では返答することもできいない。


「……たしかに、青い目と金色の髪だ。そうか、おまえだったのか」


 回答を得ずとも、ひとりで答えを得たらしい賊は、しばらく苦しげに歪むアベルの顔を眺めていた。


「ブラーガ、殺すな……! ヴィートの大切な人だ」


 山賊のひとりが、男に言う。

 薄れていく意識のなかで、アベルは最後の願いを口にした。


「――おねが……い、怪我、して……る人たちを……殺さ、ないで……」


 どこにそんな力があったのか、息もできないはずなのになぜそのようなことが言えたのか、アベルの喉からつむぎだされたかすれた声。


 懇願するようにブラーガを見つめる宝石のような瞳が、次第に焦点を失い、震えながら細められ、やがて閉ざされる。

 その表情からは苦悶が消え、抵抗もやみ、しなやかな手足は、ぐったりと、まるで糸繰り人形のように宙に垂れた。


「アベル――――!」


 騎士の中から叫び声が上がる。

 一切の力が抜けた細い少女の身体を、ブラーガは抱え上げた。


「首長、ヴィートの姿がありません。どうしますか」


 室内に飛び込んできた山賊が、ブラーガに報告する。


「いやいい。これが手に入れば充分だ。引き揚げるぞ」


 地下牢を壊し、仲間を助けだしたばかりである。これから無抵抗な騎士たちを殺し、館内の女中や領主の子供たちをさらい、宝物殿を襲おうと意気込んでいた山賊たちは鼻白んだ。

 だが、口答えをする者はひとりもない。

 ここで一言でも反意を唱えれば、自分たちの首長の機嫌を損ねることは間違いなかった。


「行くぞ」


 乱暴な仕草で、ブラーガはアベルの身体を片手に持ち替える。


「ブラーガ、おれが運ぶ」


 そう言ったのは、さきほど、ブラーガにアベルを殺さないよう忠告した人物――エラルドである。

 無言でエラルドを見返したブラーガだったが、そのままなにも語らずに歩みだし、窓を突き破って館の外へ出ていった。


 ブラーガたちはこの館にいる兵士らの総数を把握していない。奇襲の効果があるのは、はじめのうちだけである。次第に目を覚ました兵士らが反撃に出るだろう。このまま居座り略奪などをしていれば、帰路を絶たれ、包囲されて逆に全滅させられかねない。

 それが、ブラーガが撤収を命じた理由だった。


 ひとりが鳴らした笛が合図だったのだろう、またたくまに山賊たちが撤収していく。

「騎士の間」にいた負傷者たちは、なにもできずにその光景を見送った。


 セドリックは斬られ、床に伏している。

 この部屋を守っていたアベルは連れ去られていく。

 けれど、戦うことのできた若い騎士のうち、ひとりは利き腕に傷を負い、もうひとりは腹部を刺されて動くこともできない。もはや、彼らにできることは何もなく、仲間が連れていかれるのをただ見ているしかなかった。


 凶暴な山賊が走り去っていく先は、漆黒の闇に覆われていた。








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