98
淡い水色の瞳が、館からもれる光をとじこめている。その瞳は、まっすぐにヴィートを見つめていた。
「そんな格好でいたら、冷えるぞ」
静かな声音でヴィートは言ったが、アベルはなにも答えない。
黒く冷たい風が、二人のあいだをゆっくりと吹き抜けていく。
「風邪を引いてしまうぞ」
再び注意を促されたが、やはりアベルはどのような反応も返さなかった。
夜目がきくヴィートと、次第に暗闇に目が慣れてきたアベルは、夜の闇のなかでも互いの表情をたしかに見てとることができた。
「だから、そんな顔するなって」
昼間の空色をしたアベルの左右の瞳を、ヴィートの夜空のような瞳が交互に見やる。
しばらくそうしてから、ヴィートはまぶしいものを見るように目を細めた。
「きれいな目だな。アベルを見ていると、いつでも青い空が見える」
そして、大きな手がアベルの頭に軽く置かれ、感触をたしかめるように長い髪の上を滑りおちた。
「それに、きみの髪は太陽の光のように温かくて優しい――おれにはまぶしすぎるくらいだ」
数日前まで山賊だった男が言う台詞とは思えぬ詩的な言葉に、アベルは今まで心を支配していたものとは違った感情を覚え、うつむいた。
嬉しいというよりも、恥ずかしい。
他人から容姿を称賛されることには慣れていない。
だが、アベルがどのような感情を抱いたとしても、ヴィートはかまわなかった。彼女の顔中に広がっていた悲壮感が和らげば、それでよかった。
「きみが気に病む必要はないんだ。おれはこうなることを見越したうえで、きみに話した。もし話していなかったら、きみはもっと苦しむことになっただろう? これでよかったと思っているよ」
もしヴィートから山賊について聞いていなければ、貴族側は敗北し、取り返しのつかぬ事態になっていた。多くの騎士が死に、リオネルが王から命じられた山賊討伐は困難を極めることになっただろう。
けれどそれは貴族側からの視点である。
「……あなたは、苦しんでいます」
ここにきてはじめて言葉を発したアベルに、ヴィートはほほえんだ。
「ようやく声を聞かせてくれたなあ。はじめて会ったときみたいだ。あのときアベルはなかなか話してくれなかった」
「わたしのせいで、あなたは――」
言葉の続きをヴィートは即座に遮る。
「違う。早かれ遅かれ、こういう日は来たんだと、おれは思う」
ひたとヴィートを見つめながら、アベルは言葉の続きを待つ。
「あいつらは、それだけのことをしてきている。武器を持たない、なんの罪もない農民や村人を殺し、子供をさらい、女を襲い、食糧と金品を盗んできた。おれが見てきた光景は残酷すぎて、とてもきみには聞かせられないほどだ。……あいつらは本当にひどいことをしてきたんだ。殺されて当然だったんだよ――」
わずかにかすれた語尾。
殺されて当然だと自ら口にしたヴィートの心に、尖った爪でひっかかれたような痛みが走る。その痛みを受け入れながら、ヴィートはアベルへ夜色の瞳を向けた。
「なるべくして、こうなったんだ」
再び口をつぐんでしまったアベルの頬に、ヴィートは手を添える。
「もう一度、口づけしようとすれば、またおあいこになるかい?」
すると相手から警戒心を含んだ視線で睨まれて、ヴィートは苦笑した。
「嘘だ、そんなことはしない」
疑るような眼差しを向けられると、ヴィートは、今度は真剣な表情をつくった。
「本当だ――きみのそばにいればいるほど、きみに触れられなくなってきてしまうんだ。心も身体も無垢で汚れないきみを、おれの不浄な手で汚してしまうのではないかと思う」
「…………」
「冷えるから、もう館に戻ったほうがいい。ひとりで眠れないなら、今夜はおれの寝台で寝てもいいぞ。あいつがしたように、おれは床に寝るから」
突如、アベルの顔が熱くなる。
ヴィートがなにを知っていて、この台詞を口にしたのかがわかったからだ。
「あ……っ、あれは、うっかりリオネル様のお部屋で眠ってしまっただけです! けっして寝台をお借りしようなどと思ったわけではありませんから!」
さきほどまでの沈んだ様子とはうってかわって、今のアベルは声に熱がこもっている。
そんなアベルを見て、ヴィートは口角を吊り上げた。
「そうかい、じゃあ、今夜もおれの部屋でうっかり眠ればいい。大丈夫だ、結婚するまではなにもしないから」
怒っているのか、呆れているのか、アベルは言葉にならない言葉をしばらく顔に浮かべていたが、やがて、ふと気を削がれたようにヴィートから視線を逸らす。それはまるで、今まではしっかりと木の枝についていると思っていた一枚の葉が、かすかな風で、ふいに落ちてしまった瞬間のようだった。
たちまち不安にかられたのは、さきほどまではアベルをからかうほどの余裕を見せていたヴィートである。
「わ、悪い。今の言葉の前半は冗談だけど、後半は本音だ。おれの部屋でなんて寝なくてもいいにきまっているだろう? それに、本当に、結婚するまできみには指一本触れないぞ」
いつのまにかに結婚することが前提となっているようなヴィートの言葉にも、アベルは反論しなかった。そのことが、余計にヴィートを不安にさせる。
「どうしたんだ? 寒いのか?」
無言で瞼を伏せているアベルを、ヴィートはじっと見つめた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、その肩を抱いた。
ヴィートの大きな手に、細すぎるアベルの肩の感触が伝う。
「いろいろ悪かった。仲間だったやつらのことも、きみをからかったことも、すまなかった。きみの役に立ちたいと思ったことが、逆にきみを苦しませてしまったし、きみのことが好きなあまりに、つい勝手な台詞が口から出てしまう。おれは、ベルリオーズ家の若君のような細やかな神経は持ち合わせてなくてな……優しくしてあげられなくて、悪いな」
ヴィートに肩を抱かれたまま、アベルはうつむいていた。
そして、強まった夜風が何度か二人の身体に吹きつけたあと、ようやくアベルは声を発した。
「あなたは優しいです、とても」
ヴィートは褐色の瞳をわずかに見開く。
「……そうかい」
「ですが、結婚はできません」
「…………」
「わたしには、子供がいます」
冷たい風が、二人のあいだに降り落ちた沈黙をさらっていく。
どうせさらっていくなら、今聞こえてきた言葉もさらっていってくれればよかったのにと、ヴィートは思った。
そして、どんなに強い風にも連れ去られることのない、言葉に表し得ぬ思いにアベルの胸は疼いている。
嘘だろう、と若者が口にするまえに、アベルは静かな声音で言った。
「子供の名は、イシャスといいます。二年ほどまえにわたしが産んだ子です」
――ゆっくりと――力が抜けていくように、アベルの肩から温かいヴィートの手が滑り落ち、離れていく。肩が急激に冷えていく。
「結婚できない理由を、わかっていただけましたか? わたしは、あなたが思っているような、無垢で汚れない人間などではないのです。……赦しを請わなければならないのは、わたしのほうです。ただあなたを苦しめただけなのですから」
アベルは立ち上がった――いつまでも、相手からひと言の反応もなかったからだ。
彼の沈黙と、空気の重たさが、アベルの心をえぐった。
次にどんな言葉が発せられようとも、それを聞くことが、怖かった。
黙っているヴィートへ寂しげな視線を落としてから、踵を返す。
立ち去っていくアベルの乾いた足音が、静かな夜のバルコニーを支配した。
しばらくして、通用口の扉が閉まる。
ヴィートには、とてつもなく遠いところで、扉が閉まる音がしたような気がした。
結局、最後までヴィートはアベルを呼びとめることも、抱きしめることもできぬまま、そこに座っていた。
+
盗み聞きしようと思ったわけではない。
また、言葉のすべてが聞こえていたわけでもない。
だが二人の会話のうち、尖塔の陰に隠れていたマチアスに、聞こえてきた言葉がわずかにだけあった。
そして目撃したのは、抱いていたアベルの肩から滑り落ち、離れたヴィートの手。
ヴィートは、去っていくアベルを振り返らなかった。
マチアスの暗灰色の瞳が、アベルの消えた通用口の扉からヴィートへ移り、そして夜の闇の一点を見据えた。
+++
夜半も、とうに過ぎた時刻である。
ラロシュ邸の多くの窓からは光が消え、天上の雲は厚く、また、陽が昇るにはまだ早く、闇は一段と濃さを増していた。
そのなかで、この世で唯一の道標のように、闇のなかに柔らかな光を窓からこぼしている部屋がある。――「騎士の間」だ。
軽傷者はすでに自室で休んでいるが、自らの力で動けぬほどの怪我を負った者は、この騎士の間に設置された簡易の寝台で、数人の医師たちから看護を受けていた。
医者は、夜通し眠らずに働く。
また、医師らの手伝いをする者も同様である。
現在、「騎士の間」で看病を受けている騎士は一七名、看護しているのは四名の医師を含めて九名だった。看護にあたる者のなかに、アベルもいる。
だれよりも疲れているはずだったが、彼女は自らすすんで夜間の看護にあたることを希望した。
自分は、戦場に赴くことができなかった。せめて負傷者の世話くらいは引き受けたい、という考えからである。
……それに、ひとりでいることが、怖かった。
今夜はなにも思い出さずに、なにも考えずに、ただ忙しく立ち働いていたい。
休むようにと言うリオネルに、明け方になったら別の者と交代すると約束して、今夜は働くことを許してもらったのだ。
こうして、地上階にある「騎士の間」では、絶えず暖炉に火がくべられ、話し声が響き、たしかな人々の脈動が感じられる。一方、諸侯らの寝室が並ぶ最上階では、廊下に灯る燭台の火が揺れながら流す涙のような雫だけが唯一、時間の経過を告げていた。
そこは、静かである。
――おそろしいほどに。
軋む音ひとつでもあれば、壁と天井とのあいだにできた深い闇が震えるだろう。
騒音は思考をかき消すが、静寂もまた、人々の心のうちにある様々な思いをそのなかに隠し、溶かしこむ。だれかを想う心も、だれかを憎む心も、だれかの命を救いたいと思う心も、だれかを殺したいと望む心も……。
床が軋んだ。
空気が震える。
数ある寝室のうちのひとつの扉が開き、なかから姿を現したのは、ひとりの青年だった。
彼は、夜着のうえに薄い上着を一枚だけ羽織っている。
白く端正な顔を縁取る、肩までの濃い茶色の髪が、さらりと揺れた。
青年の背後に、燃えるような赤毛の若者が従う。赤毛の若者が昼間と変わらぬ姿であるのは、就寝中になにか起こったときにも動きやすいよう、はなから着替えていなかったからだ。
二人は絨毯の敷かれた廊下を幾度も曲がり、大階段を地上階へと降りる。向かう先は、「騎士の間」だ。
広間の近くまで来たとき、赤毛の騎士が腰に下げた長剣の柄に手を伸ばした。目的地の扉の傍らで、ひとりの男が壁に寄りかかっているのに気づいたためである。
このような時分に、ここでなにをしているのか。
互いの顔を確認できる位置になっても、ベルトランは柄を放さない。だが、わずかにその手から力が抜けた。
立っていたのは、ヴィートである。
周囲に、ここ数日間彼を監視していたマチアスの気配はない。マチアスも夜間は主人の身を守るほうを優先しているのだろう。
ゆっくりと顔を上げて二人へ視線を向けたヴィートには、これまで感じたことのない虚脱感のようなものが漂っている。
リオネルの姿をとらえる褐色の瞳が、わずかに細められた。
「ああ、あんたか」
「こんなところでなにをしているんだ」
部屋に入るでもなく、かといって立ち去るわけでもなく、ヴィートはいつからこうしてこの扉の脇に立っているのか。
リオネルの質問には答えず、ヴィートは逆に問い返す。
「……あんたは、アベルに会いに来たんだろう?」
「ああ」
とりあえずリオネルは肯定したが、正確には少し違った。
会いに来たというよりは、アベルがこんな時間まで働いていることが気がかりで、様子を見に来というほうが正しい。彼女に声をかけたり、仕事の邪魔をしたりするつもりはない。
むろん、自分がこんな時間に現れたら皆に少なからず驚かれることは、リオネルにも理解できる。けれど、どうしても寝つけなかった。愛しい人が疲労した状態で働き続けているのに、自分だけ寝台で眠ることはできなかった。
どうせ眠れないなら、アベルの役に立ちたい。
彼女が働いている環境を確認し、人手が足りていなければ、他の者を呼ぶことができるし、いざとなれば自分にもなにかできることはあるだろう。リオネルは、そう思ったのだ。
同じ相手に想いを寄せる目の前の男も、同じような理由でここにいるのだろうかと、リオネルは心のなかで首をかしげる。
と同時にリオネルは、これはよい機会かもしれないと思った。
ヴィートとじっくり話をしたいと思っていたのだ。
山賊との戦いを終えて戻ってきてから、様々な後処理に追われ、今までヴィートに声をかける機会もなかった。
だが、先に切り出したのはヴィートのほうだった。
「あんたに聞きたいことがある」
彼がリオネルに向ける目には、今までのように恋敵に対する激しさよりも、どこか悄然とした色のほうが濃く浮かんでいる。
その理由は、山賊との戦いのことか、アベルへの恋心か、そのどちらかだろうか。
「おれも、話したいことがある」
そうリオネルが答えると、ヴィートはうなずき、壁から身体を離した。
「じゃあ、ちょうどいい。おれの話は、アベルに関することだ。だれにも聞かれたくない。館を出て話さないか」
「……わかった」
アベルの様子を見にいくのが遅くなってしまう――そのことが気になりつつも、リオネルは承諾した。今を逃せば、またいつこの若者と落ち着いて話ができるかわからないからだ。
「外へ出るのか」
やや不満げなベルトランに、リオネルはほほえんでみせる。
「そう長くはかからないよ」
むろんベルトランもリオネルと同行するが、彼が懸念しているのは、暗闇のなかで刺客や賊に狙われたりしないかどうかということである。だが、リオネルから問題ないと諭されてしまえば、断固として反対する根拠もなかった。
三人が移動した先は、バルコニーから歩いて十数分ほどの、庭園の木立の脇である。
これほど離れる必要性があったのかどうかはわからないが、リオネルとヴィートは、気がつけばここまで来ていた。それは、「騎士の間」からもれる光のせいだったからかもしれない。暗闇のなかに、たしかな明るさを投げかけるその光が届かぬ所まで来れば、だれにも話を聞かれる心配はないような気がした。
「聞きたいことは?」
アベルに関することで、ヴィートが聞きたいことというのは、いったいなんなのか。
互いの姿もようやく確認できるほどの暗闇のなかで、リオネルは問いかける。
するとためらうような沈黙のあと、ヴィートの声が、闇を隔てたリオネルとベルトランの耳に届く。
――父親はだれなんだ、と彼は口にした。