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プロローグ






 太陽は真上にあるというのに、針葉樹が生い茂る森は鬱蒼としていた。


 山中は地上より涼しく、夏は過ごしやすいが、冬は雪深く寒さが厳しい。

 足を踏み入れれば、朽ちて横たわる木の幹や枝、大人の腰ほどまで伸びる雑草、足を取られれば二度と這い上がることのできない底なし沼……これらが人の行く手を阻む。


 それだけではない。よくよく気をつけて歩かなければ、前触れもなく現れる崖や急斜面に、足を滑らせ転落することになる。落ちたその先にあるのは、激しい水流、もしくは底知れない深潭。

 そんな山々が連なるのが、シャルム王国とネルヴァル王国を隔てるラ・セルネ山脈だ。


 その山脈は、竜の形をしたシャルム王国の、左翼の東側に位置する。左翼の内陸部にあるベルリオーズ領からでも、遥かラ・セルネ山脈の万年雪を遠くに見ることができた。


 人々はけっしてその山々に近づこうとはしない。

 それは、ただ山の環境が厳しいからという理由だけではなかった。



 真夏。


 ラ・セルネ山脈のなかで、もっとも標高の高い山、カザドシュ山の麓の木々の合間を、子供たちの声が通り抜けた。


「おい、ヴィート! そんなところで、ぼんやり突っ立ってるんじゃねえよ」


 少年の声は木の上から聞こえる。声を張り上げた少年は、木の蔓にぶら下がり、野猿のように木々のあいだを飛び移った。


「おまえが地べたにいると、移動するときに邪魔なんだよ」

「おれは、騎士の子だ! おまえらみたいに、木の上を移動したりなんてしない!」


 ヴィートと呼ばれた少年は、懸命に声を振り絞り、頭上に向かって叫ぶ。


「聞いたか、みんな。ヴィートは騎士だってよ!」

「騎士様か、すげえや!」


 頭上から幾人もの子供の笑い声が降ってくる。ヴィートは言い返した。


「おれの先祖は、アンセルミ公国の侯爵だったんだ! おれは騎士になるんだ!」


 ヴィートが叫ぶと、先ほどよりも盛大な笑い声が山の空気を震わせる。


「アンセルミ公国? 馬鹿馬鹿しい。いったい何年前に亡んだ国の話だ」

「そんな国どこにあるんだ、教えてくれよ」

「アンセルミ公国の騎士様! どうかおれたち貧しい山賊の子供たちに、財宝をお恵みください!」

「財宝なんてヴィートが持ってるわけねえよ。虫一匹殺せやしないのに、人を殺してお宝を奪うことなんて到底無理な話だぜ!」

「略奪できない役立たずは、山から降りろ!」

「降りろ! 降りろ! 山から降りろ!」


 口々に罵る声が、頭上から降り注ぎ、ヴィートは唇を強く噛んだ。

 八歳の少年の目から、悔し涙があふれる。


 ――騎士になりたい。

 ――アンセルミ公国が存続していたなら、こんなことにはならなかったのに。

 ――シャルム王国に、亡ぼされさえしなければ――。


 ヴィートはわかっていた。

 自分の家は、もはや貴族でも騎士階級などでもない。人の命と財産を奪うことでしか生き抜くことができない、無慈悲な殺人者であり、匪賊であると。

 けれど二年前にネルヴァルの辺境警備兵に殺された父は、ヴィートにいつも語ってくれた。自分たちは、代々続く伝統ある騎士の家系だったと。

騎士の誇りを失ってはいけない、と。

 ヴィートは、あふれ出る涙と鼻水を右腕で拭きなぐった。


「ヴィートが泣いてやがる! 騎士様っていうのはずいぶん泣き虫なんだな!」

「普段からくだらないこと言いやがって、ざまあみやがれ!」


 木の上から、硬い木の実や、石がヴィートめがけて投げつけられた。


「騎士様だったら、おれたちを返り討ちにしてみたらどうだ!」

「ほら、かかってこいよ!」


 ヴィートはうずくまり石や木の実から身を守ろうとした。

 握った拳の上に、止めどなく流れる涙と、傷ついた額からの血が滴った。

 身体と心の痛みに耐えていたが、ふと身体の痛みだけがらくになった。

 石や木の実が当たらない。

 恐る恐る顔をあげてみると、黒い影があった。


「やめろ」


 凄味のあるその声は、ヴィートの知っている少年のもの。


「ブラーガ……」


 ヴィートは震える声で呟いた。


「やべぇ、ブラーガだ」


 木の上にいた少年たちが、いっせいに投石をやめた。


「木の上にいるやつ、降りてこい」


 ヴィートよりも三歳年上のブラーガは、森の奥まで響く声で言う。

 鬱蒼とした木々のあいだにその声が吸い込まれていくと、辺りには静寂が訪れた。木から降りてくる者はいなかったが、その場から逃げだそうとする者も一人もない。皆、逃げたりなどすればどうなるか、よくわかっているからだ。


「降りてこないなら、落としてやる」


 ブラーガは、ヴィートに投げつけられた石を拾い、木の上へ投げつけた。

 さほど大きな石ではなかったが、木の上で呻き声があがり、少年が一人、地上に落下する。

 続いて、ブラーガは石や木の実をいくつか投げつけると、次々と子供たちが地面に転がり落ちた。彼らの額や頬は、投げられた石や木の実で傷ついている。

 観念した少年らが、木々から徐々に降りてくる。多くの者は、ブラーガと同じくらいか、それ以上の年頃だった。そして、彼らは肩をすくめて立ちつくしていた。


「座れ」


 ブラーガが命じると、少年たちは膝をついて、土の上に座り込んだ。


「アンセルミ公国の悪口を言ったやつはだれだ」


 ブラーガの威圧的な声に、だれ一人として返事ができない。


「そうか、全員だな」


 その声に、だれかの「ひっ」という声が聞こえたが、それも一瞬のことだった。

 ブラーガは、そこにいた十五人ほどの子供たち全員を、ひとりひとり拳で殴りつけていった。皆、痛みに声も出せず、土の上を転がった。


「おれも、もとはアンセルミ公国の家系だ。文句があれば聞くぞ」


 少年たちはどうにか座りなおし、頭を垂れて項垂うなだれる。


「ヴィートに手を出すな。今度は殺すぞ、おまえら全員」


 少年らは、その言葉が単なる脅しではないことを知っていた。ブラーガはそれだけの残酷さと、腕の持ち主だ。かつてこの山に集まった山賊のなかでも、幼少のころからこれほどの実力と、威厳とを持ちあわせていた者はいない。


「わかったら失せろ。のろのろしてるやつは、もう一度殴ってやる」


 そう言われるやいなや、皆、血相を変えて、木々の奥へ一目散に走り出した。ブラーガの脅しが効いて、全員が視界から見えなくなるまでに五秒もかからない。

 再び静けさを取り戻した森に、ブラーガとヴィートの二人が残される。


「ヴィート、大丈夫か」


 ブラーガが手を差し伸べると、ヴィートは涙をためた目で、そっぽを向いた。


「助けてくれたお礼は言うけど、みんなに対して、あれはやりすぎだよ」

「…………」


 ブラーガは、無言かつ無表情でヴィートを見た。


「いつまでも昔にこだわるな。おれたちは山賊だ」

「わかってるよ。でも――」

「おまえは、わかってない」

「――おれは、殺すんじゃなくて、守りたいんだ。奪うんじゃなくて、与えたいんだ」

「なんの受け売りだ? 安っぽい台詞だな」


 ブラーガは苦笑したが、ヴィートの顔は真剣だった。


「おれは騎士になれなくても、その精神を忘れたくない。弱い者を守って、いつか愛する貴婦人に出会って、その人に惜しみない愛をささげて、命をかけて戦いたい」


 八歳の少年の馬鹿げた台詞に、ブラーガは笑いかけたが、ふと笑うのをやめる。

 ブラーガの家もかつては、今のシャルム王国の左翼に位置していたアンセルミ公国の貴族の端くれだった。侯爵家であったヴィートの家に仕える身分だったらしい。

 過去の身分など忘れろと言ったのは自分自身だったが、ヴィートを他の山賊の子供たちから守ろうと思うのは、ブラーガの胸の奥に、騎士としての誇りが秘められていたからだったかもしれない。


「おれはいつか山賊なんてやめて、まっとうに生きるんだ」

「そうか。だが、おれを裏切ったら容赦しないぞ」

「ブラーガこそ、おれの愛する人を傷つけたりしたら、許さないからな」


 ヴィートの夢物語のような話に真剣につきあっていられないと、ブラーガは踵を返した。


「でも、ブラーガ! 助けてくれてありがとう! もし、いつかおまえになにかあったら、おれは必ずおまえを守るからな!」


 足早に去っていく後ろ姿に、ヴィートは大声で叫ぶ。

 その声は、静かな森に響き渡り、ブラーガの耳に届いたはずだったが、少年の足取りは少しも緩まなかった。けれどその口元は、ほんのわずかに笑みを浮かべていた。




 ――それから、十五年の歳月が経った。







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