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穢れちまった身体と心

「緊急事態だって言うから来たけど、一体全体どういうことだ?」

 開口一番にめんどくさそうにそう言い放ったのは私の友達であるところの根室京子だった。

 茶髪にピンクのジャージ、それにテニスのラケットバックを肩に担いだ姿で私の部屋に訪れた。どうやらテニスの練習途中を抜けてきたらしい。

「状況を説明してくれ」

「ああ、京子、来てくれたんだね。とりあえず、そこに座りなよ」

 部屋に入ってから立ったままの京子に私は座布団を置いて座るように促した。

「まず説明が先だろう」

 ですよねー。

でも私も説明してほしいんだけど。

「根室センパイ、実は私たちも混乱しているんです。どうしていいのか、分からなくて……ですのでセンパイに来てもらったんです」

 香奈がそういうと、京子は長い茶髪をファサっとかきあげ、非常に厄介なことが起こったなあという表情した。

「葉山、お前は巻き込まれたのか、それとも積極的に関わってきたのか、どっちなんだ」

「……前者です。根室センパイ」

「ちなみに私も前者だよ。信じられないと思うけど」

 場を明るくしようとしてわざとちゃらけて言ってみると「黙れ」と恐い眼をされた。理不尽だ。

「佐々木、簡単にこの状況を説明しろ。なんでお前の部屋に『少女』が居るんだ」

 うう、核心を突いてきた。

 説明するの大変だなあ。私自身どう説明していいか分からないもん。

 当の『少女』は私たちの切羽詰ったやりとりをぼうっとしながら見つめていた。時折出されたジュースをちびちびゆっくりと飲んでいる。肝が据わっているのか鈍感なのか判然としないけど、少なくとも状況を私たちよりかは把握しているようだ。

 何故なら泣かないし喚かないからだ。私だったら知らない人が三人もいて部屋に閉じ込められている状況下だったらパニックになってもおかしくない。

 つまりこの子は――

「佐々木、さっさと説明しろ」

 思考の途中だったけど、京子は苛立ちを隠さないまま、また催促し始めたので、私は判明していることだけを話すことにした。

「えーっと、いつものファミレスで香奈と話していて」

「えっ? そこまでさかのぼるんですか?」

 香奈の疑問に京子も「簡潔に言え」と厳しい声をあげる。

「そうだね。簡潔に言うね。香奈と一緒にマンションに帰ろうとしたら部屋の前にこの子――朝日春花ちゃんが居て」

「どうして名前が分かるんだ? 前々からの知り合いだったのか?」

 京子の質問に私は春花ちゃんの胸辺りを指差す。

「名札――あるでしょ? 京子が来る前に確認したんだ」

 私が小学生の頃にも名札の着用義務があったから、おそらく下校途中の姿のままの春花ちゃんにもあると思って見てみたらビンゴだった。

 四年二組、朝日春花。

「あ、本当ですね。私気づかなかったです」

 香奈が覗き込むように春花ちゃんを見ても

春花ちゃんは変わらず無関心を貫いていた。

「相変わらず目聡いな、佐々木は。それで、どうして部屋の前に居たんだ?」

「これを見てほしいんだけど」

 京子にさっきもらった茶封筒を手渡す。中身を見た京子は「ふうん」と言って元に戻し私に返す。

「要するにこの子の面倒看るように頼まれたんだろう? それがどうしてあたしを呼ぶことになったんだ。関係ないだろうが」

 そのとおり関係ないけど、私の予想通りだと絶対に京子の力が必要になるという確信があった。

 予想が外れてくれればいいけどね。

「いいじゃん、友達でしょう? 親友でしょう? 相棒でしょう? 相方でしょう? 助けてよ!」

 馬鹿なフリして迫ると京子は鬱陶しいなあという顔をした。よく見る表情だけど、香奈と違うベクトルの美人である京子がそんな顔をするとなんだか同性なのにドキッとする。

「今この瞬間、たった今から縁を切りたい気分だよあたしは。大体、佐々木はいつも厄介事を持ち込むよな」

「心当たりがありすぎて困っちゃうなあ。それに厄介事と言っても具体的にしてほしいことをまだ話してないでしょ」

 そう言うと今度はジト目で見てくる。レズじゃないけどゾクゾクするなあ。

「お前、変態だよな。見た目まともそうに見える分たちが悪いな」

 あ、声に出てたのかな? それとも表情?

「佐々木センパイ、そろそろ本題を切り出してください。もう遅い時間になりますし、春花ちゃんも眠そうですよ」

 時計を見ると九時四十二分。全然眠気が襲って来なかったので気づかなかった。そりゃあ十二時に起きたんだから当たり前だ。

 私が小学生の頃は八時ぐらいに寝てたからそう考えると春香ちゃんが無関心いや無感動なのは眠たいからと考えられる。

「なら言うよ。一緒に春花ちゃんの面倒看てよ。お願い」

「……だからなんで面倒看なくちゃならないんだ?」

「いや、理由はないんだけどね。ちょっと手に余るというかなんというか」

 曖昧なことはなるべく言いたくないけど、香奈に聞かせるのはもっと良くないのでそんな言い方になってしまった。

「……いやだ。あたし帰るからな」

 案の定断られてしまう。やっぱりなあ。

「根室センパイ、待ってください!」

 踵を返して部屋から出ようとする京子を香奈は回り込んで止めようとする。

「どけ、後輩。先輩命令だぞ」

「香奈、どかなくていいよー。先輩命令だよん」

「はい。根室センパイ、考えてみてくださいよ。佐々木センパイだけで小学生の面倒を看れますか? 無理でしょう? ですので根室センパイの助けがいるんです」

 私をだしに使うのはどうかと思うけど、私を下に下に下げるのは本当にどうかと思うけど、それでも納得したのか、京子は足を止めた。

「葉山の言うとおり、こんな社会不適合者の大嘘つき女の佐々木に小学生を預からせるのは正直不安で仕方がない」

 酷いこと言うなあと思う反面、分かってるなあと納得できる言い草だった。

「だけど、なんであたしまで巻き込まれなくちゃいけないんだ? ていうか警察に連絡したのか? どうなんだ?」

「それは……まだしてません。佐々木センパイがしないほうがいいと」

「なんだと? おい、どういうことなんだ」

 京子が私に詰め寄る。私は目線を斜め横にずらして微笑みながら誤魔化した。

「だって夜遅いし、今日一日様子見て明日の朝にしようと思って」

「それでは遅いだろう。警察は二十四時間営業中だ。コンビニなんかよりも便利だぞ? さっさと通報しろ」

「通報だなんて乱暴だなあ。乱暴なのは言葉遣いだけにしといてよ」

「ああん?」

「じゃあさ、こうしようよ。明日の朝、近くの警察署に連れていくから、今日は手伝ってよ」

 私の提案に京子は顔をしかめた。

「だいたい何を手伝えばいいんだ? 料理でも作ればいいのか? お前も料理できるだろう?」

「そうだねえ。あ、ちょっと待って。ねえ春花ちゃん、お腹空いてない?」

 春花ちゃんに水を向けると春香ちゃんは眠たそうに(やっぱりだ)答えた。

「お腹空いた……です」

 一応敬語になっている。育ちが良いのか悪いのか分からないけど、まあいいや。

「香奈、春花ちゃんをお風呂にいれてあげてよ。その間にご飯の支度するから。ああ、お湯は溜まってるからすぐに入れるよ」

「は、はい。分かりました」

香奈は私と京子の顔を交互に見つめた。

「おい、話はまだ――」

「京子、話が長くなるから先に春花ちゃんを寝させよう。その後手伝ってくれればいいから。ほら、香奈も早くして。着替えは……春花ちゃん、部屋の鍵持ってる?」

 私が訊くと春花ちゃんは左ポケットの中から鍵を取り出す。可愛いキャラクターのキーホルダーが付いている。

 自分の鍵を持ってるってことは鍵っ子なのかな。

「ありがとう。さあ香奈、ゆっくり温めてあえてね」

「……分かりました。えーと、春香ちゃん。行こうか」

 香奈が春花ちゃんを連れて部屋から出た。

「……おい、お前、何考えている?」

 京子がとうとう私を睨んできた。これはやばい兆候だ。下手したら殴られるだろう。

「何も考えていないよ? だって考える必要ないもん」

「何わけわかんねえこと言ってんだ?」

「京子だってもう分かってるでしょ?」

「……なんのことだか分からないな」

「またまた、とぼけないでよ」

私は経験から。

 京子は知識から。

 そして春花ちゃんは実体験から。

 これから起こることは誰もが知っていた。

 知らなかったのは――

「きゃああああああああああ!」

 純真な香奈だけだった。

「……っ! どうした!」

 京子は忌々しく小さく叫んで勢いよく部屋から出て浴槽へ向かう。

「ふう、嫌だなあ」

 対して私はゆっくりと向かった。

 嫌なことは先送りにする私だ。

 だから嫌々ながら向かった。

 浴室へのドアは開けっ放しだった。

 だからすぐに見えた。


 春花ちゃんの身体は青痣で彩られていた。


 青痣だけじゃない。

 縄で叩かれてできたミミズ腫れ、爪で引っ掻かれた切り傷、フォークによる刺し傷、押し付けられたタバコの火傷、そして何をされたか分からないけど爛れた肌。

 描写できるのはこのくらいだろう。言葉にするのもはばかれる数々の虐待の跡が春香ちゃんの全身を蹂躙していたのだ。

「どうして、こんな……」

 香奈は口元を右手で押さえて、驚愕という言葉がふさわしいような表情をしていた。

「やっぱりか……分かっちゃいたけど、ここまでとは想像できなかった」

 京子は憎々しげに言い放つ。長い付き合いでなくても傍目から見ていて怒っているってことが分かった。

「分かっていたって……根室センパイ、知ってたんですか!」

 すっかり取り乱している香奈は京子を責めるようなことを言う。

「まあな。ある程度予想していた」

「こんな、酷いことを……どうして……」

「香奈、虐待されているって分からなかったの?」

 私の疑問に香奈は「当然でしょう!」と怒鳴るように言った。

 私は――その光景を見て、逆に冷静になった。取り乱している人を見ると反対に落ち着いてくる感覚って誰にでもあるはずだ。

 私が特別なわけではない。

「香奈、虐待されているって最初から分かってることじゃん。なんでそんな驚いているのか、理解に苦しむよ」

「……センパイ?」

 香奈が信じられないって顔をしている。私は言葉を続けた。

「だってそうでしょ? いくら顔見知りでも自分の子供をよく分からない女子大生に預からせる? こんな封筒一枚で頼むかな? 私が善良そうに見えるのかな?」

「そ、それは――」

「明らかに育児放棄されてるって分かるじゃん。ていうか春花ちゃんの身体を見てよ。傷だけじゃなくて栄養失調だって。服の上からでも想像できるでしょ? まるで枯れ枝のように細く、落ち葉のように軽いでしょ? そりゃあだって――」

「佐々木、いい加減にしろ」

 こつんと頭を叩かれた。

いや、こつんというより、ごつんと叩かれた。めっちゃ痛い。

「痛ったいなあ。なにすんの」

「黙れ人格破綻者。見ろ、葉山が怯えているだろう」

 確かに怯えていた。何を言っているのか理解できないって顔で私のほうを向いていた。

「えーっと、香奈、ごめんね。ちょっと言い過ぎたかな?」

 にっこりと微笑んだ。

「…………」

 逆にますますひかれてしまった。なんでだろう。

「この状況でよく笑えるな。で、どうするんだ?」

 京子は厳しい声で問う。そんなこと私だって教えてほしかった。

「……寒い」

 春花ちゃんがボソッと呟く。まあ暖房が効いているとはいえ半裸のままだったら寒いに決まってるよね。

「とりあえず、春花ちゃんをお風呂にいれよう。話はそれからだよ」

 預かっている身としては風邪をひかれては困ったりする。まあこの状況自体まずいけれど。

「わ、私……その、どうしていいのか分からなくなって――」

「わかったわかった。葉山、あたしが代わるからお前は佐々木と一緒に料理しろ」

 おお、先輩らしいなあ。本来なら私が言い出すべきことだろうけど、先に言ってくれて助かった。流石だな女前の京子。

「お、お願いします……」

 香奈は足早に浴室から出て行く。耐え切れなくなったのだろう。

「それじゃあお願いね。あ、そうそう春花ちゃん、何か食べられないものある? 嫌いなものとかアレルギーとかって」

 春花ちゃんは首を左右に振った。私はまたにっこりと笑って「着替えは用意しとくからゆっくり入ってね」と言って浴室から出た。

 さて、香奈のケアをしないといけないな。

「…………」

 香奈は居室の片隅に体育座りをしていた。座るという表現より縮こまっていると評したほうがいいかもしれない。

 落ち込んでいるのか、それともショックを受けているのか、はたまた両方か。

 はっきりしないけど、慰めないといけないね。

「香奈、あのさ――」

「……分かっていたならどうして教えてくれなかったんですか……?」

 私の言葉を遮るように、しかし力なく話し出す香奈。

私は香奈の頭をポンポンと撫でながら意識的に明るく答えた。

「言っても信じられないって思ったからね。それに百聞は一見に如かずってことわざもあるし」

「……どうして、あんなこと出来るんでしょうか」

 あんなこと、か……

「理由なんてないんじゃない?」

「……? 理由もなくそんなことするんですか? おかしくないですか?」

「うん、そうだね。私もおかしいと思う。でも本当は理由なんてないんだよ」

「理由なんてない? それって一体――」

「ただ楽しいからやってるだけだよ」

 今度は私が言葉を遮った。

「自分が楽しみたいから。または振る舞いが気に入らないから。加えて自分がすっきりしたいから。例えるならゲームで敵キャラを倒すのと同じで爽快感を味わいたいからかな。まあ名目上は躾だとか教育だとかいろいろあるけどね。結局は自分本位でしかない。ないんだよ」

「センパイ、でも――」

 私の言葉に慄くように唾をごくりと飲み込み、それでも精一杯の反論をしようとする。

「でも、親子なんですよ? なのに、どうして、あんなこと、出来るんですか? いくら自分本位と言っても、許容範囲を越えてますよ?」

「親子なんて血の繋がってるだけの薄い関係性だよ。血は水より濃いだなんて言葉はあるけれど、そんなの嘘だよ。むしろ繋がっているせいで、色々面倒なことになる――話が逸れたかな。まあ結論を言ってしまえば、簡単なことだよ」

 ここで私は言葉を溜めて、そして言う。

「暴力を向けられる、唯一つの対象が春花ちゃんぐらいしかいなかったんだよ」

「……っ!」

 私の台詞に香奈はとうとう涙を流してしまった。

 ぽろぽろと流れ出る涙。

 子供みたいに大声で喚いたりしない。

ただ静かに涙を流すだけだ。

「泣かないでよ。どうして泣いてるの?」

「……どうして、センパイは泣かないんですか? 春花ちゃんのこと、可哀想だと思わないんですか?」

「だって、泣きたいのは春花ちゃんのほうだからね。だから泣かないんだよ」

 慰めると思っておきながらキツイことを言ってしまった。

やれやれ、自分では冷静のつもりだったけど、どうやらそうではなかったみたいだ。

あの姿を見ると、昔を思い出すなあ。

懐かしくもなんともないけど、やっぱり辛いなあ。

「香奈、私、料理作らないといけないからそろそろ行くよ。それまでに泣き止んでね。さて、何作ろうか――」

「……はい、わかりました」

 涙声でとても聞いていられなかったけど、時間もなかったのでそのままにしておく。

そういうところが京子から人格破綻者だと認識されているのだろうなあ。

 部屋を出てキッチンに行き冷蔵庫の中身を見る。

鶏肉、玉ねぎ、じゃがいも、にんじんなどなど。

 炊飯器には昨日炊いたご飯が残っている。

三秒くらい悩んでオムライスを選んだ。

 ファミレスで食べたばかりだけど、私が食べるわけじゃあないから、いっか。

「さてと、作りますか……」

 戸棚から包丁とまな板、数個のボールを取り出し、エプロンを着て、それから手を洗って料理開始。

「一応、サラダも用意しようかな……そうだわかめスープも作ろう」

 手を動かしながらこれからのことを考えてみる。

 まず、大前提にあるのは『警察には通報しない』こと。これは単純に面倒くさくなるからだ。

別に虐待の犯人ってわけじゃないけど取調べとか尋問とか受けるのって嫌だなあと思うし。

それに京子は警察が便利だとかなんとか言ってたけど、私はそこまで警察を信用していない。むしろ警察は役立たずで信用ならないと思う。民事不介入とか訳わかんない。介入すべき場面はあるはずだ。

そうすれば、私は少し救われたのだと思うと自分のことながらやりきれない。

かの有名な文豪、夏目漱石は傑作、『こころ』に『向上心のないものは馬鹿だ』という名言を残しているが、それ以上に自身の経験から何も学ばないのは大馬鹿だと思う。

 向上心とは未来への希望を膨らませるものだから、ある程度なくてもいいが、自身の経験――反省だとか後悔だとか、そういったマイナスな感情は過去に関わってくる。

 未来と過去。どちらが対処可能であるとするならば断然過去だろう。

 何故なら過去は既に起こったことだからそれを糧に成長できるが、未来は何が起こるか分からないから対策ができない。

 しかし未来は変えることができるけど過去は変えられないという意見もあるけれど、今までの経験からそれは全くの逆である。

 言い換えるなら過去を隠すことはできるけど未来は隠すことはできないのだ。

 思考が明後日のほうに逸れてしまった。私の悪いクセだ。

玉ねぎをみじん切りしてボールに入れて、今度は鶏肉を細かく切っていく。ザクザクと大雑把に切る。

 次に考えることは春花ちゃんについてだ。

 一週間預かることは確定している。これは覆らないし翻したりもしない。これは決定事項だ。だけれど私一人ではとても看てられないだろう。ままごとじゃああるまいし、一人の少女の生活を支えるのは正直大変だ。

 子供を産んだことのない、母親代わりになれない私に何ができる? 家事は一通りできるけど、それがなんだっていうのだ。

 預かって数分も経ってないのにあたふたしてるし、混乱している後輩もいるし。

 そうそう、香奈のことも一応懸念事項に加えておかなければ。

 香奈の性格上、ここまで来て協力しないという選択はないだろう。しかし、やってくれることは限られてくる。まずお風呂は無理だろう。生理的にあの青痣を洗うのは私か精神的にタフな京子くらいしかできない。

 そうなると食事の用意と春花ちゃんと一緒に遊んだりするなど色々あるが、料理は私でもできるし、遊ぶとなるとあの青痣を見たことからどうしても腫れ物に触るような対応となってしまうことは否めない。

 要するに経験不足なのだ。私や京子のようにトラウマがないから、少しのことでショックを受けてしまう。

皮肉な話だ。辛い過去であるトラウマが耐性となって現在のトラウマに対応できるなんて。

笑えないし泣いてしまいたい、めでたしで終われない昔話。

 何の教訓にもならないけれど。

 率直に言ってしまえば香奈ができることは少ない。それでも――香奈には協力してもらいたい気持ちがある。

 これは私の思い込みだけど、春花ちゃんを助けられるのは、私たちの中では香奈しかいないのだ。

 理由は消去法。私は人格破綻者(ぶっちゃけ自分ではあまり思ってないけど)だし京子は京子で壊れているところもあるし。まともなのは香奈だけだ。

 三分の二が使い物にならない事実に戦慄するけれど、そのことは眼を瞑ろう。

 何のトラウマもない真っ白な香奈の純真さが必ず春花ちゃんを救えると密かに期待しているのだ。

 勝手な妄想でしかならないけどね。

 最後に考えることは春花ちゃんを母親に引き渡すかどうかだ。

 もちろん答えはNОだ。

 あんな可愛らしいお人形のような春花ちゃんを、刺青を彫るように青痣だらけにする女がまともなはずがない。

 まともだったら、手紙一つで実の娘を預からせる思考に至るわけがない。

はっきり言って頭がおかしい。

 もしも、私が断ったり、警察に連れていったらどうなると考えてる? 

 下手したら児童虐待で逮捕されるのに。不思議でならない。

 そんな風に考えられないほど馬鹿ではない――あれ?

 よく考えてみるとこれってかなり不味くない?

 そこまで頭が回らない人はいないでしょ?

 いやいやいや、ちょっと待って?

 やばいやばいやばい!

「……センパイ、私も手伝います……ってどうしたんですか? 顔が青くなってますよ」

「――っ! な、なんだよ!」

 いきなり声をかけられたので、びっくりした。心臓が喉から飛び出そうになった。

しかも指摘されたくないことをずばり言われたのでさらにびっくりだ。

「センパイ? どうしてそんなに驚いているんですか?」

「包丁使ってるのに、後ろから声かけないでよ! ああ、びっくり仰天だよ」

 包丁をまな板の上に置いて一息つき、香奈と向き合う。

 香奈の目は涙を流したせいか少し腫れている。でもすっきりしたのか、まるで大雨の後の晴れ晴れとした顔になっていた。

「何作っているんですか?」

「オムライス」

「……さっき食べたばかりでしょ?」

「私は食べたけど春花ちゃんは食べてないじゃん」

「そうですけど……よく作れますね」

「うん? まあ一人暮らし長いし、この程度だったら簡単にできるよ。チャーハンと変わらないしね。それより香奈、朝日さんの部屋に行くよ」

 私はエプロンを脱いで畳んで台に置いて外に出る準備をした。香奈は「唐突ですね」と乾いた笑みと共に言った。

「料理、途中ですけど」

「後は炒めるだけだから。出た後でもいいでしょ」

「そっか。……ああ、着替えを取りに行くんですか?」

「それもそうだけど、一つ確認したいことがあって。気になることもあるし」

「それって一緒じゃあないですか」

「確認したいことは既に予想していること。気になることは不確定のことだよ」

「細かいですねえ。分かりました、行きましょう」

 香奈が快諾してくれたので私は「ちょっと待って」と言って部屋に戻り、軍手とニット帽を二つずつ用意して片方を香奈に手渡す。

「? どうして軍手――」

「一応、不法侵入で訴えられないように。靴下は履いてるよね。髪の毛はニット帽の中に入れてね。安全とはいえないけど、しょうがないよね」

「……センパイ、手馴れてますね」

 そうかなあ。少し考えたら当然の対応だと思うけど。

「準備できたら行くよ」

「あ、根室センパイに声かけなくていいんですか?」

「大丈夫でしょ。入る前に着替え取りに行くって言ったし。まあ、念のために鍵かけておくね」

 ニット帽を被りながら玄関へと歩く。香奈もとてとてと着いてくる。

「確認したいことと気になることってなんですか?」

「さっきから質問ばかりだね。でも今は内緒だよん」

「だよんって……」

 靴を履いて外に出る。うう、十一月の夜は寒いなあ。吐く息は白くなってる。

「このマンションは防犯カメラとかないから安心して入れるね」

「ここの防犯はゆるゆるですね。よく泥棒が入らないですよね」

「家賃が八万前後のマンションにそこまで期待しちゃあいけないよ」

 会話しながら朝日さんの部屋の前に来る。

「覚悟はいい?」

 真剣な顔を作って香奈に問う。

「覚悟って、何なんですか……?」

 いつもふざけてる私が真面目な顔をしたせいでちょっと戸惑っているのかな。

「覚悟っていうのは――こういうことだよ」

 私はドアを開けた。

 そこには、想像していたものはなく――

 何も、なかった。


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