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盆栽川銀子は悪役に徹する!

  1



 朝の気持ちよい陽光を浴びながら、私は誠蘭学院の校門を通り抜けた。


「見て、銀子様よ」

「銀子様ですわ」

「なんと可憐な」


 登校中の生徒たちが、どことなく羨望の眼差しを向けてくる。

 私は背筋をぴんと伸ばしたまま手を振るった。


「ごきげんよう。ごきげんよう。朝霧に濡れた蕾たち」


 生徒たちがきゃあきゃあとはしゃぎ始める。


「なんて素敵な挨拶なのかしら」

「私たちが蕾だなんて」

「やはり上流の方にもなると、語彙も麗しいのね」


 私は周囲のざわめきを涼しい顔で受け流して、歩みを進める。

 前方には、肩口まで伸びたボブカットをふわりふわりと揺らす女子生徒がいた。

 山吹みどりだ。

 私は足をやや速めて、山吹さんと肩を並べる。


「どうもごきげんよう、山吹さん。今日はよいお天気ね。ご覧なさい、小鳥たちを」

「あ、盆栽川さん。おはようございます」


 山吹さんが両手をおへそに当てて、ぺこりと頭を下げた。

 いい子。

 再び顔を上げた山吹さんを、私は間近でぐいんと見つめる。


「きゃっ。な、なんですか――」


 山吹さんの唇に人差し指をくっつける。

 私の指に、何とも言えない柔らかな感触が伝わってきた。


「貴方って、本当に可愛らしいわよね。度量もよくて、人柄もよくて、愛想もいい」

「い、いきなりなんれひゅか……?」

「モノローグで、二度と『地味な女の子』と言わないことね。よろしくて?」

「ふえ?」


 この子は本当に恐ろしい。

 これほどまでに美麗な容姿を持ち、内面も完璧な男たらしだというのに、モノローグで「地味で普通な女の子」とのたまうのである。

 どの口がそれを言うのか。

 私が押さえるこの口です。


「モノローグ、って何の話ですか?」

「教えません」

「えっ?」


 山吹さんがきょとんとするが、説明が面倒臭いので無視します。

 この世界には『恋する乙女のヴォルケイノ』というゲームが存在しないので、説明すること自体が難しい。


「ちょっといいかしら」


 私は試しに山吹さんのスカートをめくってみた。


「きゃっ。な、なにするんですかいきなりっ」


 山吹さんが顔を真っ赤にしてスカートを押さえる。

 縞々の庶民的なパンツをはいていた。

 顔よし、スタイルよし、内面よし。そのうえさらに、下着よしときた。


「完璧ね」

「なにがですかっ」


 完璧である。

 山吹みどりは完璧にヒロインをこなしている。

 さすがは日本中の女の子たちを虜にした主人公だけはある。

 乙女ゲームのヒロインと言えば些細なことでバッシングを受けるものであるが、こと山吹みどりに至っては好意的な評価しか聞いたことがない。


『こんなに応援したいと思ったヒロインは初めてです!』

『恋ヴォルは男性も魅力的ですが、一番の魅力は何といっても主人公!』

『乙女ゲー史上、最高の主人公だと思う』

『どのルートに行っても、主人公の幸せを願ってやみませんでした』

『盆栽川はみどりちゃんの爪の垢を煎じて飲め。てか盆栽って。お婆ちゃんかよ(笑)』


 まあ、一番下の感想を投稿したのは私なのだが。

 まさか、気がついたときには恋ヴォルの世界に紛れ込んでいて、盆栽川銀子として悪役お嬢様の役割を任されるとは思ってもみなかった。正確には誰にも悪役お嬢様を演じろとは言われていないのだが、恋ヴォルというゲームの中で私は、山吹みどりの恋路を邪魔する敵役として描かれているのだった。


 最初は戸惑っていた私だったが、正直言うとテンションが上がった。


 悪役だろうと何だろうと、夢の恋ヴォルの世界に入り込めたことに感激した。しかもお嬢様であるのでお屋敷も超豪華。犬とか超でかい。ミドリガメもいる。天蓋つきのベッドが四畳半もあるし、食事と言えば長ったらしい名前のやつが次々と運ばれてくる。

 なにが「グリーンソースを添えて」だよ。

 ポン酢でいいんだよ。


 顔を赤くしてもじもじしている山吹さんの耳元に、私はゆっくりと唇を近づけた。


「お詫びに秘密を教えて差し上げるわ。実はわたくし、ノーパンなの」

「のーぱっ!?」


 山吹さんがびくっと跳ねて余計に赤くなった。

 ゲームの画面であれば、頭の上から白い煙が立ち昇っているところだろう。


「ふふふ。冗談よ」


 私はけらけらと笑いながら、山吹さんから離れた。


「本当は、紐の下着なの」

「ひもっ!?」


 私の言うことひとつで表情がころころと変わる。

 こういうところが男性にウケるのかしら。

 女性の私から見ても、山吹さんは可愛らしいと思う。


「あ、でも、盆栽川さんなら、何でも似合うと思います……」

「あらっ」

「その、セクシーな下着、だとしても……」


 語調がだんだんと弱くなっていく。

 顔は相変わらず沸騰しそうなほど赤い。


「優しいのね、貴方」

「いえ、本心です」

「まあっ」


 私は口に手を当てた。

 それからちらりと視線を動かし、腕に巻かれているブランドものの腕時計を確認する。

 午前八時二分。そろそろ時間だ。


「やあ、おはよう。山吹に盆栽川」


 平等院朱雀が声をかけてきた。

 聞く者をうっとりさせるような爽やかな声だ。

 お待ちしておりました、朱雀様。


「お、おはようございます」


 先ほどと同じように、山吹さんがぺこりと頭を下げる。

 私はくるんとカールした髪の毛を後ろに払って、余裕を見せながら挨拶を返した。


「どうもごきげんよう、平等院さん。今日はよいお天気ね。ご覧なさい、小鳥たちを」

「小鳥?」


 朱雀様が私に反応してくれた。

 目蓋に手をかざして青空を見上げる。


「ちゅんぴけ、ちゅんぴけ~♪ 聞こえてくるでしょう? 鳥のささやきメロディが」

「相変わらず盆栽川は変わってるな。一緒にいて飽きないよ」


 歯を見せて笑う朱雀様に、私は終始ドキドキしていた。

 ゲームのときから一番好きだった。

 身長が高くて手足もすらりと長い。赤髪の坊ちゃん刈り頭で、アイドルのような甘いマスクが数々の女性を虜にした。一目見たときからこの人だと決めた。私の旦那様。

 パソコンのデスクトップは当然朱雀様の半裸姿だし、朱雀様の誕生日にはケーキを焼いてツイッターに画像をアップロードした。私以外にもケーキを焼いている人は何百人といたけど、朱雀様への愛情は私が一番だと胸を張って言える。


 なぜなら私は、ケーキを十七つ焼いたからだ!


 朱雀様の年齢に合わせて十七つ。

 その次の年も十七つ焼いたし、さらに次の年も十七つ焼いた。

 朱雀様の年齢が現実に即して増えるのか判断に迷うが、私の中では誕生日の一日前には作中の十六歳にリセットされることにした。だから毎年十七歳になる。私はツイッターで「十七の人」と呼ばれているらしい。うるさい。私の恋の邪魔をするな。


 でも私の目の前には今、三次元の朱雀様がいる。


 手を伸ばせば触れることができる。


 悪役だろうと何だろうと、この事実が跳び上がるほど嬉しい。


 そして、胸が張り裂けそうになる。


 山吹みどりは憧憬の眼差しで平等院朱雀を見上げ、平等院朱雀は熱のこもった眼差しで山吹みどりを見下ろす。


 私は余裕の笑みを貼りつけて二人の談笑を眺めた。

 すごく、遠いと思う。

 朱雀様との距離が遠い。

 手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、伸ばしても伸ばしても届かない気がしてくる。

 私はこれほどまでに朱雀様のことを想っているのに、朱雀様の視界にはいつも私はいない。朱雀様の瞳に映っているのは、いつだって山吹みどりだ。私が無意識に朱雀様を眺めていると、朱雀様の目線が山吹さんを追いかけていることに嫌でも気がつく。

 ユーザーからも登場人物からも愛されるヒロイン、山吹みどり。

 私の最強の恋敵。


 朱雀様が山吹さんの髪の毛をくしゃくしゃと弄って遊んでいる。

 山吹さんが顔を赤くして頬を膨らませた。

 やめてくださいよぅ、とぶりっ子ではなく素の声で言っている。

 本当に、本当に、山吹さんは可愛いなあ。

 私なんかじゃ絶対に敵わない。

 盆栽川銀子という最高の容姿と最高のステータスが備わっていても、私なんかじゃ山吹みどりには絶対に敵わないってわかる。主人公補正とかそういうものを通り越して、山吹みどりは人間としての格が違うのだ。

 嫉妬で狂いそうなのに、今でも私は山吹みどりのことを嫌いになれない。

 私は、山吹みどりが、好きだ。


 不意に山吹さんが足をつまずかせて転びそうになるが、すかさず朱雀様が手を伸ばして彼女を抱き寄せた。密着したまま二人は見つめ合った。


「大丈夫かい」

「は、はい……」


 絵になる二人。

 私はただただ余裕の笑みを貼りつけつづけた。


 唯一の反抗。精一杯の強がり。



  2



 教室で紅茶を淹れるけど誰も文句を言わない。

 芳しいお茶の香りが漂って、教室が一瞬でカフェテラスに変わったみたいだ。


「銀子様」

「銀子様」


 教室の女子生徒たちが私のもとに集まってくる。

 五、六人くらいの、皆が可愛らしい女の子だ。


「どうしたのかしら?」

「あの、銀子様。銀子様にご質問をしてもよろしいかしら?」

「ええ、もちろんよ」

「銀子様のご趣味は何ですの?」

「わたくしの趣味? テレビゲームね」


 女子生徒たちがざわめき出した。


「銀子様もゲームをおやりになるのね」

「意外だわ」

「たとえば、どのようなゲームをお愉しみになるんですの?」


 私は紅茶をすすって答える。


「ウイイレとかよ」


 女の子たちが目をぱっちりと開けた。


「ういいれ!」

「ういいれって何かしら」

「楽器みたいな名前ですわね」

「それはうくれれですわ!」

「うくれれ!」


 小動物みたいで可愛らしい。

 誠蘭学院は格式の高い学校であるから、世間知らずの子たちが多いようだ。


「ウイイレというものはね、サッカーのゲームなのよ」

「サッカー!」

「知っていますわ、サッカー。ボールを蹴って、ゴールをすれば一点ですのよ」

「私もテレビで見たことがありますわ。たしか、ワールドカップと言うの」

「ええ。軽くぶつかっただけで、選手たちがその場に倒れ込んで、すごく泣きそうな顔で痛がっていましたわ。でもボールがくるとすぐに起き上がって、泣きそうな顔が一瞬で元通りになるのが愉快だったのを覚えています。あれは何だったのかしら……?」


 演技だよ、と私は思う。

 サッカーの愛おしくて可笑しくて滑稽な部分だ。


「銀子様のお好きな国は?」

「トルクメニスタンかしら」


 きゃあっと色めき立つ。


「まあっ。トルクメニスタン」

「トルクメニスタンってどこなのかしら」

「きっとヨーロッパにある優雅な国なのよ」

「ああ、ヨーロッパ! そうだわ!」

「トルクメニスタンって、あれでしょ、ギリシャの左の……」

「わかりますわ。ギリシャの左ね」

「ああ、あそこね。ギリシャの左の、キリンを食べるっていう」

「まあっ、キリンを食するのですか?」

「たしかそうだったわ。キリンのトマト煮込み、とか聞いたことがありますもの」

「そういえば、そうね。そんな気もしてきましたわ」


 ちょっと何を言っているのかよくわからない。


「ねえ、銀子様。お好きな食べ物は何ですか?」

「もつ鍋ね」


 私は答える。


「もつ鍋、とは……?」

「きっと、素晴らしいお料理なのね。銀子様の舌鼓を打つような」

「私たちには到底及ばない高級なお料理なのでしょう」

「はー。羨ましいですわ。一度でいいから食べてみたい」


 女の子たちがうっとりと両手を頬に当てた。

 私は涼しげな顔で紅茶を堪能する。


「それで銀子様。銀子様のお好きなお相撲様はどなたですか?」

「あけぼの」

「あけぼの! 大きい方ですわ」

「ああ、あの大きい」

「大きいあの方ね」

「わかりますわ、あけぼの」

「春はあけぼのね」


 あけぼのは知っているらしい。

 私は紅茶を飲み終わると席を立ち、ティーカップを洗うために廊下へ出た。

 しばらく進んで水道のある空き教室で水洗いし、日の当たる窓辺に置いて乾燥させることにした。


 そのとき、不意に横から声をかけられた。


「よう、盆栽川。お前も食器とか洗うんだな」


 声をかけてきたのは渋沢くんだった。

 恋ヴォルには出てこないただのモブであるが、何かにつけて私に話しかけてくる。

 髪は短髪で体格がいい。運動が得意そうなことは見た目でわかる。きりっとした男らしい眉毛にどことなく意志の強さを感じた。


「あら、失礼ね。わたくしはこれでも乙女なのよ」


 顎をしゃくってみせた。


 渋沢くんはこの学校で唯一ゲームの話題を共有できる仲なので重宝している。

 私の家に招待して何度か一緒にゲームをしたこともあった。


「ま、俺はお前の意外な一面ってやつをたくさん知っているからな。食器を自分で洗うことくらいじゃ驚かないぜ」

「バカにしてるのかしら?」

「いいや。愛の告白だ」

「まったく。何を言っているのかしらね、本当に」


 私はやれやれと肩を竦めた。

 渋沢くんはテーブルの上に腰かけて唇の端を歪めた。


「俺の愛の告白はどうやったら届くんだ?」

「小鳥たちにラブソングを歌わせることができたら、かしらね。わたくし、小鳥の鳴き声ってすごく好きなの。一日中聞いていられるわ。どうしてかしら?」


 盆栽川の公式の台詞を少し改変して言ってみる。

 すっごく恥ずかしくなってきたんですけど!


「さあてね。前世が鳥だったとか?」


 とりあえず話に乗ってくれるところが彼の美点だ。


「どうなのかしら。少なくとも前の世界では人間だったけれど」

「盆栽川の内面にはたぶん鬱憤がたまってるんだよ。だから鳥たちのように空を自由に飛んでみたいと思ってるんじゃねえかな。心のどこかで何かを抑圧してるんだよ、お前」

「興味深いわね」


 そうだ、と私は渋沢くんに流し目を送る。


「ちょっとわたくしに協力しなさいよ」

「協力?」


 渋沢くんが目を細めた。

 私の中から何かを見極めるような鋭い威圧を感じた。


「ええ。わたくしが悪役に徹するための協力」

「こいつはまたずいぶんと抽象的な目標だな」

「いいえ。わたくしの中ではある種具体的なプランが立っているわ」

「まあプランがどうとかは置いておいて、どうして悪役なんかになろうと思うんだ? 普通は正義の味方になるもんだろ。やっぱり盆栽川はずれてるよなー」


 私は目を伏せる。

 そういう役割だからだと言ってやってもよかったが、それを言うと渋沢くんが余計にこんがらがるのが目に見えていたので黙っておくことにした。申し訳ない。

 それに何より、私は私の意志で悪役に徹すると決めたのだ。

 何が何でも山吹みどりの恋路を邪魔してやる。

 後悔も反省もない。

 これでいい。



  3



 翌日の早朝に、私と渋沢くんはいち早く教室に向かっていた。

 山吹みどりを虐めるためだ、と伝えると、渋沢くんは一瞬だけ顔を歪めた。


「お前って、本当に不器用だよな。こんなことしかできねえのかよ」

「こんなことしかできないの」

「ふうん。損な奴だな」


 損な奴なのは、悪役令嬢と関わりを持ったあんたのほうだ、と教えてやりたい。


「引き返すなら今よ?」

「いいよ。だってお前泣くじゃん、一人だと」

「泣かないわよ。絶対に泣かないもの」

「あっそう」


 私は渋沢くんにゲームで負けただけで涙目になる。

 泣き虫なことはよく知られているので、彼は私のことを放っておけないのだろう。

 余計なお世話だとも思うが、一人では心細いのは確かだ。絶対的な仲間がいれば、私も少しは勇気が出る。山吹さんの邪魔をする勇気が。


 私は皮鞄から油性マジックを取り出して、山吹みどりの机に落書きを始めた。



  平等院朱雀と親しくするな

  この警告を無視するならば、必ず不幸が訪れるだろう

  熱々の肉まんを食べて火傷しろ

  口の中がでろんでろんになれ

  アホ バカ マヌケ

  お前の頭上にだけ雨が降れ

  そして震えるがいい

  去勢したばかりのチワワのように



 机にでかでかと書かれた文字を見下ろす。


「これでよし、と」

「途中から小学生みたいになってんぞ」

「これくらい書いておけば山吹さんもきっと傷つくわ」


 私は自分の書いた文字にうっとりとする。

 なかなかいい出来だ。


 私たちは、しばらくのあいだ空き教室で時間を潰した。

 生徒たちが登校したのを見計らって自分の教室に入り、席に座って児童文学の「西の魔女が死んだ」を読み返す。心臓がドキドキして文字が頭に入ってこない。

 私は必死で文字を追って胸の中で唱える。


 ダッシュツ・ダイセイコウ、ダッシュツ・ダイセイコウ……


 教室の生徒たちは不安げな視線をあちこちに彷徨わせる。

 井戸端会議のようなひそひそ声が教室に木霊した。


「ひどいことするわ」

「可哀相」

「一体誰があのようなことを」

「下劣ね」


 ゲームの中では取り巻きの女の子たちもこのイジメに加担していたが、さすがに彼女たちをそのような汚れ役に巻き込むことはできなかった。彼女たちは世間知らずでただ単に純粋なのだ。私の身勝手な振る舞いでピュアな心を汚すことはできない。

 これは私の一人戦争だ。

 いや、正確には、渋沢くんとの二人戦争か。


 しばらくすると山吹さんと朱雀様が揃って教室にやってきた。

 俄かに教室の空気が緊張感で満たされ、口を噤んだ生徒たちが重苦しい表情になる。

 当の山吹さんは溌剌な笑顔で朱雀様と会話をしている。

 彼女が読書中の私に気づくと、ぱっと眩しい笑顔の花を咲かせた。


「盆栽川さん、おはようございます」

「ごきげんよう」


 私は本から目を話して、笑顔で挨拶を返した。

 山吹さんが通り過ぎて自分の席を見たとき、一瞬で笑顔が凍りついたのが確認できる。


「え……なにこれ……?」


 山吹さんが慌てて鞄から消しゴムを取り出して、ごしごしと机の文字を消そうとするが、一向に落書きは消えない。山吹さんの焦りをあざ笑うかのように自己主張をしている。

 その様子に気づいたのか、朱雀様が山吹さんの机に近づいた。


「何をしているんだい、山吹」


 顔面が蒼白になった山吹さんが、慌てて机の上に覆い被さって言う。


「み、見ないでください」


 その声は沈痛で、震えていた。

 朱雀様が山吹さんの腕を取って、無理やり机から引き剥がす。すぐに瞳孔が開いて、驚きの表情になるが、次の瞬間には目に怒りを宿して周囲を見渡した。


「これは、どういうことかな?」


 誰も答えない。

 渋沢くんは頬杖をついて窓の外を眺めている。


 やがて山吹さんの目からぽろぽろと涙が零れ落ち、それを朱雀様に見られぬようにと俯きながら、廊下へと勢いよく飛び出していった。


「山吹!」


 朱雀様が彼女の後を追う。

 山吹みどりは盆栽川に虐められるといつもトイレの中で泣いていた。だから今回もトイレの中でしくしくと泣いているのだろう。これでいい。十分に傷つきなさい、山吹さん。


 私はティーカップを手に取る。

 山吹さんの机まですたすたと歩いて、その上にレモンティーをひっくり返した。机の上に水溜まりができて、机の文字がだんだんと滲んでいくのがわかる。油性マジックの文字は有機溶媒で拭き取るのが一番簡単だけど、柑橘系の成分でも十分に取り除くことが可能だ。私はポケットからハンカチを取り出してさっと落書きを拭き取った。

 あれ、消えてない。

 優雅に消すつもりだったが油性マジックは案外しぶとい。

 何度も何度もごしごしと擦りつけて、やっとのことできれいにすることができた。


「まあ銀子様、素敵ですわ」

「なんて清らかで気高いお方」

「心の底から尊敬しますわ」


 私は教室の視線を一身に浴びる。

 盆栽川銀子はやりようによってはここまで伸し上がれるのだ。

 最高の容姿に、最高の地位。

 要は使い方次第。

 クラスメートの私に対する評価はうなぎのぼりだ。

 順調と言っていいだろう。


 私は山吹みどりを徹底的に痛めつける。

 だって私は、悪役お嬢様なのだから。



  4



 あれから何日間か山吹さんへの嫌がらせはつづいた。

 筆箱の中に大凶のおみくじを入れたり、消しゴムを新品のものと交換してみたり、体操服のサイズを一回り小さくしてみたりした。山吹さんの反応は見ていて飽きない。

 朱雀様は、ますます辛辣な顔になっていた。

 その表情を見ると私まで心苦しくなったが、このイジメをやめるつもりは毛頭ない。

 目的を達成するまでは。


「一緒に出し物を見て回りましょう?」


 私は渋沢くんに提案した。


「構わねえよ、べつに。どこへいくんだ?」

「甘いものを食べたいわ」

「わかった」


 今日は誠蘭学院の学園祭の日だ。

 お金持ちの親御さんもたくさん訪れる。


「それで、本当に警告を出したのかよ?」

「ええ、当然よ」


 前もって山吹さんには警告を出しておいた。

 学園祭を平等院朱雀と見て回るのならば、山吹みどりには死が訪れるであろう。

 そういう殺害予告めいた脅迫文を、先日山吹さんの机の中に忍ばせておいたのだ。


「警察に通報されても知らねえぞ」

「あら、山吹さんが警察に連絡するような方だと思って?」

「そうだけどよ」


 渋沢くんはどこか納得いかないように唇を噛んだ。


「じゃあ、行きましょう?」

「ああ」


 私たちは出店を見て回った。

 和菓子と抹茶を堪能していると、視界の端に山吹さんの姿が見えた。

 私の中に緊張が走って思わず爪を噛む。

 人混みの中に紛れている山吹さんは、私の警告を無視して朱雀様と行動を共にしていた。

 つまりそういうことだ。

 山吹さんは警察に通報するのでなく、朱雀様に頼ったのだ。


 私は渋沢くんの制服を引っ張った。


「ねえ、あそこ見て」

「ん?」


 渋沢くんが眉間にしわを寄せて、私の指さした方角を見つめる。


「あ。いるじゃん山吹。しかも平等院と。どうすんの?」

「決まってるでしょ。攻撃するの」

「マジでするのかよ」


 渋沢くんは悲しそうに目を伏せた。


「ええ、もちろんよ。わたくしの行動は常に一貫しているわ」

「わかってるよ。でもさ、こんなことする必要あるのか?」

「それは言わない約束よ。わたくしがやってるのは」

「ただの自己満足」


 私の言葉のつづきを、渋沢くんが引き継いだ。


「わかってるのならいいのよそれで」

「ああ。じゃあ、行こうか」


 渋沢くんが私の手をぎゅうっと握って引っ張り上げた。

 引っ張り上げてから、時が止まったかのように渋沢くんが固まった。ゆっくりと顔を向けて、こちらの様子を心配げに見つめてくる。


「なにお前。震えてんの?」

「悪い?」


 私だって震えくらいする。

 これから取り返しのつかないことをするのだから、心くらい簡単に揺らぐ。

 怖いのだ。率直に言って。


「いいよ。行こう。俺はお前の味方だから」

「……うん」


 私は盆栽川銀子としてではなく、私としてうなずいていた。



  5



 私と渋沢くんは山吹さんたちの後をこっそりとつけた。


 彼女たちは人気のない校舎の裏に行こうとしている。

 馬鹿な私でも彼女たちの意図くらいはわかる。

 罠だ。

 こうして山吹さんが朱雀様と一緒にいるのを見せつけて、警告を突きつけてきた人間に襲いやすい状況をあえてつくっている。だから私はその罠には乗ってあげない。もっと狡猾に、もっと機械的に、淡々と山吹さんの心を擦り減らすのだ。


「こっちにきなさい」


 私は、握り締めていた渋沢くんの手を引っ張って校舎の中へと進入した。

 二階の空き教室に入って、窓から真下にいる山吹さんと朱雀様の姿を確認する。

 二人は警戒してあたりをきょろきょろと見渡し、ときおり何事か会話をしていた。不意に朱雀様が頭を撫でて、不安がる山吹さんを落ち着かせようとする。こくりとうなずく山吹さんに向かって、「大丈夫。僕が君を守るから」とやさしく声をかける。


 私はバケツに水を汲んで、窓から山吹さんに向かってぶちまける。

 ばっしゃーん!


「きゃっ!」

「誰だッ!」


 朱雀様の声を背に受けて、私はすぐに駆け出した。

 廊下に躍り出る。

 足がもつれそうになる。

 第二校舎には人がいないので全速力で走ることができるが、それでも朱雀様の足にはさすがに負ける。すぐに二階へと駆けのぼってきた朱雀様を尻目に、三階、四階と何とか逃げ延びようとするが、五階の中腹あたりであっさりと私は捕まってしまう。


 肩を掴まれて転んだ。

 もんどりを打って朱雀様と重なってしまう。

 朱雀様は私の両肩を強く握って睨みつけてきた。


「盆栽川。どうして水をかけるなんて真似をしたんだ」


 私は目を逸らす。


「答えるんだ盆栽川!」

「痛いですわ。離してください」

「なんであんなひどいことをした。あの脅迫文も君の仕業なんだな?」

「さてどうかしら」

「答えろ!」


 遅れて、びしょ濡れの山吹さんが追いついてきた。

 押さえつけられている私を見つけ、驚愕で目を見開いて呼吸を忘れる。


「盆栽川さん、だったんですか?」


 私は答えない。


「盆栽川さん、私、友達だと思ってたのに……」


 山吹さんが何度も目元をぬぐう。

 ぬぐってもぬぐっても涙が溢れてくる。

 私は鼻で笑って言ってやった。


「わたくしね、貴方のことが気に食わなかったの。率直に申し上げると嫌いでしたわ」

「そんな……」


 嘘だ。

 私は山吹みどりのことを嫌いになれない。


「わたくし、朱雀様をお慕い申し上げておりましたの」


 これは本心だ。

 本音すぎて心が痛い。

 私の想いは、どうしようもなく届かない。


「だから、貴方が朱雀様と仲良くしている姿を見たくなかったの。脅迫文だってそうよ。貴方に対する数々の嫌がらせもそう。全部わたくしの仕業。貴方が朱雀様と一緒にいるからいけないのよ。だからわたくしがちょっと痛い目を見せてあげようと思っただけ」

「それでも、やっていいこととやっていけないことの区別はある」


 朱雀様が静かな声で言った。


「君の僕に対する気持ちは嬉しい。でも僕は、こんなことをする人を決して好きになれない。悪いけど」

「ええ」


 最初からわかっていたことだ。

 最初から決まっていたことだ。


「もう二度と、山吹にひどいことをしないと誓えるか。誓えるのなら、これは僕たちだけの事件として不問にする。山吹もこれでいいかい?」

「う、うん……」


 山吹さんは泣きじゃくりながらうなずいた。


「だそうだ。君の答えを聞かせてもらっていいかい、盆栽川」


 私は観念した。


「わかったわ。もう二度と、山吹さんには嫌がらせをしない」

「じゃああとはもうわかっているね」

「ええ」


 私はその場に立ち上がって、山吹さんに対して頭を下げた。


「ひどいことをして、ごめんなさい」


 じっと靴の先を見つめる。


「う、うん。わかったから顔を上げて、盆栽川さん」


 私は上げない。

 山吹さんはやさしく語りかける。


「私はもう、盆栽川さんを許しました。顔を上げてください」


 私は上げない。

 山吹さんが、私に負けじと頭を下げてくる。


「あの、よかったら、また私と仲良くしてください。仲間割れなんて、私いやです」


 やはり、いい子だと私は思う。

 ひどいことをした相手を許してあげ、それでいて今後のことまで考える度量。

 絶対に絶対に、私なんかでは敵わない。


「ええ」


 私は頭を下げたままつぶやく。


「山吹、風邪ひくよ。保健室に行こう」

「うん……」


 そうして朱雀様が山吹さんの肩を抱いて、階段の下へと歩み去って行った。

 階段で一人きりになったとたん、私はその場に崩れ落ちる。

 足ががくがくと震えている。

 呼吸が乱れる。

 顔を上げて天井の染みを無意識に数えた。


 やがて階段をのぼってくる音が聞こえた。

 その男はそっと私の隣に腰をおろし、「あーあ」とため息を吐いた。


「ほんとお前って損な奴だよなー」

「これでいいのよ」


 私は俯いて、笑いながら言ってやった。

 渋沢くんが私の体を強引に向き直させる。


「こっち見ろよ」


 私はずっとずっと自分の足元を見下ろしつづけた。


「こっち見ろって盆栽川」


 見ない。


「こっち見ろ。本当にこれでよかったのかよ。こっち見やがれ!」


 渋沢くんが私の顎を掴んで無理やり上を向かせた。


「……本当にこれでよかったのか?」

「ええ。これでよかったの」

「じゃあなんで、そんな顔してんだよ……」


 渋沢くんが、淋しそうにつぶやいた。


 私は一体どのような顔をしているのだろう。

 聞くまでもなくわかっている。

 強がって、強がって、強がって、そして、強がりに失敗している顔だ。


 私は顔をくしゃくしゃに歪ませた。

 堪えきれなくなって涙が溢れ出してくる。

 頬を伝う雫がやけに熱い。


「だってわたくし、このルートが一番美しいと思うもの」


「意味わかんねえよ……」


 盆栽川銀子である前に、私は生粋の「恋ヴォル」のファンであった。


「あの二人が結ばれて、これからの苦難を乗り越えていくストーリーが、本当に打ち震えるほど美しいの。胸がきゅんとするし、スカッとするの。本当に本当に美しいの。あの二人にとってこの出来事はまだまだ序章だけど、それでも私は、あの二人の礎になれて何よりも嬉しい。好きな人には、好きな人と幸せになってほしいからさ」

「意味わかんねえ……」

「盆栽川銀子は、悪役に徹する。好きな人のために」


 最初から決めていた。

 後悔も反省もない。

 これでいいのだ。


「だからって、お前……」

「なんであんたがそんな顔してんのよ」


 渋沢くんの顔は、まるで苦痛に耐えているかのように歪んでいた。


「お前と同じだからだろうがッ!」


 渋沢くんが、目を剥いて怒鳴った。


「好きな奴には、好きな奴と幸せになってほしいんだよ! わかれよそんくらい!」


 呼吸が、止まった。

 見開いた目から、とめどなく涙が零れ落ち、頬を伝って顎先まで流れる。


「なんでお前が嫌われてんだよ。好きな奴に嫌われてどうすんだよ。くそ……」

「だ、だって、私がいたずらをすることで山吹さんが朱雀様に相談して、それで……」

「知らねえよ! 山吹なんてどうでもいいだろ! お前の気持ちはどうなんだよ!」

「私は……私は……!」


 あとがつづかなくなる。

 気がついたときには涙声が嗚咽に変わり、胸が張り裂けそうになり、どうしようもなくなって、自分を押さえることができなくなった。


 もう取り返しがつかないということ。


 私は悪役を演じきって、とうとう平等院ルートの突入を確定させた。

 もうこの流れは変えることができない。

 取り返しは、つかない。


 顔を天井に向けたまま私はわんわんと泣いた。

 今日という日が永遠に来なければよかったのにと思う。

 朱雀様の横顔を眺める日々がずっとつづけばいいのに。

 でも太陽は、誰の頭上にも平等に昇るのだ。


 最初からわかっていたこと。

 恋は実らないということ。


 階段や廊下に私の泣き声が反響し、軋んだ心と同調して微かに震えている。


 渋沢くんが呆れたような口調でやさしく言った。


「お前、めちゃくちゃ可愛いんだからさ。自信持てよ」

「でもぉ、だってぇ……」

「でももだってもねえよ」

「ヒロインにはぜったいに勝てないしぃ……」

「ぶつかってもねえのに諦めんなよ」

「山吹さん超可愛いしぃ、私も超好きだしぃ……」

「だだこねんな。鼻水出てる」


 私は渋沢くんの制服で顔をぬぐった。


「汚え!」


 うわああんと声を荒げて号泣する。

 隣の男の子は、何も言わずに私の頭を撫でてくれた。


 私は、あの二人の幸せを誰よりも願っている。



  6



 学園祭はいつの間にか終わっていて、生徒たちが片づけに勤しんでいる。

 泣き疲れた私は渋沢くんの後ろをとぼとぼと歩く。

 夕日が差し込んで街を赤く染めていた。


「なあ、お前んちでウイイレしねえ?」

「うん……」

「チームは?」

「マンチェスター・ユナイテッド」

「じゃあ俺、デルフィーな」

「ドログバ禁止ね」

「マジかよ……」


 校門を抜けて電柱をいくつか通り過ぎたあたりで、渋沢くんがこちらに振り返った。


「でさ」

「うん」

「俺たちのルートはどうなわけ?」

「なにそれ」

「だから、俺たちのルート」


 真顔で渋沢くんが見つめてきた。

 一世一代の真剣な目だった。

 やがて私は、靴と靴を擦り合わせながら言う。


「俺たちのルートは、貴方次第」


 そっか、と渋沢くんがつぶやく。


「そっか。俺次第かぁ」

「だって、モブにルートなんてないもの。未定だわ」

「なんだよそれ」

「教えない」


 私は笑って言ってやった。


「なんだって」

「教えないわ」

「教えろよ」

「教えないったら」

「まあいいや」


 渋沢くんが急にニヤニヤと笑い始める。

 俺次第かぁ、と口の中でごにょごにょとつぶやいている。


「なあ盆栽川」

「なにかしら」

「俺、お前のこと、すっげー好きだよ」


 私は盛大に噎せた。

 背中を曲げて咳き込んで、目の端にじんわりと涙をためる。

 どうしてだか、夕日が目に沁みた。


「いきなりなんなのよ」

「愛の告白だよ」


 二人の並んだ影が、長く長く伸びている。


                              了



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[良い点] キリンのトマト煮込み食するトルクメニスタン [気になる点] >>ダッシュツ・ダイセイコウ やめて、脈絡なく泣けてくるから。 [一言] ギンリョウソウみたいな銀子さん。
[一言] んんん、面白いしいいとは思うんですけど、報われないというか。銀子ちゃんが思いのほか乙女でいじらしかったせいか、ヒロインちゃんに非はないんですけどあんまりいい気持ちはいだけませんでした。 でも…
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