7.桃
視線を仰げば、野原が徐々に、舗装された道に変わっていくのが見える。
バロック平原も北端。
アイラを出発してからずっと歩いてきたエミリとジンは、ようやくだだっ広い平原の終わりを見ていた。
遠方に、人工的な建物が群がっているのが確かに見えた。
そして、アイラで見たものとは比べものにならない程頑強そうな塀と門が、その一帯を取り囲んでいるのも。
次の目的地。
「あれがウォータードーブの町だ」
ジンが言う横で、エミリはそれでも、黙々と歩いた。
ほどなく入口に到着すると、塀が延々と左右にのび、広がっているのが見える。
ベイトリヒテ王国に比肩する、とは言わないが、町という言葉に想像するより遙かに大きい共同体のように見えた。
「ここが、ウォータードーブ……」
「入ればわかるが、アイラに比べると賑やかだぜ」
ジンはなれた様子で門に向かって歩いた。
ここにも屈強そうな門番が数人いたが、ジンとは顔見知りらしい。
エミリはただ付いていくだけでよかった。
「まあ、この町は住人じゃなくても普通に入れるけどな」
「そう」
「王国ほど保守的じゃなくて、門が開いてる時間も長い。だから商人なんかも集まる。結果として、でかい町になる」
ジンは言いながら町に入った。
エミリもついていったが、通りに入ると、思わず、立ち止まる。
眼前に、どれくらいぶりかの騒々しい光景が広がっていた。
石で舗装された街路には、人びとが行き交っている。
道端に商人たちが店を広げて、各々の商売品を広げて売っている。
通り過ぎたり、立ち寄ったりしているのは冒険者らしき人びとだ。
そしてそれ以上に、普通の町人もいるらしい。
がやがやと、騒々しい人の声が絶え間ない。
「……」
エミリは少し、立ちつくした。
「嬢ちゃん、行くぞ」
「……」
エミリは、歩き出した。
ジンを追い越し、早歩きをして。
別に、どこか目的の場所があるわけでも、なかった。
「どうした」
「……何でもない」
本心からのつもりだった。
でも、エミリはこのとき、この賑やかな光景に、自分という存在と断絶したものを覚えたのは確かだった。
なんとなく、少し前まで自分もあの中の一部であったことが、思い出されていた。
エミリとジンは、アイラを立ってからの十日間、ひたすら歩き、モンスターを殺してきた。
反抗というわけじゃないが、いるべきではない空間だという気持ちが生まれて、エミリは見回しながら、進む。
「……どこ」
「何がだ」
「モンスターか、魔王についての情報が得られるとすれば、それはどこ」
ジンは少し黙ってから、並ぶ。
「嬢ちゃん、ついて早々、そんなことを考えなくてもいい。まずは宿だ。それに、数日は滞在した方が――」
「そんなこと、している暇はないの」
こんなところで、明るい人やものに触れる。
なぜだか、必死で守ってきたものが崩れてしまうような気がするのだった。
エミリは、人波を縫って、進む。
そのときに、普通の人間にぶつかる程度でよろけたり、視界が明滅していることには、気付いていなかった。
「おい、嬢ちゃん」
「洞窟があると言った。そこには、モンスターがいるの」
「待てよ」
「……」
「エミリ!」
ジンが名を呼んだので、エミリははっとして立ち止まった。
見ると、ジンがエミリの腕を掴んで止めている。
「嬢ちゃん、目の下に隈ができているぜ。見てわかるほど、初対面の時よりやせてきている。息が浅い。自分がどういう状態かわかっているか」
「……」
エミリは見下ろした。
そんなこと考えたこともなかった、と思った。
モンスターは、弱かった。
歩いた距離も物理的に不可能でない距離だ。
食料は、死なない程度には食べていた。
何を、心配することがある?
けれど、意識すると、エミリは自分が立っているのもやっとだという状態なのだということに気付いた。
「何で……」
「嬢ちゃん。俺たちは、アイラを出発したときから数えても、十日間モンスターの群れの中を歩いてきた。食ったのは、干し肉に、缶詰、野草がせいぜいだ。ベテランならまだしも、初心者がそうそう耐えられる環境じゃない」
「冒険をするなら、それになれなきゃだめでしょ」
「徐々に順応していけばいい。俺にしたって、楽じゃない行程だった」
手を離そうとするエミリに、ジンは言い聞かせるように言う。
「いいか、確かに冒険者は少々の悪い環境には耐えられる。レベルの高い冒険者は、常人以上に耐久力は高い。嬢ちゃんは、レベルは高いだろう。だが、初心者だ。つらくて当たり前だ。それをちゃんと、自覚しろ」
「私は――」
「平原ではあまり言わなかったが」
ジンはエミリの気性を抑えるように言う。
「嬢ちゃん、気を張りすぎだ」
「……」
「何をそんなに急いでる、とは、もうあまり言いたくない。話したくないことが、あるんだろう。でも、ずっと緊張して、気を張って、焦ってちゃ、どんな冒険者でも、つぶれる」
エミリは手を握りしめている。
だって、それが冒険者であるはずだったのだ。
目的に邁進する。
振り返らない。
強くあれ。
でないと、耐えられないと思った。
だが、そんなエミリの行動に、……エミリの体自身が、ついてきていなかった。
睡眠は取っていた。
でも、冒険に出てから――いや、ずっとその前から、眠りは浅かった。
食べ物に満腹を感じるほど食べたことも、ついぞない。
それでも、進むことを欲する。
欲さざるを得なかった。
「でも、私は……行かないと」
「今は無理だよ。言ったろ、ここに来る頃には、宿がまず第一になってるって。そのくらいのことを、してきた」
エミリは、唾を飲んで歩き出そうとした。
だが嚥下すらも、容易でないほど、体は疲弊していた。
こんなところで立ち止まりたくない。
でも、身体は悲鳴を上げていた。
何か情報を集めてから、と思って、やっぱり歩き出そうとした。
だが、自分の状態を意識してしまったせいだろうか。
エミリは、膝をついた。
まぶたが重く、意識が明滅した。
「嬢ちゃん――、やっぱ、無理させたか」
ふらりとしたとき、ジンがエミリの力の抜けた体を抱きかかえた。
眠気、というものを感じたのは一瞬だった。
脱力感に飲まれ、エミリは気絶した。
目覚めたのは室内だった。
造りの良い、広めの部屋で、窓が少しだけ開いて風がそよいでいた。
体を起こすと、窓の外にウォータードーブの町並みが見えて、どうやら、宿に運ばれたらしいとわかった。
エミリがじっとしていると、ジンが入ってきた。
「まだ寝てろよ」
「ジンが運んだの」
「他に誰がいる」
「……余計な、お世話……」
言うが、エミリは声を少しだけ小さく、低くしていた。
「あなたに手間をかけさせた」
「いいさ、こういうことも冒険のサポートのうちだ。体力が戻るまで寝てろよ。睡眠不足に、栄養不足だ。モンスターを狩れる状態じゃない」
「そんなことしている暇は……」
「外に出て暴れるだけが冒険じゃない。……目的は、どうかは知らんが。けど、モンスターを倒したいなら、自分の体の管理は、絶対に必要なことだ。休むことも、冒険のうちってな」
ジンが軽く笑うのを見て、エミリは、うつむく。
少し、歯がみをしていた。
情けない、と思う。
「私は、自分がこんなことになるとは思っていなかった」
「気にするな。今、学習した。初心者にありがちなミスだ。これで死ななかっただけ、まだよく気づけた方だ」
「……。あなたは、私を非難しないのね。怒りもしない」
「してほしいのか?」
「……」
「お前さんは、俺より強い。けれど言っておく。冒険者としては、俺に比べりゃ、まだまだひよっこだ。ぴよぴよ言ってるやつに空を飛べとは言わんし、転んでも怒ったりしない。サポートすると言った以上は、その辺の面倒は見るさ」
「……」
エミリは、それに返す言葉がなかった。
まっすぐ、ただ進んできた。
ジンの言うとおり、やけっぱちでもあった。
でも、やれるという根拠のない自信があった。
けれど、エミリの肉体は、どうしようも無く人間だった。
「だから、今は養生しろ。しっかり休めるかどうかも、冒険者の才能だ。それに、叱ってほしいなら、一つ言いたいことがあるな」
「何」
エミリが言うと、少しだけ、悪戯っぽい顔をジンは浮かべた。
「お前さん、アイラでも、道中でも、俺が出した食いもんをただ機械的に食ってた。自分で持ってきた食料は、ちゃんと選んだとは思えない粗末なもんばかりだったし……そのくせ、量は食べない」
「何が言いたいの」
「食に興味がなさ過ぎだ。食うことをおもしろがらないやつは、早死にする」
「別に……」
そんなことどうでもいい、と言いかけてジンが遮る。
「嬢ちゃんが倒れた原因でもあるんだぜ。もっと食いたいとか、あれが食いたいとか、そういう言葉を聞いたことがない」
「そんな希望はないから」
「そんなわけがあるか。人間、好きな食いもんはある。ちょうど良い、買ってきてやるから、食いたいもんを言えよ」
「そんなもの、ない」
エミリは無表情に言った。
食べ物なんか、どうだっていい。
そんなの、わかりきったことに思えた。
事実、自分にはもう食べ物をおいしいと思えないのだと、思っていた。
ジンは首を振った。
「嬢ちゃんは、疲れてはいるが、体自体は健康体だ。それに若い。食いもんがうまくないなんてことは、ないよ。好きなもの。あるだろ。小さい頃に、好きだったものでもいい。言ってみろ」
少し、穏やかな声だった。
エミリは、答えるつもりはなかった。
でも、冒険に必要と言われれば、頭はそれを考える。
いや、それはおそらく、もっと、本能的なことだ。
「桃」
「え?」
「……」
「何?」
「何でもない」
「いや、今何か言ったろ」
「言ってない」
「何だよ」
「……桃」
「桃? 果物のか。嬢ちゃん、桃好きなのか」
「……別に」
「好きだから言ったんだろ」
「そこまででもない」
「隠すことじゃないだろ。年相応じゃねえか」
「やっぱりいらない」
「すねるなよ。桃だな」
「……」
無表情のエミリに、ジンは苦笑したように答えた。
買ってくる、とジンは出ていった。
桃は、子供の頃に、王室でデザートとして出たことがあって、小さいエミリは、それが好きだった。
甘くて、みずみずしくて、感動したものだった。
そんな感覚を、思い出したいとは思わなかったはずなのに、口をついて出てきたのが、不思議だった。
ほどなく戻ってきたジンは、ご丁寧に、綺麗にカットしてフォークと一緒に皿に載せて持ってきた。
「食えよ。中々新鮮だぜ」
甘い匂いがほのかに漂い、無機質な寝室を彩った。
その瞬間に、エミリは感覚が子供の頃に戻るようで、フォークに手を伸ばしていた。
じゅぷっと噛みつき、口に入れた。
桃の果実は、おいしかった。
甘くて、みずみずしくて、なぜかそれは、温もりのような感動を運んだ。
「どうだい」
「……おいしいわ」
よかった、とジンは言った。
おいしい、と、エミリはうつむいて、繰り返し呟いていた。
こんなこと、感じてはいけないはずなのに。
自分は、もっと他のことをやっていなければいけないのに。
でも、それを噛んで、甘い果汁が口の中に広がるたび、エミリの体は、懐かしい好物に触れて、喜んでいた。
食べ物の味なんて忘れたと思っていたのに、無理をして、倒れて、死にかけて、体が欲しがるものを与えられると、エミリは意思に関係無く、おいしいと感じていた。
それは、人間が人間らしい感情や行動からどうしようも無く逃れられない瞬間で、エミリはそれに少しの罪悪感を感じながらも、食べる手をとめることが出来ないのだった。
ぽた、ぽた、と皿に落ちるしずくは、きっと、桃の甘い果汁だ。
こんな下らないことで、緊張が解けてきて、少しの元気を取り戻すのが、悔しくて、恥ずかしい。
だからそれは、涙じゃないのだ。
「もう少し、寝てろよ」
ジンはそう言って、部屋を出て行った。
エミリは外を見た。
騒々しく、賑やかだった。
雑然としていて、王国の整然とした都市に比べるとごみごみしていたが、その分、人間のエネルギーのようなものを感じた。
町を見てみろ、とジンは言っていた。
何日か滞在する、とも。
エミリは、町を見る、と、小さく独り言をしていた。