名前とは何ぞや?
吾輩は猫である。名前は今はない。主が呼びたいように呼べば良い。
何?タマだと?そんな安直な名で吾輩を呼ぶでない。吾輩をそこいらの猫と一緒にするではない!
何?ミケだと?確かに吾輩は主たち、人間からしたら三毛猫というカテゴリーである。しかし三毛猫だって個性があるのだ!
何?可愛いだと?いったいどこを見て言っているのだね。吾輩のこの凛々しい面構えをみたまえ。吾輩は三毛猫では珍しいオスであるぞ!
って、確かめるではない!はずかしいではないか!主には羞恥心というものがないのかね!
どこの家の猫だと?ふふふ…。吾輩のこの美しい毛並みを見て勘違いしてしまうのはしかたない。吾輩の家はこの公園である。
何故公園に住んでいるかだと?主はデリカシーがないな。
うん?それより何故“今”名前がないのかだと?話題がころころと変わる人間だな。それに主は細かいことを気にするな。この話題は不愉快である。
答えてくれてもいいじゃないだと?けしからん!最近の人間は年上にたいする礼儀がなっておらん!
いいから答えろだと?吾輩は(人間の年齢にすると)百歳を超えているのだぞ。
って、水をかけるでない。びっくりするではないか!
仕方がない答えてやろう。そのかわり心が広い吾輩に感謝をし、神妙に聴くのだぞ?
吾輩に今名前がないこと。公園が家であること。この二つの出来事に対する答えは一つしかない。主たち、人間のエゴが原因だ。勝手に繁殖させ、勝手に閉じ込め、勝手に外に放りだす。だから吾輩はそんな勝手な人間がつけた記号を捨てたのが。名付けたものにも呼ばれない“名”に何の意味がある?誰にも呼ばれない“記号”にどう意味を見出せばよい?
おい…。何憐れんだ目で吾輩をみている。同情か?それこそ人間のエゴである。吾輩は他人が決めた“名”などいらぬ。吾輩を“吾輩である”と定められるのは吾輩だけである。だから“他”に“己”を否定されようと痛くも痒くもない。己の価値は己で見出す。何故他に己の価値を決めてもらうのだ?価値は他に“決めて”もらうのではなく“認めて”もらうのだ。
っと、偉そうにいってはみたが何事もほどほどがよいのだよ。主よ…。たった一人の意見が不特定多数の他人の意見を代表しているのではないのだよ。主を“認めて”くれる他人はきっといる。
しかし、その前に主が“己の価値を見出し”て“他に認めて貰おう”と行動する必要があるがな。
そうだとも。だからそんな悲しい顔をするではない。吾輩でよければいつでも話し相手になってやる。
本当に人間は、なんぎな生き物であるな。




