第9話 「森のざわめき」
昼食を終え、三人は再び森の奥へと歩き始めた。
休んだおかげで足取りは軽い――はずだった。
だが、森の空気はいつの間にか変わり始めている。
「……ちょっと、暗くなってきた?」
アシナが周囲を見回す。
木々はさらに密集し、枝葉が頭上を覆っていた。
先ほどまで光を透かしていた銀の葉は、今は重く垂れ下がり、風もほとんど感じられない。
「ナユカ、地図を」
ナユカは腕の端末を操作し、ジローがその画面をのぞき込む。
簡易マップは自動で位置情報を拾い、表示される――はずだった。
だが画面の中央には、見慣れない赤字が浮かんでいる。
《信号干渉》
「……うそ」
ナユカの声が、わずかに揺れた。
「この森、地層が特殊なんだ。
金属鉱脈が入り組んでるし、古い文明の装置の欠片も埋まってる」
ジローは落ち着いた声で続けたが、眉間には細い皺が寄っている。
「つまり……迷いやすいってこと?」
「最悪、真っ直ぐ歩いてても戻ってくる」
アシナは無意識に唇を噛んだ。
「……ピオラは?」
ジローがパネルを操作すると、ピオラのレンズが静かに点滅し、周囲の地形をスキャンし始める。
細い光が森の奥へ吸い込まれ、数秒後、進行方向が示された。
「ピオラは問題なさそうだ。とりあえず、この方角で行こう」
ナユカは小さく息を吐く。
――そのとき。
「……止まって」
アシナの声は、ほとんど息だった。
ナユカもジローも、反射的に足を止める。
問いかける余裕はない。空気が変わったのが分かった。
草むらの奥で、重いものがゆっくりと揺れた。
風ではない。
獣の体温を帯びた“動き”。
やがて草を押し分けて現れたのは、中型の草食獣だった。
ラナスでは珍しくない種――のはずだ。
だが、その様子は明らかにおかしい。
揺れる頭。
焦点の合わない目。
後ろ脚の一本は逆方向に折れたまま、それでも前へ進もうとしている。
呼吸は浅く早く、喉の奥から押し殺したような音が漏れていた。
ナユカは息を呑み、胸が跳ねる。
ジローは固まったまま、一歩も動けない。
アシナが、ほとんど唇を動かさずに囁いた。
「……ジロー、ピオラを」
ジローは小さく頷き、即座に操作を切り替える。
《光位偏移迷彩》が起動し、視界がゆらりと歪んだ。
三人の輪郭が、森の陰影へ溶け込んでいく。
――動くな。
アシナは声を出さず、視線だけで伝える。
獣は、真正面から三人へ向かって歩いてきた。
近い。
あまりに近い。
荒い呼吸が湿った空気と混じり、頬に触れる。
鼻息が、かすかに肌を押した。
(……見えてる?)
ナユカの心臓が痛いほど打つ。
目を閉じれば逃げられる気がした。
だが、閉じることはできなかった。
獣の視線が、ナユカの右肩の“あたり”をかすめて通る。
こちらを正確に捉えているようにも、
まったく見えていないようにも思えた。
アシナは、頭の奥が痺れる感覚を押さえ込みながら、呼吸を整える。
獣は三人の真正面を通り過ぎ――
そのまま、ふらつきながら森の奥へ消えていった。
足音が完全に消えるまで、三人は一ミリも動かなかった。
⸻
《光位偏移迷彩》を解除し、ようやく三人は息を吐いた。
「……なんで、あんな……」
ナユカは震える手で胸を押さえ、声を整えようとする。
ジローも肩で息をし、言葉が続かない。
「分からない。でも……普通じゃなかった」
アシナの声は、かすれていた。
そこにあったのは恐怖よりも、理解できないものへの警戒だった。
彼女は森の奥を見つめたまま、短く言う。
「……進もう。でも、さっきからの違和感、無視しないで」
三人は静かに頷き、再び歩き出した。
足取りは、もう以前と同じではない。
枝が揺れるたび、葉が落ちるたび、全員の視線がそちらへ向いた。




