第4話 「ゴーシュの夜」
ゴーシュの扉を押すと、温かい光と香りが一気に広がった。
夕食時を少し過ぎ、店内は落ち着いたざわめきに包まれている。
カウンターの奥では、ロウガンが黙々とグラスを拭いていた。
大きく、いかつく、無口。
それなのに、その静かな佇まいには不思議な安心感がある。
店の隅ではカネスが突っ伏し、
その頭の上にリューチがちょこんと乗っていた。
白い毛並みが灯りを柔らかく反射し、尻尾がときどき揺れる。
「仲いいわね、あの二人」
ミリアが小さく笑った。
七人は席につき、軽くグラスを合わせる。
自然と話題は今日の依頼に触れ、
遠くの集落での小さな騒動、
誰かの恋愛の不始末、
そしてアーグラ情勢の噂話へと流れていった。
「最近また揉めてるらしいぞ。アーグレイアとアストラ、衝突寸前だとか」
「まぁ、あそこは昔からだしね」
別の誰かが頷く。
「そういや、ブラン・アルヴィナって教皇、代わったって話だな」
ラネッサはグラスに口をつける。
ミリアも「へぇ、そうなんだ」と軽く相槌を打った。
ナユカは、アーグレイアの話をもう少し聞きたかったが、
気づいたときには話題は別の方向へ移っていた。
「でよ、聞いてくれよ。この前さ――」
笑い声が、テーブルの上に広がる。
そのとき、店の入口側で椅子が倒れる音がした。
「てめぇ、どこ見てんだ!」
酔った男が怒鳴り、別の客が立ち上がる。
肩がぶつかっただけのようだったが、声だけが無駄に大きい。
椅子が蹴られ、床を滑っていく。
その軌道が、カネスの方へ向かった。
「おー……?」
カネスが顔だけ上げる。
椅子は彼の脇に軽く当たり、そのままテーブルの脚にぶつかって止まった。
カネスは一瞬だけ眉を寄せ、
すぐに何事もなかったように、また力を抜く。
リューチはカネスの頭の上で一つ欠伸をし、
何事もなかったかのように、また丸くなった。
男がこちらへ詰め寄りかけた、その瞬間――
「やめとけ」
ロウガンの声が、店に落ちた。
低くもない。
大きくもない。
ただ、揺るぎがない。
その一言だけで、男の足が止まった。
ロウガンは、カウンターから動いてすらいない。
店の空気が、一瞬だけ固まる。
やがて男は舌打ちをし、背を向けて出ていった。
ざわめきが、ゆっくりと戻る。
ロウガンは何事もなかったように、
再びグラスを拭き始めている。
その手元は、最初から一度も乱れていなかった。
――ゴーシュでは、声を荒げた方が負けなのだと、
ナユカはなんとなく理解した。
ナユカは、無意識のうちに肩の力を抜いていた。
誰も剣を抜かず、
誰も声を荒げず、
それでも、ちゃんと収まる。
(……こういう場所が、仕事の帰り道には必要なんだ)
そんなことを、初めて実感した。
「……あぁ、びっくりした」
ミリアが胸に手を当てると、
何人かが笑って場を和ませた。
ナユカも少し遅れて笑い、グラスを持ち上げる。
夜は、そのまま穏やかに続いていった。




