第60話 「本音の王冠」
ラナス領事館の白い廊下を、アシナは静かに歩いていた。
深呼吸をしようとしてもうまくいかない。
胸の奥がひどくざわついている。
(……ミレイユ様に会うのは、八年ぶり……)
幼い頃の記憶はもう霞んでいて、
けれど、金色の髪と柔らかな声だけは鮮やかだった。
ドアの前に立つ。
ノックしようと伸ばした指が、少し震えた。
「……入って」
中から聞こえた声は、驚くほど優しくて、
アシナはその一言で胸の奥がきゅっと締まった。
扉を開けた。
⸻
光が差し込む大きな窓。
その前に、金色の髪がふわりと揺れた。
ミレイユだった。
光の粒が彼女の髪に吸い込まれていくみたいで、
アシナは思わず息を飲んだ。
(……綺麗……)
黒髪の自分とは違う。
その差に、少しだけ胸の奥がざわめいた。
「元気にしてたかしら、アシナ」
「……はい。あの……お久しぶりです」
「八年ぶりね。大きくなったわ」
ミレイユは微笑み、自然な仕草でアシナを座らせた。
そこからの会話は不思議なほど滑らかだった。
日常のこと。
ラナスの生活。
好きな本や食べ物の話。
気づけばアシナは緊張を忘れていて、
ああ、きっとこの人は頭がいいのだ──と分かった。
相手の呼吸に合わせて、話しやすいように導いてくれる。
気づくとこちらが笑ってしまう。
やがて話題は自然とアーグレイアへ移った。
文化。歴史。外交。
そして、アシナがアーグレイアへ戻ればどれほど国が豊かになるか。
ミレイユの言葉は、美しく、論理的で、
胸を高ぶらせるように響いた。
(……この人たちは……ずるい)
アシナは心の中で呟いた。
昨晩のことが胸をよぎる。
⸻
――ラミオは言っていた。
『言うべきではないかもしれない。でも、君が決めたあとで後悔してほしくないんだ』
ミレイユが本来は
第一王子アルセスと、第三王子リオネルと三人で国を支えるはずだったこと。
だが、アシナの存在でその計画を破棄し、
二人は“快く道を開けた”こと。
(……そんな……)
どれだけの重さを背負わせているのだろう、自分は。
そのうえ──
(ここで生きていくなんて……もうできない)
あれだけの被害を出した。
結〈ノット〉を制御しないといけない。
アーグレイアへ行く以外に、道なんてない。
だからこそ、ミレイユが言うことが真っ当すぎて、
アシナは自然にこう言いかけていた。
「──わかりまし──」
その瞬間。
「いや、違うな」
ミレイユの声が切り替わった。
優しさの影がすっと薄れ、
代わりに強い“覚悟”が滲んだ。
彼女は椅子から立ち上がり、アシナの前へ歩くと──
ひざまずいた。
アシナは息を呑んだ。
「今言ったことは全部忘れていい。建前よ」
「……え?」
金色の髪が揺れる。
ミレイユはアシナの目をまっすぐ見つめた。
「私は本音を伝えなければならない」
「“あなたが王になれば国が豊かになる”──あれは違う。
本当の理由は、私のエゴ」
アシナは一瞬だけ呼吸を忘れた。
「私は私の理想を実現したい。
そのためなら……なんだって利用する」
言い切った声は、震えていなかった。
「アシナ。あなたもよ」
アシナの胸が揺れた。
「私は私が理想とする国家を作りたい。
その結果、民が笑って暮らせる──そうありたい。
これは私のわがまま。でも、必ず実現する」
ミレイユは深々と頭を下げた。
「そのためにアシナが必要。
あなたに自由はない。苦労も背負わせる。
けれど──」
顔を上げ、その瞳に“決意”だけを宿した。
「──後悔はさせない。
あなたの人生が終わるとき、
“この決断が私の最高の選択だった”と、
必ず言わせてみせる」
「だからアシナ──」
言葉に力が宿る。
「私に力を貸して」
アシナの喉が熱くなった。
心をぶつけてくれる大人に出会ったのは、
人生で初めてだった。
その重さに耐えるために、
アシナは息を吸い──静かに、短く答えた。
「……はい」
その一言が、
二人の未来を、アーグレイアの未来を動かし始める。
次回、第一章最終話です。




