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第56話 「赤い渦」

 停電した施設の中、非常灯すら点かない廊下を、

 ナユカとアシナは息を切らしながら走っていた。


 古い暗視ゴーグル越しに見る世界は、

 輪郭だけが緑色に浮かんでいる。


 後ろには、まだ足音がある。


 規則正しく、無駄のない、あの歩調。


 結査だ。


「……こっち!」


 ナユカが壁の継ぎ目にある細い点検通路を見つけ、

 アシナの腕を引いて滑り込む。


 点検通路の先は、資材保管庫だった。

 高い天井と鉄骨の影が、闇の中に重なっている。

 壁の上部にある細い窓から、月明かりが淡く差し込んでいた。


 二人が身を押し込んだ瞬間、

 背後の廊下を足音が駆け抜けた。


 すぐ横を、人の気配が通り過ぎていくのがわかる。


 二人は息を止めた。


 静まり返る。


 遠くで、怒号と指示の声が飛び交っている。


「……うまくいった?」


 アシナが囁く。


 ナユカは頷きかけて──ぴたりと動きを止めた。


 背筋を這い上がるような、別種の“気配”。


 足音はしない。

 代わりに、空気そのものが凝っていく感覚。


 アシナも、遅れて同じものを感じ取っていた。


(……見られてる……)


 暗視ゴーグル越しに、倉庫の奥を見る。


 黒い影がひとつ。


 他の結査とは違う、妙に“輪郭のはっきりした”人影が、

 こちらに静かに顔を向けていた。


「……そこですね」


 低い声が、闇を割った。


 ラズヴェルだった。


 暗闇の中でも、彼だけはほとんど迷いなく立っている。


 右目のあたりが微かに光っているのは、

 結〈ノット〉の力なのだろう。


 薄い扉が、ゆっくりと開いた。


 隠れている意味は、もうない。


 ナユカは先に出て、

 アシナをかばうように前へ出た。


「……追いつかれちゃった、か」

 ナユカは暗視ゴーグルを外した。月光だけで十分だった。


 ラズヴェルは二人を見比べると、

 あくまで穏やかな声で言った。


「アシナ様。

 逃走はここまでにしていただけますか」


 その言葉に、アシナの喉がひくりと動く。


 “様”付きで呼ばれる違和感は、

 この数時間でようやく麻痺してきていた。


 それでも、足は自然と後ろに下がってしまう。


 ナユカが一歩、前に出た。


「アシナは……戻らない」


 震えはあったが、声は途切れなかった。


「ここから、連れて帰る」


 ラズヴェルは目を細める。


「……あなた方を排除する必要はありません。

 アシナ様さえ確保できれば、それで十分です」


 それは、事務的な事実確認のように聞こえた。


「ですから、どいてください」


「どかない」


 ナユカは即答した。


 言ってから、自分でも驚いた。


 怖いはずなのに、足は動かなかった。


 ラズヴェルの肩が、わずかに沈む。


「……残念です」


 次の瞬間、ナユカの視界がひっくり返った。


 何が起きたのか理解する前に、

 呼吸が喉で止まる。


 腹の奥に、硬いものがめり込んだ。


 意識が真っ白になる。


 ラズヴェルの膝だった。


「っ……!」


 声も出ないまま、ナユカは膝から崩れ落ちる。


 息が吸えない。

 世界が遠ざかる。


「ナユカ!」


 アシナが悲鳴を上げた。


 ラズヴェルは追撃はしない。

 必要なだけの力で、必要なだけ無力化しただけ。


 彼にとって、それは「過剰防衛」ではない。

 ただの「処理」だった。


 ナユカは床に手を突き、

 何とか上体を起こしながらラズヴェルを睨み上げた。


 だが、足が動かない。


 アシナは、その姿を見ていた。


 脳裏で、イラセアの森で出会った男の姿が蘇る。


 アシナは右手を突き出し、

 ラズヴェルに向かって狙いを定めるように手のひらを向けた。


「それ以上やったら──」


 声は震えていたが、

 はっきりと届く声だった。


 ラズヴェルはその構えを見て、

 静かに結視を開く。


 視界の中で、アシナの周囲の揺らぎが形を取るが、

 攻撃に適した渦の形ではないと、冷静に判断する。


 そして、一歩、前に出た。


「撃てませんよ、その状態では」

「渦の角度が違う。攻撃の形になっていない」


 淡々と告げる。


「結〈ノット〉は──万能ではありません」


 アシナには、細かい理屈はもう分からなかった。

 ただ、この場をどうにかしなければならない──

 その思いだけが、頭を満たしていた。


 その瞬間。


 揺らぎが、跳ねた。


 ラズヴェルの視界の中で、

 アシナの中の渦が、突然とんでもない速度で回り始めた。


 今まで見たこともない速度で。


「……っ!?」


 思わず息を飲む。

 こんな回転、見たことがない。


 さっきまでただ震えていたアシナの中で、

 何かが“閾値”を超えた。


 ラズヴェルの存在に向けて。


(……これは──)


 渦が、回り続ける。


 本来ならありえない速度で。


 そして──

 世界が、赤く染まった。


 アシナの右手からは何も出なかったが、

 代わりに、


 渦の中心から、巨大な“何か”が顔を出す。


 鱗。

 角。

 燃えるような眼。


 赤い竜の頭部が、半ばだけこの世界に“顔を出した”。


 眼の奥の“思考”の気配。

 鱗の熱波が空気を歪める。

 存在だけで、周囲の結〈ノット〉が狂う。


「な──」


 ラズヴェルの声が途切れる。


 本能が告げる。


(まずい──)


「下が──!」


 叫ぶより早く、空気が裂けた。


 轟音が、闇を破る。


 衝撃波が、保管庫の空間を一瞬で薙ぎ払った。


 赤い光が空間をねじ曲げ、

 壁も床も、均等に押し広げる。


 熱と圧力が混ざり合った奔流が、

 全方向へと吹き荒れた。


 アシナの視界は、真っ白になった。


 ドラゴンの眼と目が合った気がした。

 その奥にある、底の見えない何か。


(……あ……)


 何かを言おうとしたが、

 声になる前に意識が千切れた。



 数秒か──数十秒か。


 やがて、あたりは再び静かになった。


 さっきまで資材保管庫だったものは、

 ところどころ壁が崩れ、天井材が落ち、

 煙と粉塵に満ちた半壊の空間に変わっていた。


 ラズヴェルは、崩れかけた柱にもたれかかるようにして倒れていた。


 意識はない。

 だが、まだ息はある。


 倉庫の外には、巻き込まれた結査が数名、動かずに倒れている。


 中心には、アシナがいた。


 うつ伏せに倒れ、

 その背にはピオラが、かすかな光を震わせていた。


 ナユカもまた、すぐそばで動かずに横たわっている。


 誰一人、動く者はいない。


 赤い竜の姿は、もうどこにもなかった。


 ただ、焼け焦げたような匂いと、

 耳の奥に残る低い唸りだけが──


 そこに“何か”がいた証拠のように、

 しばらく消えずに残っていた。

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