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第51話 「暗闇の底で」

 結査部隊が去ったあと、森には不自然なほど深い静けさだけが残った。


 アシナが連れ去られた方向には、もう足音ひとつ残っていない。

 ピオラはまだ動かず、夜気だけが三人を包んでいた。


 ナユカは立つこともできず、膝をついたまま動けなかった。


 怖かった。

 さっきまで目の前にいた兵士たちの気配が、まだ皮膚の奥に残っていた。

 あれに逆らったら、自分たちは一瞬で消えていた──それくらい、本能で分かる圧だった。


 けれど同時に、胸の奥が焼けつくように痛む。


(……アシナ、連れて行かれた……のか)


 声に出せば、現実として固定されてしまいそうで、

 その言葉を喉の奥に押し込んだまま、ナユカは唇を噛んだ。


 ジローも言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。

 怒りでも、恐怖でもなく、

 状況のあまりの速さに、感情が追いついていない顔だった。


 星明かりが冷たく落ちる。


 森のざわめきすら、遠い。


 どれくらいそうしていたのか、ナユカには分からなかった。

 ただ、このまま時間が流れてしまえば、

 “戻れない線”を越えてしまう気がしていた。



 ナユカは、ゆっくりと拳を握った。


 震えている。


 寒さのせいなのか、恐怖なのか、それとも──

 自分が何を選ぼうとしているのかを、身体が先に理解してしまったのか。


 逃げるという選択肢が、一度だけ頭をかすめた。


 森を抜け、街へ戻り、

 「仕方なかった」と言い聞かせて生きる未来。


 けれど──

 その光景を思い浮かべた瞬間、喉の奥が冷たく締まった。


(……そんな未来、もっと怖い)


 アシナのいない帰り道。

 何もできなかった自分を、毎日思い出す人生。


 それは、

 暗闇の底で、ずっと息を止め続けるような未来だった。


 ナユカは、ゆっくりと顔を上げた。


 夜空は変わらず静かで、

 世界は何事もなかったかのように続いている。


「ジロー……助けないと」


 声は小さかった。

 けれど、その言葉を口にした瞬間、

 胸の奥にあった揺れが、すっと一つに収束した。


 ジローは驚いたようにナユカを見て、

 一瞬、何かを言いかけ──そして、息を吸い込んだ。


「……助ける。けど……どうやって……?」



 ナユカは胸元を探り、布の奥に触れた。


 指先が、思ったよりも強く震えていることに気づく。

 それでも、離さなかった。


 旅の途中、アシナにこっそり渡された紙片。

 “何かあったときのために”──

 そう言って、差し出されたもの。


 ずっと使うことがないまま、

 存在だけを覚えていた。


 この紙を使う未来なんて、考えたくなかった。

 けれど今──

 ここで取り出さなければ、きっと一生後悔する。


 ナユカは紙片を見つめ、かすかに息を吐いた。


 ジローが覗き込み、目を見開く。


「これ……アシナが言ってた……」


「うん」


 ナユカは、紙片を強く握りしめた。


 怖い。

 分からない。

 成功する保証なんて、どこにもない。


 それでも。


 ここから先へ進まなければ、

 “何も選ばなかった自分”だけが残る。


 胸の奥で、何かが静かに、しかし確かに軋んだ。

 

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