第32話 「声」
「……おい」
背後から落ちてきたその一言は、感情の欠片もなかった。
三人が振り返ると、木々の影から男が滲むように現れた。
痩せた身体。汚れた服。
そして──異様に濁った目。
さっき見た死体と同じ濁り。
あの男と同じ“折れたような歩き方”。
言葉より先に、“嫌な気配”が全身を刺した。
「……おい」
同じ声がもう一度。
声も目も、普通ではない。
ナユカの心臓が跳ねた。
理由は分からない。ただ、本能が告げていた。
――近づいてはいけない。
アシナがわずかに後ろへ体を引く。
ジローもナユカの肩をそっと引いた。
だが──男は距離を詰めてくる。
ゆっくり、しかし一直線に。
⸻
「……っ!」
一瞬の判断だった。
ナユカは地面の赤土をつかみ、
思いきり前へ投げつけた。
「走れ!!」
土埃が男の顔に散り、濁った眼が一瞬だけ閉じる。
三人は反転し、同時に駆け出した。
枝が頬を叩いても構わない。
息が乱れても、止まれない。
「こっちへ来る……!」
ジローが叫ぶ。
男は速度を調整する様子もなく、
転ぶという概念すらないかのように迫ってくる。
その足取りは不格好なのに、距離だけが詰まっていく。
そして──
「──ッ!」
先頭の男が片手を突き出した。
次の瞬間。
……!!
木の幹が、途中から“無くなっていた”。
折れたんじゃない。切れたんでもない。
そこだけ、存在していなかった。
三分の一、空間ごと丸く切り抜かれている。
触れたはずの空気だけが、不自然に震えていた。
ナユカとジローの足が、反射的に止まりかける。
理解が、追いつかない。
「……えっ、結〈ノット〉……!?」
アシナの声が震えた。
──ただの人間のはずの男が、結〈ノット〉を使った。
それも、あまりに歪な形で。
⸻
「アシナっ! あぶな──!」
ジローが叫んだ瞬間、
男は再び片手を突き出した。
空間が歪み、草地が斜めに抉れる。
だが──精度はあまりに低い。
狙いはブレ、威力も安定しない。
制御のかけらもない暴走。
ナユカの頭の中で、言葉にならない疑問が渦を巻く。
――あの男は、分かって使っているのか?
――それとも、ただ“出てしまっている”だけなのか?
答えを考える余裕はなかった。
三人はただ、
“逃げないと死ぬ”という感覚に突き動かされていた。
⸻
「早くッ!!」
アシナが叫ぶ。
三人は木々の隙間へ跳ね込むように駆けた。
男の足音は重く、不自然で、
それでも確かに追ってくる。
だが──暴走した結〈ノット〉は木々に当たって減衰し、
そのたびに男の動きが、ほんの一瞬だけ鈍る。
その“わずかな隙”が、三人を生かした。
三人は必死で走った。
転び、息を詰まらせ、それでも走った。
やがて、もう足が前に出なくなった頃。
男の足音だけが、
いつの間にか森に溶けていた。
⸻
しばらく、誰も口を開けなかった。
自分たちの荒い呼吸音だけが、耳に残る。
ナユカは膝に手をつき、
今さらのように震えに気づいた。
「……逃げ、切れた……?」
ジローの声は、確認するように弱かった。
アシナは答えず、ただ周囲を警戒する。
誰も、「大丈夫」とは言えなかった。
あの男が何だったのか。
なぜ結〈ノット〉を使えたのか。
分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
――ここは、思っていたよりずっと、危険だ。
三人は無言のまま、再び歩き出した。
さっきまでとは、明らかに違う足取りで。




