第30話 「森の奥へ」
森に入ってから、二日が過ぎた。
初日はまだ、街の喧騒が背中に貼りついていた。
荷の重さも、靴底の感触も、どこか借り物のようだった。
二日目の昼を越えたころ、その気配は完全に消えた。
森は深い。
ただの自然ではない。
人が長く離れたままになっている、“領域”としての静けさがあった。
――
一日目の夕方。
雲の流れが急に速まり、冷たい雨が落ちてきた。
「この木の下なら濡れにくいわ。ここで休みましょう」
アシナが葉の密な大木を見つけ、三人は荷物を寄せ合って雨宿りをした。
雨は長引かず、二十分ほどで止んだ。
濡れた葉が重なり合い、水滴がぽつりぽつりと落ちている。
湿った空気のなかで、森は静かに光っていた。
「……すごい匂い」
ナユカが思わず息を吸う。
「草の匂いが、濃い」
「歩くには悪くないわ。森が“荒れてない”から」
アシナは周囲を観察しながら答えた。
道は踏み固められていない。
けれど、拒まれてもいない。
ただ、受け入れているだけだった。
――
二日目の朝は冷えた。
ナユカが目を覚ますと、白い息が小さくこぼれた。
「こんなに冷えるんだ……」
「森の底気温は下がりやすいのよ」
アシナが寝袋をたたみながら言う。
ジローは焚き火の残りを指で崩し、炭の様子を確かめた。
「早めに歩こう。体が冷える」
三人は軽い朝食をかじり、すぐに歩き始めた。
――
昼過ぎ。
木々が途切れた場所に、小さな水辺が現れた。
鹿に似た白い動物の群れが、静かに集まっている。
水を飲み、草を食み、互いの距離を保ったまま動いていた。
「あ……綺麗」
ナユカが思わず声を落とす。
動物たちは一斉に顔を上げ、
こちらを見た。
だが、逃げなかった。
しばらく様子をうかがったあと、また何事もなかったように草を食み始める。
「警戒はしてるけど、慣れてるな」
ジローが小さくつぶやく。
「このあたりは、人が来ないからでしょうね」
アシナはほんの少しだけ笑った。
「争う理由が、少ない」
やがて動物たちは、音も立てずに森の奥へ消えていった。
そのあと、水辺は静まり返ったままだった。
羽音も、足音も戻らない。
ナユカは理由もなく、肩をすくめた。
――
三日目の朝。
森の匂いが、変わった。
湿った草の匂いに、乾いた金属のようなものが混じっている。
鉄、と呼ぶには弱い。
けれど、確かに異質だった。
気づいたのはアシナだった。
歩みを止めず、眉をわずかに寄せる。
「……この先、少し気をつけて進みましょう」
それだけで十分だった。
ジローもナユカも、何も言わずにうなずく。
ナユカは無意識に、舌の上を確かめた。
水を飲んだわけでもないのに、喉が少しだけ乾く。
ジローも会話をやめ、周囲を見回している。
足音の間隔が、自然と揃った。
森は相変わらず静かだった。
だが、その静けさの“質”が違う。
風はある。
鳥の声もある。
それでも、
何かが一歩、内側へ寄ってきている気がした。
ピオラの地図は、目的地までの距離を淡々と示している。
けれど数字よりも先に、
森そのものが、近づいてきているように感じられた。
三人は互いの間隔を詰め、
慎重に、奥へと歩みを進めていった。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
ただ、
旅の空気が確かに変わり始めた――
その感覚だけが、歩くたびに胸の奥へ沈んでいった。




