第一話「観察対象」
あきらと私は小学校からの幼馴染だった。
物心ついたときから、そばにはあきらがいた。周囲の大人たちからちやほやされるあきらの陰で私はずっと大人たちを観察していた。
いつも笑っていて、誰に対しても無邪気で、少し放っておけないところがあった。その笑顔を向けられるたびに、大人たちは決まって頬を緩め、彼女の言葉一つ、一つを大げさなほどに褒めた。
その輪の外で、私は静かにその様子を眺めていた。観察していた、といった方が正確かもしれない。
表情筋の動き。声の高さ。間の取り方。大人たちの庇護欲を刺激するために最適化された振る舞いをする…。自分の魅せかたがよく分かっていたのだろう、と今は思う。
彼女が一度、まばたきをすれば、視線は集まり、少し首を傾げると、空気が柔らかくなる。あきらは一つの行為をするだけで、周囲の感情を操作できるような、不思議なものを持っていた。
その傍らで、好意が生まれる瞬間。嫉妬が芽生える速度。取り繕った笑顔が崩れるタイミングを。綺麗な人体標本を見るように、私は記憶していった。
中学生になると、あきらの美しさはさらに瑞々しいものとなっていき、誰もが見惚れた。男女問わず、彼女は周りを魅了する。
あきらは相変わらず人の輪の中にいて、私はその少し外側にいる。彼女が誰かに話しかけるときの音色、笑う前にほんの一瞬だけ生まれる間、相手がどう反応するかまで含めて、私は無意識に予測するようになった。そのとおりになると、予測通りに事が運ぶたび、頭の中でパズルのピースが正確な位置にはまる音がする。
ー人間って、単純だな。
そう思いながら、窓際の席であきらを眺めていると、隣の席からノートをめくる音がした。
「また、あきらのこと見てるのか」
顔を上げると、シンがこちらを見ていた。特別明るくもなく、かといって陰に沈むこともない、どこにでもいそうな男子。クラスの中で、私に普通に話しかけてくる数少ない存在だった。
「見てるというか……観察してるだけ」
「難しい言い方だな。普通に『眩しい』でいいじゃん」
そう言って、シンは肩をすくめる。
あきらを見る目が、他の生徒と決定的に違うわけではない。ただ、崇拝でも嫉妬でもなく、評価でも分析でもなく、「同じ教室にいるクラスメイト」として見ているだけの視線。
そのことが、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
「トウカってさ、あきらと正反対だよね」
「……よく言われる」
「でも、別に悪くないと思うよ」
さらりとした声だった。取り繕いも、探る色もない。
私を“あきらの付属物”としてではなく、一人の人間として扱う声音。
一瞬、思考が止まる。
あきらの周囲には、いつも柔らかい空気が流れている。
誰かが冗談を言えば笑いが起こり、誰かが落ち込めば自然と手が差し伸べられる。
その因果関係を、私は外側から冷静になぞっている。
けれど、シンの言葉は因果から外れていた。
計算できない。操作もできない。ただ、そこにあるだけの感情。
私は再び、教室の中心で笑うあきらへと視線を戻す。
生きているものの中で、一番完成された構造体。
大嫌いで、目が離せなくて、世界の重心そのものみたいな存在。
そのすぐ隣で、シンが欠伸をする。
太陽と月の引力圏の外側で、ただ一人、私を「普通の座標」に置く人間がそこにいた。
あきらが笑う。
それだけで空気が動く。
ふと、考えた。
もし、この笑顔が消えたら――…。
「また、変なこと考えてるだろ」
再び、シンに話しかけられる。
「…別に。
ねえ、この世で一番完成されたものって何だと思う?」
シンは少し首を傾げる。
「ごめん、質問の意図がわかんねーわ。
相変わらず、トウカって変な奴だな」
「変?」
「でも、そういうの嫌いじゃない。おもしろいよな」
評価でも同情でもない、ただの感想。
そこには、あきらを見るときに生まれる熱も、歪みもない。
「トウカ!」
あきらの声が、教室の空気を切り裂いた。
いつものように人だかりの中心で、疑いも影もない笑顔で、こちらに手を振っている。
その瞬間、教室中の視線が一斉に流れ込む。
空気が軋み、温度が変わる。無邪気で、疑いのない笑顔。まるで、私がそこにいるのが当然だと言わんばかりに。
シンは小さく息を吐いた。
「やっぱ、あきらは別格だわ」
教室中の視線がいっさいにこちらへ流れてくる。教室の空気がわずかに軋んだのを私は感じ取った。好意ではない。探るような、距離を測るような、そして少しの鬱陶しさを含んだ目で私を見ている。
「トウカも一緒に話そうよ」
あきらの声は柔らかいのに、その周囲の温度は低い。
私は立ち上がることなく、視線を窓の外に向けた。ちょうど灰色の空を横切るように、一羽の鳥が羽ばたいていくのが見えた。
「…翼の付け根の可動域」
呟くように。
「…風を受ける角度。
羽ばたきの周期と上昇に必要な力の分配…」
目を凝らし、鳥の構造を頭の中で描いていく。
「飛翔筋の張り具合…」
心臓はどんな速さで脈打っているのだろう。
空気を含んだ肺は、どんな色をしているのだろう。
――生き物は、こうして“構造”として見れば、とても正直だ。
感情も嘘もなく、ただ機能の集合体として存在している。
それに比べて、教室の中の人間は複雑すぎる。
笑顔の裏に何を隠しているのか、どこからが本心で、どこまでが演技なのか。
解剖図のように開いて、中身を一つずつ並べられたら、どれほど分かりやすいだろう。
「トウカ」
あきらの声が、また私を呼ぶ。
私は鳥から目を離し、ゆっくりと振り向いた。生きているもののなかでも一番美しいものがこちらを見ている。目を細め、艶然とした笑みを浮かべている。彼女の顔は黄金比で構造されている。大嫌いなのに、一番美しくて、いつまでも見てしまう。
学校の帰り道。
私はいつものようにあきらの隣を歩く。遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。うだるような暑さの中、汗でセーラー服が肌にはりついて気持ちが悪い。一刻も早く家に帰って、シャワーを浴びて、冷房のきいた部屋の中で図鑑を読みたい。
私は少し歩くスピードを上げた。後ろから「待ってよ~」と軽い声が飛んでくる。あきらはなぜか、登校と下校はいつも私と一緒だ。
ー他にも友達たくさんいるのに、わざわざ私と一緒にいる必要ないでしょ?
いつだったか、あきらにとう尋ねたことがあった。怪訝そうな顔をした後、あきらはおかしそうに笑った。
「だって、トウカはあたしのものだもの」
その言い方が冗談めいているのに、どこか本気の色を帯びていて、私は返す言葉に少しだけ詰まった。
「”もの”って、人を所有物みたいに言わないでほしい」
そう言うと、あきらは不満そうに唇を尖らせる。
「だって、トウカはいつもあたしの隣にいるでしょ。離れないし、他の子のところにも行かない」
まるで確かめるような視線が向けられて、胸の奥がひくりと鳴った。
暑さのせいだ、と自分に言い聞かせながら、私はまた歩き出す。背中に感じるあきらの気配が、妙に近かった。
「…そうだね」
そう答えたのは、約束のつもりでも、安心させるためでもなかった。
ただの事実確認だった。
あきらは満足そうに笑った。
その笑顔は、夕焼けよりも赤く、毒花よりも甘かった。
「ふふふ、でしょ」
その言葉に、私は否定もしなければ肯定もしない。
太陽と月は、離れているからこそ、互いを必要とする。
重なった瞬間、どちらかが焼け落ちると知りながら。




