98. タマランとベランダの落としもの
「タマランとベランダの落としもの」
目の前には、桜色の吐息をもらす彼女。上気した頬、潤んだ瞳が、薄暗い部屋の中で妖しく俺を誘っている。ふわりと鼻孔をくすぐるのは、彼女のうなじから香る甘いバニラのような、それでいてどこか爽やかな柑橘系の香り。ああ、この香りに包まれて眠りにつけたら、どんなに幸せだろう。細くしなやかな指が、俺のシャツのボタンにそっとかかる。一つ、また一つと外れていくたびに、彼女の体温が伝わってくるようで、俺の心臓は破裂寸前の風船みたいに膨らんでいく。
彼女の艶やかな黒髪が一房、はらりと肩からこぼれ落ち、白い肌とのコントラストが息をのむほど美しい。その髪に指を絡め、そっと引き寄せた。吐息がかかるほどの距離。彼女の唇が微かに開き、小さな、本当に小さな声で俺の名前を呼んだ気がした。俺はゆっくりと顔を近づけ、その潤んだ唇に触れようと――
「ンギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア゛ッッッ!!!!!」
まるで断末魔の叫びのような、破壊的な猫の鳴き声で、俺、橘ケンジ、38歳は夢の桃源郷から現実の荒野へと叩き落とされた。なんだよ、タマラン! いい加減にしろよ、お前! 今日のは特にひどいぞ!
カーテンの隙間から差し込む朝日が、昨夜飲み残した缶チューハイの空き缶に反射して、やけに目に染みる。隣には、当然ながらバニラの香りの彼女はおらず、あるのは俺の加齢臭が染みついたヨレヨレの枕と、よだれの跡が乾いてカピカピになったシーツだけだ。クソ、口の中はネバネバだし、寝癖は芸術的な爆発を見せている。今日も今日とて、理想と現実のギャップに打ちのめされる独身貴族の、冴えない朝が始まる。
さて、我が人生において、ここ最近最大の謎といえば、ベランダに落ちているパンティだ。そう、何を隠そう、女性ものの下着である。鮮やかなスカイブルーに、控えめなレースがあしらわれた、なかなかに趣味の良い一品。…いや、趣味がとかそういう問題じゃない。なぜ、俺のベランダにこんなものが?
発見したのは、もう二ヶ月も前のことになる。ある晴れた日曜の朝、いつものようにベランダで惰眠を貪っていた愛猫タマランを撫でようとした時、室外機の影にそれを見つけたのだ。最初は見間違いかと思った。なんだ、雑巾か? いや、にしては生地が薄すぎるし、形状が明らかに…パンティだ。誰のだよ、これ。
パニックだった。とりあえず、どうすべきか。拾うべきか? いや、待て。俺が拾った瞬間、誰かに見られたら? 「橘さん、何やってるんですか? そんなものをいやらしい手つきで…」なんて誤解されたら社会的に死ぬ。よし、触らぬ神に祟りなし、だ。俺はそっとパンティから目を逸らし、見なかったことにした。
以来、パンティはベランダの隅で雨風にさらされ、当初の鮮やかなスカイブルーはくすんだネズミ色へと変わり果て、控えめだったはずのレースはほつれて哀愁を漂わせている。もはやパンティとしての尊厳は失われ、ただの「謎の布切れX」と化していた。
そして、このパンティ事件と時を同じくして、俺の日常に大きな変化が訪れた。それは、お隣さん、推定30代前半の桜井さんとのことだ。彼女は、すらりとした長身に、つややかな黒髪が印象的な美人で、たまにマンションの廊下ですれ違うと、会釈くらいはする仲だった。いや、「だった」と過去形にすべきだろう。
ここ二ヶ月、桜井さんの俺に対する態度は、まるで手のひらを返したように冷たくなった。以前はにこやかに挨拶を返してくれたのに、今では俺の顔を見るなり、ぷいっと顔を背け、時には鋭い視線で俺を睨めつけてくるのだ。エレベーターで二人きりになろうものなら、彼女は俺から最も遠い隅で壁と同化し、息を殺している。その圧は凄まじく、俺は毎度、針の筵に座らされている気分だった。
(もしかして…俺、あのパンティの犯人だと思われてるんじゃ…?)
疑念は日に日に確信へと変わっていった。そりゃそうだろう。自分のベランダに女性ものの下着が落ちていて、それを放置している男なんて、どう考えても不審者だ。桜井さんからすれば、「隣の男は変態だ。私のパンティを盗んで、ベランダに飾っているに違いない!」とでも思っているのかもしれない。ああ、誤解だ、桜井さん! 俺は潔白なんだ!
弁解の機会を窺いつつも、どう切り出していいか分からず、時間だけが虚しく過ぎていった。そんなある朝のことだ。俺はゴミ袋を片手に、恐る恐るゴミ捨て場へと向かった。最近は桜井さんとの遭遇を避けるため、早朝か深夜にゴミを出すのが常だったが、その日はうっかり寝坊してしまったのだ。
「おはようございま…」
言いかけた俺の言葉を遮り、鋭い声が飛んできた。
「あのっ!いい加減にしてください!」
振り返ると、そこには般若のような形相の桜井さんが立っていた。手にはゴミ袋。どうやら彼女も同じタイミングでゴミ捨てに来たらしい。最悪のタイミングだ。
「え…あの、何のことでしょうか…?」 おどおどと尋ねる俺に、桜井さんはさらに語気を強めた。 「とぼけないでください!ベランダでそんな…!非常識です!」
ベランダ? 非常識? そんな…? 俺の頭は疑問符でいっぱいになった。俺がベランダで何かしただろうか? いや、タマランに餌をやるくらいで、特に変わったことはしていないはずだ。ましてや、彼女に迷惑をかけるようなことなど…。
「さ、桜井さん、何か誤解があるんじゃ…俺はベランダで何も…」 「誤解ですって!? この目でしっかり見たんですから! あれだけ派手にやっておいて、しらばっくれるおつもりですか!?」
派手に? やっておいて? もう何が何だか分からない。俺の弁明は桜井さんの怒りの炎に油を注ぐだけだった。彼女は「もう我慢できません!」と捨て台詞を残し、ゴミ袋を叩きつけるように捨てると、ぷんぷん怒りながらマンションへと戻ってしまった。
俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。 (ダメだ…完全に変態扱いされてる…しかも、何かとんでもない勘違いをされているっぽい…)
このままでは、俺の社会的名誉は地に堕ちたまま。いや、もはやマイナス圏に突入している。こうなったら、最後の手段だ。俺は意を決し、問題のブツを持って桜井さんの部屋へ向かうことにした。
ピンポーン。
緊張で震える指でインターホンを押す。数秒後、ドアが少しだけ開き、桜井さんが警戒心丸出しの目で俺を睨んだ。
「…何か御用ですか。また何か弁解でもしに来たんですか?」 「あ、あの、桜井さん、これ…これのことですよね…?」
俺は、ビニール袋に入れた、例のねずみ色ドロドロになったパンティを、おそるおそる彼女の目の前に差し出した。二ヶ月間の雨風と太陽光、そして土埃にまみれ、もはや原型を留めているのが奇跡とさえ思える代物だ。
桜井さんは、俺が差し出したビニール袋の中身を訝しげに一瞥すると、次の瞬間、顔をしかめて数歩後ずさった。 「な…なんなんですか、それ…!?」 「ですから、これが原因で怒ってらっしゃるんですよね? ずっとうちのベランダに落ちてて…その、どうしたものかと…触るのもアレですし…」
俺の必死の形相と、目の前の汚れた物体を見比べ、桜井さんは数秒間、完全にフリーズしていた。やがて、彼女の口から絞り出された言葉は、俺の予想を遥かに超えるものだった。
「…それ、私のではありませんけど」
「え?」
今度は俺が固まる番だった。 「え…あ、あなた様のパンティでは…ない?」 「ありません。見たこともないデザインですし、そもそもそんな色の下着は持ってません」きっぱりと言い切る桜井さん。
俺と桜井さんの間に、気まずい沈黙が流れる。じゃあ、あのパンティは一体誰のだ? そして、何よりも、
「じゃあ…どうして最近、俺に対して怒っているというか、そんな感じだったんですか…?」 恐る恐る尋ねると、桜井さんは眉間に深いシワを寄せ、再び俺を睨みつけた。
「どうしてって…! あなたがベランダで、あんなことしてるからでしょ!大きな声出して!」 「あんなことって…だから、俺は何も…」 「しらばっくれて! この変態! もう顔も見たくありません!」
バタンッ!!
無情にも閉ざされるドア。俺は、手に持った汚物と化したパンティと共に、廊下に一人取り残された。 (あんなこと…ベランダで…一体、俺が何をしたっていうんだ…!?)
記憶の糸を手繰り寄せる。最近、ベランダで何か変わったこと…何か… …あ。
思い出した。二ヶ月ほど前、三日間の出張があった。その間、愛猫タマランの世話を、近所に住む兄貴に頼んだのだ。 嫌な予感が背筋を走った。まさか…いや、しかし…。俺は急いで自分の部屋に戻り、兄貴に電話をかけた。数コール後、いつものように能天気な、兄ケンイチの声が聞こえてきた。
『おー、ケンジかー!どしたー? 』 「兄貴…ちょっと聞きたいんだけど…二ヶ月くらい前、俺が出張中にタマランの世話頼んだろ?」 『あー、あったなー! タマラン、元気にしてるかー!』 「その時さ…一人で来た?」 『ん? あー、いや? カノジョと一緒に行ったけど。何か?』
カノジョ…だと…? 兄貴がカノジョを、まさか俺の部屋にまで連れ込んでいたとは。
「…もしかして…兄貴たち…俺の部屋のベランダで…その…何かやったのか…?」 声が震える。頼む、否定してくれ。
『は? ベランダで? 別に何もしてねーけど。餌やって、水替えて、ちょっとタマランと遊んでやったくらいだぞ? あ、カノジョがタマラン可愛いって、ベランダで抱っこして写真撮りまくってたな!』
なんだ…よかった…写真を撮ってただけか…。 安堵しかけた俺に、兄貴はとんでもない爆弾を投下した。
『あ、でも天気良くていい気持ちだったから、二人でタオル敷いて、日光浴してたんだよ。素っ裸で。北欧の人がよくやるじゃん?』
「やったんじゃねえだろうな!!!」 思わず叫んでいた。
『え?あはははは! まさかー! …って、え、マジで? なんで知ってんの? うっそだろ! アッハハハハハハ!』
電話の向こうで腹を抱えて大爆笑している兄貴の声が聞こえる。このクソ兄貴…! 人の気も知らないで…!
「うるせええええええ!!!」 俺は一方的に電話を叩き切り、ソファに崩れ落ちた。
つまり、こういうことだ。 兄貴とカノジョが、俺のベランダでイチャコラした。隣の桜井さんは、兄貴たちが俺のベランダでイチャイチャしているのを目撃。さらに、その後、ベランダにパンティが放置されているのを発見。 桜井さんの脳内変換:「隣の男は、彼女を連れ込んでベランダでいかがわしい行為に及び、その上、その証拠であるパンティをこれみよがしに放置している、とんでもない変態ドスケベ野郎だ!」
…ああ、そういうことか。全てのピースが繋がった。そりゃあ怒るわけだ。誤解とはいえ、俺のイメージは最悪を通り越して、もはや犯罪者レベルだ。ちなみに罪名は「公然わいせつ罪」だ。
このままじゃダメだ。絶対に誤解を解かなければ。 俺は、ことの元凶(の片割れ)であるタマランを抱きかかえると、再び桜井さんの部屋のインターホンを押した。
「…何度も何度も、なんなんですか! もう警察呼びますよ!」 ドアの向こうから、先ほどよりもさらに険しい声が聞こえる。
「さ、桜井さん! 落ち着いて聞いてください! あの、これには深い訳がありまして…!」 俺はドア越しに、事の経緯を必死に説明した。兄貴が猫の世話に来たこと、その時に彼女を連れてきたこと、そして、その兄貴と彼女がうちのベランダでイチャコラしたらしいこと。
俺のしどろもどろの説明を、桜井さんは半信半疑といった様子で聞いていた。やがて、俺が話し終えると、ドアがゆっくりと開いた。
「…つまり、あのパンティは、あなたのお兄さんの彼女さんのもので…あなたは、私がベランダの隙間から見た『男女の行為』とは無関係だと…?」 「はい!断じて!俺はあの時、出張中でアリバイもあります!こ、このタマランが証人です!」 俺は抱いていたタマランを桜井さんの前に差し出した。タマランは「にゃ?」と間の抜けた声を出し、桜井さんの顔をじっと見つめている。
桜井さんは、俺の顔とタマランの顔を交互に見比べ、やがて、ふっと息を漏らした。 「…そうだったんですか…」 彼女の表情から、険しさが少しずつ消えていくのが分かった。
「あの…とんでもない勘違いで…失礼な態度をしてしまってすみませんでした」 彼女は深々と頭を下げた。
「いえいえ!こちらこそ、もっと早くご説明すべきでした。あのパンティも…どう処理したものかと悩んで放置してしまって…」 「ふふっ…あのパンティ、どうしましょうかね」 「ですね…とりあえず、兄貴に連絡して、責任持って回収させます」
俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。 さっきまでの険悪な雰囲気が嘘のようだ。 「あの、もしよかったら、お詫びと言っては何ですが…今度、この子が少し遊んでもらっても…?」 俺はタマランをそっと前に押し出した。 桜井さんは一瞬ためらったが、やがて笑みを浮かべ、タマランの頭を優しく撫でた。 「…ふふっ、可愛い猫ちゃんですね」 タマランは気持ちよさそうに喉を鳴らし、桜井さんの手にすり寄っている。現金なやつめ。
こうして、一枚のパンティがきっかけとなった誤解は解け、俺と桜井さんの間には、気まずさを乗り越えた奇妙な連帯感が生まれた。 その後、俺たちはタマランを介して、少しずつ言葉を交わすようになった。 最初はぎこちなかった会話も、次第に自然なものになっていった。
桜井さんは、笑うとえくぼができて、とても可愛らしい人だった。クールな見た目とは裏腹に、おっちょこちょいな一面もあることを知った。俺のくだらない冗談にも、コロコロとよく笑ってくれた。
ある週末、俺たちは二人で近所のカフェに出かけた。 「橘さんって、意外と面白い方なんですね」 コーヒーを飲みながら、桜井さんがくすくす笑う。 「そうですか? 変態だと思われていた頃とは大違いでしょう?」 「も、もう! その話はやめてくださいよ!」 困惑して顔を赤らめる桜井さんが、なんだかとても愛おしく思えた。
ベランダに落ちていた、あのくすんだパンティ。 あれは、俺にとって災厄の象徴なんかじゃなかった。 きっと、桜井さんとの出会いを運んできてくれた、幸運のパンティだったのだ。
ともかく、俺の日常は、あのパンティ事件を境に、確実に彩り豊かになった。 隣の美人さんとの恋の行方は、まだ始まったばかり。 この先にどんなドタバタが待っているのかは分からないけれど、きっと、笑いと胸キュンに満ちた毎日になるに違いない。
だって俺は、日本で一番ツイてる(かもしれない)男、橘ケンジ、38歳。 ベランダのパンティが結んだ縁を、大切に育てていこうと心に誓うのだった。 とりあえず、兄貴にはきっちりパンティを回収させ、ついでに高級焼肉でも奢らせよう。そうしよう。




