第3話 ドラグーンになる
翌日、言われた通りに路地にやってくると、ニーアは路地の壁に寄りかかりながら待っていた。
「本当に来たんですね」
昨日と同じようにボロボロで薄汚れた外套を羽織った姿だ。
「それは勿論。ニーアさんに鍛えてもらいたいですから」
俺が返事をすると、ニーアは欠伸をしながら近づいてくる。目の前まで来ると、ニーアは頭を掻きながら面倒臭そうに言った。
「──それじゃ、いつでもどうぞ」
無防備に見えるニーアから突然そう告げられ、俺は一瞬固まった。だが、チャンスだと思い、ニーアの外套に触れようと手を伸ばす。
触れた、と思ったのは俺の勘違いだった。それこそ爪の先、数ミリのところでヒラリと躱される。
「うわっ!?」
触ろうとする意識が大きすぎたのか、体勢を崩して転んでしまう。擦りむいた膝の痛みに顔を顰めながら、俺はニーアを見上げる。
「一つ言っておきます。条件をつけたとは言っても、私は君に何かを教える気は一切ありません。今日はそれを理解させるために取った時間だと思ってください」
倒れた俺を見下ろすニーアはまるで路傍の石を見るような冷たい眼差しをしていた。
なるほど。彼女はこう言っているのだろう。
──本当に、触れられると思っていたのか?と。
「そう言ってられるのも今の内ですよ? 俺だって、何も考えてないわけじゃないんですから」
ニーアと自分の間に途轍もない実力差があるのはわかっている。だが、これは単なる鬼ごっこだ。彼女に触れればそれで勝ちなのだから、これ以上はないくらい譲歩されていると言える。
なのに、そんな簡単な事すら出来ないようじゃ、ドラグーンになるどころか、ルシウスに勝つ事すら夢のまた夢だ。
「ふっ!」
「おっと」
倒れたままで地面を這うように手を伸ばすが、ニーアは何でもないかの様にそれを避ける。まるで猫のような俊敏さに、俺は思わず奥歯を噛み締める。
「くそ!」
「昨日も言った通り、期限は日没までです。けど、この調子だとそれまでに動けなくなりそうですねー」
口笛を吹きながら余裕綽々のニーアを見て、俺は苛立ちと共に決意を新たにする。
(絶対に触れてやる!)
――――――――――――――
「はあ……はあ……」
どれだけの時間が経ったのだろう。
疲れのせいで喉の奥が張り付いているようだ。積み重なった疲労のせいで手足は小刻みに震え、気を抜いたら倒れ込んでしまいそうだった。
太陽は既に沈み始めていて、日没まではあと30分程度だろうか。
まさかただ触れるだけが、こんなに難しいとは思っていなかった。
疲れ切っている俺に反して、ニーアは未だ涼しい顔のままだ。汗は一滴もかいていないし、昼間に会った時と少しも様子が変わらない。
「早く登ってこないと、日が沈んじゃいますよ?」
最初の路地では比較的近い距離にいたニーアだったが、その距離も今は少しずつ離れ、彼女は建物の屋根に登ったり、大通りに紛れたりと、色んな場所を少しずつ移動しながら俺を翻弄した。
今は広場の鐘楼塔の頂上に登っていて、俺はそれを追いかけるために四苦八苦しながらよじ登っている。
下を見ると思っていた以上の高さで、背筋に冷たい汗が伝う。
ニーアは手も使わずに軽々と跳躍しながら登っていったが、何をしたらあんな運動能力を手に入れることができるのだろう。
「落ちたら怪我じゃすみませんよ? ほら、頑張ってください」
ニーアが心にもない事を言ってくるのを無視して、俺は必死に塔の出っ張りに指を引っ掛ける。
無理に力を入れているせいで、身体中が悲鳴をあげているのがよくわかった。
「はぁはあ……」
辛い。苦しい。痛い。
諦めたくないと思う脳とは裏腹に、身体は正直だった。塔を登る事ができたとしても、これ以上動くことはできそうにないし、そこからニーアに追い縋る程の体力も残ってはいない様に感じる。
でも、だから何だというのだろう?
苦しいから、立ち止まるのか。
痛みを伴うから、戦わないのか。
辛いから、諦めるのか。
違う。違う筈だ。立ち止まり、戦うことをやめて、諦めた先で、自分を納得させる事なんて出来やしない。
──俺はもう夢を諦められない事を知っているんだ。
誰に何を言われても、どれだけ苦しい思いをしても、それでも生きている限り、ドラグーンになる事を夢見てしまう。
身体が従わないなら、無理やり従わせればいい。力が足りないなら、強くなるために出来る事を何でもすればいい。
人の目なんて気にしないで、自分のやりたい事をただ必死にやっていれば、少なくともその間は、俺はドラグーンになる夢を見ていられる。
遠回りしながらやっと気づいた。それが俺の生きる意味なんだ。だから。
──諦めるくらいなら死んだ方がマシだ。
「うおお!」
必死に塔を登り、俺は踊り場にいるニーアに向かって走り出す。
きっとこれが俺に残された最後の余力だ。
限界を超えて伸ばされた手は、確かにニーアの体に触れると思われた。
「残念でした」
「──っ!?」
ニーアは無情にも俺の指をすり抜け、そのまま塔の踊り場から飛び降りる。
「根性は認めますよ。ですが、これで終わりです」
落ちながら遠ざかって行くニーアの姿が、俺の目にはまるでスローモーションのようにゆっくりに見えた。
「──まだだ!」
俺は飛び降りたニーアに触れるために、追いかける様に自分も塔から飛び降りた。
「うぇえっ!? ちょっ!? 本気ですか!?」
足場のない空中で、ニーアが驚いた顔を見せる。初めて見せた焦った様子に、俺は思わず口角が上がる。
ニーアは自分から飛び降りたのだから、当然の様に楽に着地できるのだろう。
けど、俺はこのまま地面に落ちたら、きっと大怪我を負う。もしかしたら死んでしまうかもしれない。
けど、俺はもう自分のことを痛いほどわかっているのだ。
夢を諦めるくらいなら──。
「うぉお!」
必死に伸ばした指先が外套のフードに引っかかり、ニーアの顔が露わになる。
目を見開いた彼女を見て、自分の身体から急速に力が抜けていくのが分かった。
「はあ……本当に、馬鹿ですね」
ニーアの小さなため息がやけに大きく聞こえたと思った。
その刹那、ニーアの額に光り輝く紋章が現れる。
彼女は俺の腕を引っ張り、その胸の中に抱く。
二人して塔から落下していく中で、彼女は空中で器用に体勢を立て直していく。
一瞬にも満たない時間の後、轟音と共に襲いくる衝撃にうめき声をあげる。
石畳を突き破るような衝撃の中でも、自分の体には一つの怪我もなかった。
俺はニーアの胸元から頭を抜け出し、慌てて彼女の顔を見る。
──そんな事がありえるのだろうか。
それは俺が知っている中で最も気高く、最も強い者にだけ与えられるものだ。
いきなり塔から落ちてきた俺たちを見て、広場にいた人々が驚いているのが視界の端に映る。
その中の一人が驚きと共に言葉を発した。
『──なんでドラグーンがこんなところにいるんだ?』
誰にでも一眼でわかるドラグーンの証。
竜と契約した者であることを証明する"竜紋"を眩しく輝かせながら、ニーアは俺を見ていた。
――――――――――――――
既に日は暮れ、辺りは暗くなっている。
逃げるように広場を後にしたニーアの後ろを追いかけながら、俺は自分の中の疑問を投げかける。
「ドラグーン……だったんですね」
「いいえ。"元"ですよ」
例え元だったとしても、俺としては憧れのドラグーンだった人が目の前にいるのだ。緊張で歩き方を忘れてしまいそうだった。
会話が無いまま歩き続けていたが、ふとニーアが立ち止まる。
「──そういえば聞いていませんでした。君はどうしてドラグーンになりたいんですか?」
此方を見ないまま尋ねてくるニーアに、俺は一瞬、なんて答えたらいいか迷った。
だが、自分の中の正直な思いを口にするべきだと感じて、できるだけ丁寧に言葉を紡ぐ。
「昔、故郷の村にいた時にドラグーンに助けてもらった事があるんです。その時の光景がずっと忘れられなくて、寝ている時も自分がドラグーンになって、同じように誰かを救う夢を何度も見るくらい憧れました……」
「そうですか」
「あ、あの。ニーアさんは……元って言いましたよね? なんでドラグーンを辞めてしまったんですか?」
踏み込み過ぎだろうか。けど、どうしても聞かずにはいられなかった。純粋に、謎の多い彼女のことを少しでも知りたくなった。
「そうですね。まあ……疲れたからですかね」
それだけの理由で、と思ったが、遠い目をしながら登り始めている月を見上げるニーアを見て、他にも複雑な事情があるように感じた。
「はは……こんなに凄いニーアさんが疲れるくらいだから、よっぽどなんでしょうね」
笑いながら言った俺の言葉に、ニーアは振り向いてきょとんと目を丸くした。そして一瞬後に柔らかい笑みを浮かべながら口を開く。
「ドラグーンは、君が思っている様な存在ではないかもしれませんよ? ドラグーンになる夢を追いかけるというのは、君にとってはただ辛いだけで、良いことなんて一つも無いかもしれません」
「……」
元ドラグーンが言うのだから、もしかしたらそうなのかもしれない。辛い上に、良いことなんてないし、どうして目指しているのかわからなくなってしまう事もあるかもしれない。
「──それでも、ドラグーンになりたいですか?」
その質問は、まるで何かを確かめる様な響きを持っていた。
簡単に答えてしまっていい問題じゃないのはわかっていたが、気がつけば口を開いていた。
「はい。俺はドラグーンになりたいです」
澱みなく即答した俺を見て、ニーアは目を閉じる。
長い沈黙の後に、彼女はゆっくりと口を開いた。
「死んじゃうかもしれませんよ? そうじゃなくても手足のどれかを失って、普通に生活する事すら出来なくなるかも。もしくは一生動けないくらいの傷を負うかもしれません」
「関係ありません。足が動かなくても、ドラグーンは竜に乗れば移動できますから。手が動かせなくても、口で剣を振ってやります。寝たきりになっても、きっとまた歩き出すために努力します」
「……」
「それに、死んでしまっても、きっと後悔しないです。だって、命を賭けられるほど大事な夢に、俺は出会えたんですから」
そこまで言い切ると、ニーアは大きく俯いた。
「私は君を誤解していました」
「誤解……ですか?」
ニーアは指で数えるような動作をしながら話し始める。
「ええ。技術もなければ体力も足りない。そこまで頭が回る様でもないし、特別な何かを持ってるわけでもない君が、ドラグーンになりたいなんて言うんです。実際に知っている私から見たら呆れを通り越して、無謀だと笑ってしまう様な荒唐無稽な話だと思いました」
言った通りにくすくすと笑うニーアに、俺は思わず顔が熱くなる。
誰に何を言われても気にしないとは言ったが、それが元ドラグーンの言葉だと流石に胸に突き刺さる様だった。
やはりニーアから見ても無謀に見えるのだろうか。
いや、関係ない。それでも俺は──。
「私はこれまで、ドラグーンに憧れる人を沢山見てきました。好き勝手に憧れて、そして諦めていく人たちを。だからでしょうかね。君も他の人と同じだと、決めつけて見ていたのかもしれません」
「それはどういう──」
ニーアは柔らかい微笑みを携え、俺の目をまっすぐ見る。優しそうな茶色の瞳が、笑ったことで糸のように細められる。
「──アレン君。君はきっとドラグーンになります」
ニーアの言葉に、俺は時間が止まったように感じた。
震える唇で、俺は言葉を吐き出す。
「今まで……誰もそんな事言ってくれませんでした……」
「それは昨日までの私の様に、君の事をちゃんと見ていない人たちです。そんな人たちの事を気にする必要はありません」
「何度も……何度も、自分のことを疑いました。俺には才能がないんだって……本当は一生かかっても、無理なんじゃないかって……」
「誰だって自分の事を疑ってしまう事はありますよ。大事なのは目を背けたのか、それとも向き合ってきたのかです」
我慢できず、両目から涙が溢れてくる。
「──お、俺は本当に……ドラグーンになれるんですかっ?」
ニーアは包帯が巻かれた手を俺の頭に乗せ、優しく撫でながら言った。
「はい。必ずなれます。だって君は、翼が無くても空を飛ぼうとした男の子ですから。私が……保証しますよ」
とうに日は沈み、今は月が空を照らす時間だ。
暖かい太陽の日差しは消え、酷使した身体には追い討ちをかける様な冷たい夜風が吹きつける。
だが、ニーアに縋り付いて泣く俺の身体は、湧き上がる熱に浮かされる様に、少しも寒いとは感じなかった。