34:夫婦の和解
「横暴だわ……。なにも粉々にしなくたって……」
シリウスをしがらみから解放するためのもの。テレシアが良かれと思って準備した全てが無に帰す。
「え? 勝手に署名済み婚姻終了届を置いて出て行った君がそれを言う?」
「それは……私の思い込みだと分かったから……ごめんなさい。でも誓約書まで破らなくても………あなたの不利になる条件を破棄したものなのに……いずれは喜んでもらえるはずですよ」
「どうして?」
低く響く声。テレシアはこんな剣呑なシリウスを初めて見る。しかし彼女が知らないだけで、これは会議では彼の標準装備だ。
「後継ができない事を理由に、いずれご両親から離縁を勧められるでしょう。その時は結局私とは別れざるを得なくなります。どうか今度は本当の意味で妻になる方を選んでください」
「……俺と別れたあと、君はどうする気だ? 君の初恋の子爵令息はまだ独身だ。彼と縒りを戻すつもりか?」
「縒りも何もそんな関係では……幼い時の淡い懐かしい、ただの想い出ですよ? 彼は初婚ですしあり得ないです」
「そうかな?」
少なくともあの男は未練があった。望まれたら彼の手を取るのではないか。
「王太子殿下がいい人を紹介してくれるんじゃないですかね」
今の生活は、仕事もやり甲斐があって楽しい。その環境を与えてくれたのはシリウスで、本当に感謝している。彼以外の夫なんて今は考えられない。だからテレシアはどこか他人事である。
「……テレシア……」
シリウスは立ち上がり、彼女の傍らに行くと跪いた。何事かとびっくりしているテレシアの手を取り、彼女の目をしっかりと捉える。
「俺の本当の妻になってください」
意を決したシリウスの声は僅かに震えていた。
「俺は愚かだ。深く考えないで契約結婚なんて持ちかけた。普通に結婚を申し込めば良かったと、どれほど後悔したか……」
「え……」
「利害の一致で結婚したって、後から愛情を育む事が出来るのに……」
シリウスの主君は完全な政略結婚でありながら、妻を大切にして慈しんでいる。そんな夫に他国の姫も心を寄せている。妻とそんな関係を築く事が可能だったのに、誓約書の作成なんて愚を弄したために、それが足枷になってしまった。
「……妻は君がいい」
「…………」
「俺はテレシアが好きだ。君が無効を主張するなら、ありがたく誓約書は破棄させてもらう。未来は二人で話し合いながら紡ぎたい」
「…………」
「……でも君が俺と別れる未来を望むなら、ちゃんと話し合ってから婚姻終了届にサインしたいと思う。ジョーイたちの待遇の話しは必須だ」
テレシアは無言だ。確かに弟妹の事を考えれば短慮な行動だったとの自覚はある。ただ、どうしようもなくシリウスに苛ついたのだ。当て付けのようなものだったのかもしれない。
『あいつは情報を分析して状況判断するのは得意なんだ。その後の対応とか理路整然としているけど、感情が絡む事は不得手だ。そこが側近としても友人としても気になるところだ』
いつかの王太子の言葉。少年時代から共にいる観察力の優れた彼が言うのなら、それがシリウスの人物像なのだろう。
シリウスは真剣にテレシアを守ってくれていたので不満はなかった。どうしたって、彼の実家や親戚の嫌味は完全に防げるものではないのを理解している。格差婚なら当然の扱いだと思う。彼は極力テレシアの側にいたし、悪意に晒されまいと周囲に睨みを利かせていた。
王太子が『嫁が可愛いんだねー』などと揶揄うものだから、それがテレシアはシリウスに溺愛されているとの評価になる。
それなのに、シャウラシーナが現れてからシリウスの脇は甘くなった。
シリウスにしてみれば、望まれて嫁いだのに夫に裏切られた気の毒な女性だし、何より侯爵令嬢だ。声を掛けてくる彼女を無下にはできない。
しかしテレシアにシャウラシーナとの蜜愛のうわさを否定した時、もっと自分の言葉を紡いで説明するべきだった。あれから明らかにテレシアはよそよそしくなったのに、深く考えなかったのはシリウスの落ち度である。
シャウラシーナに自分から近づかなかったのは昔からで、今も対応は同じだ。
過去に彼女とはうわさにならなかったのだから、今も変わらないと思っていたのではないかと自問する。
(いや、俺は既婚者だから馴れ馴れしくしないでくれとお願いしたはずだ)
だが完全な拒絶は出来ないし、親しかった気安さも否めない。それがテレシアをないがしろにしているうわさに繋がるなんて思わなかった。
「……俺が君の信頼を失ったから……君は離婚を決意したんだ。だけどまだ少しでも俺に情が残っているなら……側にいてほしい」
「あなた自身を嫌いになって離婚を突きつけた訳じゃありません」
お似合いだと言われているあの美しいシャウラシーナが、伴侶としてシリウスに寄り添う姿を想像するだけで辛い。だから捨てられる前に捨ててやろうと先走ったのだ。テレシアは自分の心情をようやく理解する。
「あなたの本当の妻になりたいです……。ずっと……それを望んでいました」
きっと。早い段階で惹かれていた。抱いてはいけない感情だと押さえていたけれど。
自信なく俯いていたシリウスは、弾かれたように顔を上げてテレシアを凝視する。彼女は泣き笑いの表情をしていた。
「テレシア!」
感極まって思い切り抱きしめると、彼女はおずおずとシリウスの背中に手を回してきた。
__触れてはいけない。
その条件がなくなったのだ。しばらく二人は互いの体温を確認しあっていた。
「おーい、お二人さん、落ち着いたかなー?」
王太子だ。大声ではないが、隣室に呼びかけるには十分の声量である。重厚な造りだからテレシアとの会話が筒抜けとは考えられない。
いいタイミングだったのは王太子の勘の成せる技だろうか。
執務室に戻ったシリウスの顔付きで、室内にいる者たちは安堵の表情を浮かべた。王太子以外シリウスがぴりぴりしていた理由を知らない。ただ夫婦間で揉め事があったのは分かり、王太子が介入したのも意外だった。およそ私的な事にはほとんど口を出さない方なのに。
「殿下。お時間をいただき、ありがとうございました」
シリウスが気まずさを払拭しようと咳払いした後、姿勢を正して王太子に礼を述べる。慌ててテレシアも頭を下げた。
「あー、今日は君たち、帰りなさい。いいレストランで食事でもして、いい雰囲気にでもなるんだな」
しっしっ、と王太子がまるで犬を追い払うかのような仕草をした。片方の手は卓上の書類を押さえ、目線も手元の書類に置かれたままのぞんざいな所作である。
「ですが!」
〈君たち〉と言うからにはテレシアも含まれる。王太子妃の元へ戻るつもりのテレシアがシリウスより先に口を開いた。しかしすぐに王太子が遮る。
「我が妻は、このところ不安定な君の心配をしていた。今日はしっかり休んで明日からまた妃の力になってくれたまえ」
臣下の夫婦が揃って王太子夫妻に迷惑をかけている。テレシアは居た堪れなくなって素直に「申し訳ありません」と詫びる。
「ご配慮、感謝いたします! 次の予算会議では必ず殿下の願う以上の金額を勝ち取ってやります!」
元気よくそう言い残すと、シリウスはテレシアの手を握ったまま、慌ただしく王太子の執務室を出て行った。
「おお……。楽しみだな。シリウスが久しぶりにねちっこさを全開するのかー」
茶化す王太子に「大臣がまた頭を抱えそうですね」と側近の一人が追随した。