33:離婚は無効?
テレシアは重い足を叱咤して登城した。王太子妃の大規模なお茶会のセッティングの相談会合がある。今回は幅広い年齢層の夫人たちを招待するので、格式にこだわらなくてはならない。
〈王族以外は平民〉なフェル国には形式ばった茶会や夜会などはない。晩餐会などもイクリールのそれと比べれば、随分と和気藹々としていて和やかだった。
貴族社会について勉強はしてきたものの想像以上に面倒だったので、ルーシェは『文化が違う国に嫁ぐって本当に大変よね』と零していた。
努力家のルーシェに報いようと、テレシア含む側仕えは真摯に王太子妃に向き合っている。ルーシェの側にいるのは誇りであった。
自分たち夫婦を信頼してくれていた彼女に申し訳ない気分だが、真っ先に離婚を報告しなければならない。
シリウスと顔を合わせないまま離婚書類を置いてきたのだから、不義理の自覚はある。今日帰宅すれば、シリウスと離婚後の処理の相談をするつもりだが、城で彼と会うかもしれないので気が重い。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
テレシアは侘びながら王太子妃の執務室に入る。ルーシェが侍女長と世話役らと囲んでいる本は城内の食器の目録のようだ。
「いいえ、仕事が忙しい中、ありがとう」とルーシェはテレシアを労う。
「来て早々悪いけど、アンドール様が呼んでいるから彼の執務室に行って」
「……はい?」とテレシアは疑問符で答え、ルーシェの顔を見直すと、彼女は意味ありげに「急いでね」と微笑んだ。
(これは……離婚についてだわ)
それ以外に王太子がテレシア個人を呼ぶ理由が考えられない。
(シリウス様が報告したのね。王太子殿下の元で話し合いとか嫌なんだけど……)
しかしアンドールも無関係ではない。離婚の時は相談に乗ってくれると言ったのだから仕方ないと思いつつ、テレシアはとぼとぼと彼の所に向かう。
「失礼します。おはようございます」
テレシアが王太子の執務室に入ると、部屋の主に「おはよう、待っていたよ」と如才ない笑顔で迎えられた。
彼の側には不機嫌丸出しの顔でシリウスが立っていた。
「今は私から言う言葉はないかな。シリウス、テレシア、応接室で話し合ってこい。これは命令だ」
有無を言わさないアンドールにシリウスは頭を下げた。否はなさそうでさっさと内扉を開けて隣室に向かう。拒否権など無いテレシアは、他の側近たちに会釈しながらシリウスの後を追った。
「座って」
さっさとソファーに腰を下ろしたシリウスはテレシアに対面に座るよう促す。
「はい」
びくびくしながら座るテレシアを見つめるシリウスの顔は厳しい。
「一方的に婚姻終了届を置いていた件について聞きたい」
なんの前置きもなく単刀直入なシリウスの言葉に、テレシアは思わず身を縮こませた。
「……今日の夜、話し合うつもりでした」
シリウスがそのまま婚姻終了届を提出してもいいと荒んでいたテレシアは、それを言えば彼が怒り出すと察して、咄嗟にそう答えた。“今までお世話になりました”的な感謝と礼を記した手紙の内容が、一方的すぎて気に入らなかったのだろうか。
「ギルドに行ったと聞いてすぐに追ったけど、君は支払いであちこちに向かっていて捕まえられそうになかったから、城で待つ事にした」
「……お手数おかけしました」
「手紙に離婚理由は書いていないけど、君に好きな人が出来たからかな?」
「まさか!!」
テレシアは本気で驚いて否定する。それはそちらではないか!の意味を込めて。
「……じゃあ何故だ。生活は円満だったはずだ。好きな者が現れたのなら離婚に応じると決めたよな」
目を伏せたテレシアは一呼吸置いてから目を開いた。
「あなたが言い出せなかったんじゃないですか? 初恋のクルハ侯爵令嬢と結ばれるには私が邪魔でしょう?」
「……初恋の……。相手が彼女だと知っていたのか」
「あちこちで聞かされましたからね」
嫌味っぽい響きになってしまった。
「離婚した彼女とあなたが仲睦まじくしていると聞きましたよ。嘘をついてクルハ侯爵邸で一晩過ごしておいて、言い訳は出来ませんよね」
「誤解だ!!」
シリウスは王太子夫妻の意見も含めて弁明する。真剣な顔で昨日の出来事の言い訳する彼をテレシアは胡乱な目で見つめる。どこまで信用出来るのか。
「……あなたの心はシャウラシーナ様に無いのですか?」
「もちろんだ。所詮初恋は初恋だ。彼女が綺麗な思い出のままにさせてくれなかったがな」
シリウスは自嘲する。
「既婚者の俺に近づいて、誤解されるようなうわさを流されて、その悪意に気が付かない愚かな自分にも腹が立つ」
「悪意、ではないと思います。あざとさ? 立ち回りの上手さ? じゃないかしら。シャウラシーナ様の優れた面でもあります」
「……君は、あれを利点だと評価するのか?」
「勝手に周りが動いてくれるのですから、それは彼女の才能でしょう。タイプは違うけど王太子殿下に通ずるところがありますね」
「……人たらしか」
ポツリと零したシリウスの言葉に同意はしなかったが否定もしない。しかしそれは肯定の意である。
「シャウラシーナ様に勝手に理想の女性像を押し付けておいて、綺麗な思い出のままでいてほしかったなんて、シリウス様の傲慢です」
まさかそんな非難をされるとは思わなかったシリウスは目を丸くした。
「……俺が悪いのか?」
「王太子殿下は彼女の本質を把握していたから、シャウラシーナ様の上辺に惹かれるあなたを、冷めた目で見ていたはずです」
思い当たる節が多すぎる。なんせ“初恋と心中しろ”なんて暴言を吐かれたくらいだ。
「俺が視野が狭かったのは認める。彼女が好きだった。だが今の彼女は、俺と君との仲を壊す存在でしかない」
テレシアは驚いてシリウスの目を見つめる。そのまっすぐな視線に狼狽そうになるがここが正念場だ。クルハ侯爵令嬢をどう思っているか、はっきり言葉にしなければテレシアを引き止められない。だから彼女の目をしっかりと見返す。
「俺がクルハ侯爵令嬢を何とも思っていないと納得してくれたか?」
「シャウラシーナ様は、今でもあなたの特別はご自分だと信じているように思えますが」
「……俺が当たり障りなく接したのが悪かった。よく考えないでも、既婚者の男にに近づくなんて、淑女のする事じゃない。下手したら遊び相手を探していると受け止められるのに」
実際は過去のクルハ侯爵令嬢のイメージが良かったおかげで、彼女はそんな目で見られなかったが。
離婚後の彼女について、アンドールに言われた『おまえ、粉をかけられているぞ』の意味が、理解できていなかった自分が不甲斐ない。
憧れの女性が本気で結婚相手に望んでいたのは、王族かそれに次ぐ公爵家だと知っていたシリウスは、帰国した彼女にとって、結婚している自分がその対象だとは考え付かなかったのだ。
シリウスを狙うのは不貞をすると同義で、テレシアを排除して後妻に収まっても、それは醜聞である。
『これからの身の振り方は、どこかの後妻くらいしかないわね』
いつだったが彼女がそう愚痴を零したが、同意するのも失礼かと曖昧に笑ったのを、近くにいた連中が誤解したと先程王太子妃殿下から聞いた。
『あれは自分が独身なら彼女を娶れるのにと後悔した顔だった』などと、事実無根の話が一人歩きしていた事に驚いた。
出戻りした彼女が初婚の高位貴族に嫁げる可能性は低い。だから身分が低かろうが少々歳が離れていようが、裕福な家に嫁ぐ方が生活水準を下げなくて済むだろうなんて、下世話すぎて言わなかっただけである。
クルハ侯爵令嬢がシリウスとの関係を否定し続ければ、周りが騒ぐ事はなかった。それをしなかった彼女への不信感が芽生えている。
「俺がクルハ侯爵令嬢を選ぶ事は絶対にない。これで離婚理由は無くなったな?」
シリウスはテレシアにシワになった書類を突きつける。握りしめていた跡がしっかり残っているそれらは、テレシアが置いてきたもの一式だ。
テレシアが反応に困っていると、シリウスは婚姻終了届と誓約書を重ねて、彼女に見せつけるようにビリビリと豪快に破いた。
「あっ!!」
テレシアは思わず手を伸ばす。
古巣の探偵社で保管してもらっていた誓約書だ。それに関して“契約内容を破棄する”と、所長の署名付きの正式な書類である。それが紙屑になるのをテレシアは唖然と眺めた。
「無効だ。全部」
細かくちぎった紙がテーブルの上に落ちる様を満足気に見ていたシリウスは、改めてテレシアに視線を移すとキッパリ言い放った。