31:夫の失態
「……とうとう嫁に愛想を尽かされたか」
婚姻終了届を眺めながら、王太子がゆるゆると首を横に振った。
「これが貴族の婚姻終了届出書か。初めて見たな」
王族には無関係の書類だ。まず目にする機会などない。
「どうでもいい事言わないでください」とシリウスが苛立つ。
「これはなんですの!?」
ルーシェが誓約書を読んでシリウスに詰め寄った。ルーシェは二人が契約結婚と知らないのだった。
王太子は困ったように「……ああ、説明する。いいな? シリウス」と当事者に了承を求める。元々そのつもりだったシリウスは頷いて同意した。
__結婚する気のないシリウスが、王太子の無茶振りに応じる形で結婚した事。テレシアは弟妹たちのために“契約婚”を受け入れた事。夫婦関係はない事。ルーシェは赤裸々な話を呆れ顔で聞いた。
「……テレシアに悪い事をしたわ。同じ頃に妊娠すればいいわね、なんて……知らないとは言え、無神経な事を言ってしまったわ」
道理でテレシアは曖昧に微笑んだだけで話を逸らしたわけだ。
テレシアもさぞ返事に困っただろう。ルーシェは話してくれなかった夫を睨む。妻の静かな怒りにアンドールは居心地悪そうだ。
「でも、どうするの? わたくしはテレシアを付き添い人から外したくないわ」
「私にとってもシリウスは大事な補佐官で、解任したくない」
「顔を合わす機会が多いのは仕方ないわ。気まずくても二人には割り切ってもらいましょう」
「ちょっと待ってください! 俺は離婚を考えていません!!」
アンドールとルーシェが納得して話を進めるのを、置いてけぼりのシリウスは待ったをかける。
「……え? 自分有利な誓約を反故にしてでも、テレシアは離婚したいって意思表示しているじゃない。離婚は免れないんじゃないかしら」
ルーシェは気の毒そうに青白い顔のシリウスを見上げた。
「……どうしてテレシアが離婚をしたいのか分らなくて……。妃殿下、テレシアは、……好きな男ができたのでしょうか」
“どちらかに好きな相手ができれば離婚する”約束だ。
上手く夫婦としてやっていたと思う。社交の場でもテレシアを気遣って悪意から守ってきたつもりだ。金銭的にも弟妹の教育にも不満はないと感謝していたテレシアが離婚する気になった動機は、“好きな男がいるから”が一番納得する。
「あなた、テレシアが浮気をしていると?」
ルーシェの声は怒気を含んでいた。
「彼女の不貞を疑ってはいません。それに雇用している妻なので、誰かに心を奪われたとしても浮気ではありません」
言いながらシリウスは落ち込んでいく。円満に別れられるとテレシアは考えているのだと思うとやりきれない。シリウスが引き止める事も出来ない。
「それはおまえにも当てはまるだろ」
ルイシェの横からアンドールの鋭い声が入る。シリウスは「え?」と訝しげに眉をひそめた。
「クルハ侯爵令嬢に未練があると勘繰られる行動はやめろと言ったよな」
「もちろんです。個人的な接触はありません」
「それをちゃんとテレシアに釈明したか?」
「クルハ侯爵令嬢とのうわさは、きっぱりと否定しています」
「それを聞いたテレシアは何と?」
ルーシェが身を乗り出す。
「彼女は『はい』と言いました」
「それだけ? それで、彼女は納得した顔をしていたのかしら」
……顔? どんな顔をして?
……見ていない。テレシアはベッドで背中を向けて……。
返事は……平坦な声だった。
「誤解のままの可能性があるのね?」
ルーシェの言葉に血の気が引く。
(あれからなんとなく気まずいままで……。もしかして、ずっと信じてもらえていなかったのか?)
「おまえが一方的に喋って“はい”の返事を聞いて終わらせたんだろ」
「……あ」
「聞かれなきゃ話さない。おまえの悪い癖だよ。彼女がどんなうわさを聞いて、どんなふうに感じたか。それを確認しないからこんな事になった可能性が高いぞ」
「さすがに気になったから、聞かれる前に完全否定したのです!」
「あのね、シリウス。多分あなたが耳にしているうわさより、テレシアが聞いているうわさの方が悪意があるわ。シャウラシーナ嬢を慕う女性陣が離婚を促すくらいはしそうよ」
「まさか! 彼女が取り巻きを使うだなんて……」
「だからな、何も指図なんかしないんだよ。クルハ侯爵令嬢は。昔、おまえが彼女の近くにいたから、“もしや当時は恋人だったのでは”と淑女たちが勘ぐった。それをクルハ公爵令嬢が否定しないだけで“事実”認定されたんだ」
言い聞かせるような呆れた口調のアンドールの後をルーシェが引き取る。
「シャウラシーナ嬢はシリウスと仲が良かった過去を語って、今のあなたに近づいている。だから彼女の子飼いたちが忖度して“本来の結婚相手”のあなたと一緒になれるようテレシアに圧力をかけているのよ。それをテレシアに言えば笑っていたわ。『あの程度の嫌味、大した事ありません』って。悪意には慣れているって、彼女」
「それなのにどうして……」
父を亡くして没落した令嬢が女だてらに男爵代理なんかやってと、随分貴族界で風当たりが強かったらしい。身分的に接点はなかったから、たまたま同じ社交場にいても互いに存在を知らなかった。
テレシアが若い令嬢や婦人たちの悪口雑言に心が折れたのではないのなら、益々どうして離婚になるのか分からない。
「朝起きたらこれが置いてあって、テレシアがその後捕まらないから、わたくしのところで待ち伏せしたいってわけ?」
ルーシェは歯に衣着せない。
「昨夜はどうだったんだよ。テレシアの態度はおかしくなかったのか?」
アンドールの言葉にシリウスは虚を突かれて、ぽかんとした。そして眉を下げ、「……昨日は帰っていません」と、言葉を絞り出す。
「はあっ!? おまえ、どこへ行ってたんだよ!」とアンドールが非難した。ルーシェは不審げに首を傾げる。
「……帰ろうとしたら、ナーンクラゲン伯爵家の次男に呼び止められて『銀食器の新規取引を持ちかけてきた外国の商社の副社長が帰国するから、すまないけど相談に乗って欲しい』と粘られまして、半ば強引に馬車に乗せられて。あ、テレシアへの言付けはしています」
「どうして貴方が相談役なの?」
脈略のない話にルーシェは不思議な顔をした。
「ああ、こいつの銀山で採れる銀の多くが、ナーンクラゲン伯爵のところの領地に売られているんだ。あそこは銀加工が盛んだから。だがあそこの次男、そんなに商売に絡んでいたか? ふわふわと遊んでいる感じだが」
「初めて商談を任されたと言っていました。親父に商才を試されていると泣きつかれましてね。俺も専門外だし力にはなれないと伝えたんですが、話だけでもと言われたら……友人だし、押し切られた形です」
「それでナーンクラゲン伯爵家に泊まったのか?」とアンドールは呆れている。
何かに思い至ったシリウスの顔が青くなった。
「……それが、着いたのはクルハ公爵家の離邸でした……」
「はあっ!?」
王太子夫妻の声が見事に被った。
スパーンと小気味の良い音が響く。
「ど・こ・が、誤解されない行動をしている、だ!!」
「不可抗力ですよ! 普通はナーンクラゲン邸に行くと思うでしょうが!」
アンドールに叩かれた頭頂部を撫でながらシリウスは弁明する。
「屋敷に入ったんだろ! 馬鹿が!」
「ナーンクラゲン伯爵邸もクルハ侯爵邸も知っていますよ!? でも裏にあるサロン用の離邸なんて存在すら知りませんでした! 当然ナーンクラゲン伯爵邸の離れだと疑いもせずに入りましたよ!」
「……で、どんな会合でしたの?」
ルーシェの声が冷たい。
「会合……ですかね。若者向け商品の開拓という事で友人知人、成人したてくらいの知らない令嬢たちもいまして、外国商社の取扱品の品評会のようでした」
苦々しい顔でシリウスは思い返す。