20:シリウスの初恋
「なあ、シリウス……」
アンドールの執務室でたまたま二人になった時、彼が困惑気味に、言い辛そうな顔で声をかけてきたので、シリウスは姿勢を正す。
(何か業務で問題があったのか?)
珍しい王太子の態度に「どうされましたか」と尋ねた。
「いや、その、おまえに伝えた方がいいかなと……」
随分歯切れの悪いアンドールにシリウスは眉をひそめる。
「なにをです? こちらが不安になる切り出しはやめて下さい」
「そうだな。……シャウラシーナ嬢が離婚して帰国した」
「え?」
シリウスはアンドールのいきなりの言葉が咄嗟に理解できなかった。
「おまえの大事な初恋の君が、独身になって帰ってきたんだよ!」
アンドールは声を荒げる。シャウラシーナは自分たちより二歳年上のクルハ侯爵家の娘で、金色の髪と紺色の瞳の、優美で淑やかな女性だ。アンドールたちの世代の高嶺の花で、シリウスに限らず彼女に惹かれていた男は多かった。
身分も教養も高く、静かな佇まいで従順な見た目の彼女は、幼少時よりアンドールの婚約者筆頭候補だった。しかし国王が『王太子の配偶者は他国より迎える』と公言したため、もう娘が十七歳になっていたクルハ家は慌てて嫁ぎ先を探す。
シャウラシーナ自身も、シリウスのような王族の側近や、政治家の息子などと園遊会やレセプションで積極的に関わっていくようになった。
『彼女ほど優しくて思慮深い女性はいない。どうして外国の王女を選んだんだ? まさか幼女好きじゃないだろうな』
学生時代に真顔でシリウスに言われた時は、腹が立ったからデコピンをしてやった。アンドールは軍事同盟に付随する縁談だと親切丁寧に説明したが、『それでいいのか? クルハ侯爵令嬢を手放して』と更に的外れな心配をされて頭が痛くなった。
『私がシャウラシーナ嬢に惚れているみたいに言うのはやめろ!』
どうやらシリウスはアンドールが彼女に好意を抱いているくせに、国のために泣く泣く諦めたと思っていたらしく、意外そうに目を丸くしていた。
『いや、なんでだよ! 私が令嬢を特別扱いした事ないだろ!』
思わずシリウスに突っ込んだ。
『……彼女ほど国母に相応しい女性はいないのに』とシリウスがぼそり。
『私が選ぶ女性が国母だ。相応しいかは私が決める。おまえこそ好意がダダ漏れだぞ。クルハ侯爵令嬢が好きなら口説けばいい』
『!!』
絶句するシリウスを、アンドールは冷めた目で見た。
『気が付かないほど私は節穴じゃないぞ』
彼女が側近の妻になるのなら別にそれでいい。クルハ侯爵家が王太子派だと示すだけだ。アンドールがシャウラシーナに抱く感情はその程度である。
結局彼女は隣国ボメタイン王国のテグネロン公爵家の嫡男に嫁いだ。隣国に独身の王族がいない中、それに次ぐ身分の男で、二国間の政略的にも良縁である。
しかしアンドールは私的な心情で彼女を素直に祝福できなかった。
シャウラシーナが結婚相手にと、王太子側近のシリウスと天秤にかけて選んだのが、貴族学園に留学していた隣国の次期公爵であったからだ。隣国の公爵令息マシムが婚約者もいないと知り、何かの祝賀会だったかマシムに媚び始めたシャウラシーナはすぐに彼を射止める。
それまではシリウスを標的にしていたのがあからさまで、シャウラシーナは社交の場でシリウスに寄り添い、他の令嬢を牽制していた。シリウスが抱く彼女への憧憬が、恋慕に変わるのも無理はない距離感だった。
全く! あんな計算塗れの振る舞いで心奪われた初心な友人を、不甲斐なく思っていたのは今も内緒である。彼女がシリウスを選ばなかったのに安堵した一方、それが不服でもあった。
(シリウスがあんなお坊ちゃんに劣るだと!?)
彼女の相手はどちらかと言えば学園時代から愚昧な部類だし、容姿も平凡だった。アンドールの身内贔屓目抜きに、マシムがシリウスに勝るのは身分だけである。しかしシャウラシーナにとっては、公爵夫人の肩書の方が魅力だっただけで、アンドールも自分の考えが理不尽だと分かっていた。だから表面上は笑顔で婚姻を祝福する。それにしても、マシムはシャウラシーナにベタ惚れだったので、まさか彼らが離婚するとは思わなかった。
「夫が愛人を孕ませてしまったから、子なしの彼女は離縁されたようだ。……憧れの女性が傷心で帰国している。おまえがどこかで彼女の話を聞く前に、正しい情報を教えておきたかっただけさ」
「……どうも?」
ご親切に、かどうかも分からなくてシリウスは曖昧な返事をした。
「恋心が燻っていても今のおまえは妻帯者だ。安易に近づくな。シャウラシーナ嬢とどうにかなりたいなら、きちんとテレシア夫人と別れてからにしろ。醜聞は許さないからな!」
今更である。テレシアと別れる気はない。何故アンドールに釘を刺されているのか。シリウスは「はあ」と生返事をしたのだった。
だが、アンドールはこの件に於いて目の前の男をあまり信用していない。弱ったシャウラシーナを支えてやりたいと、暴走しても不思議に思わない。
理想の女性像が彼女なのだ。恐らく今も。シャウラシーナ以外なら相手は誰でも構わないから、契約結婚などとシリウスは馬鹿な真似をしでかしたのだ。
(シャウラシーナ様が離婚してこの国にいる……)
シリウスは王太子に好き放題言われてモヤモヤが募り、客観的に自分の心を整理していた。
「どうかしましたか?」
遅めの夕食をテレシアと摂っていたが、手が止まっていたらしく、怪訝な表情で彼女が聞いてきた。
「ああ、ちょっと考え事をしていた」
「お仕事が大変なんですね。落ち着くまで、ギルドの方は顔出ししなくて大丈夫ですよ」
テレシアはこのようにいつも先回りして気を遣ってくれる。
「いや、違う。……ただの考え事だ」
王太子が言うには、シャウラシーナは近々社交界に復帰するらしい。今後テレシアが彼女と出会う場面もあるだろう。初恋の令嬢の話をしておくべきだろうか。しかしシャウラシーナは恋人ではなかったし、改まってテレシアにする話でもない気がする。
テレシアの初恋話だって会話の流れの中で、懐かしい思い出を披露してくれただけだ。
(いつも優雅で上品な、貴族令嬢のお手本のような方だったな。今は二十六歳になるのか……?)
凛とした美しい姿を鮮明に思い出す。あんな完璧な女性を基準にするからいけなかったのだ。
都合よく結婚してくれたテレシアの所作は伯爵家とすれば合格だ。しかし小さい時から、侯爵令嬢として教育されていたシャウラシーナとは比べ物にならない。
二人を比較するのはおかしい。まず出自の出発点から違うのだ。
テレシアは気が抜けて、だらけている事もある。付け焼き刃のマナーだから仕方ない。そんなだらしない彼女の姿をシリウスは不快に思わないから、妻に完璧淑女を求めてはいない。
シャウラシーナは、あくまで憧れだったのだ。シリウスは自分の感情をそう結論づけた。
この時、世間話にかこつけてでも、シャウラシーナの話をしておくべきだったと、後日シリウスは後悔する事になる。