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「…ふわ…寒いはずだ」
俺は部屋の窓を開けて呟いた。冷え切った冬の夜空から、ちらちらと白いものが舞っている。気づく前から降り始めていたらしく、朝倉家の庭は既に薄白い雪に覆われ、淡い光を帯びていた。
「ふうっ…」
ぶるっと身震いを一つして窓を閉めかけ、手を止めた。
初めて周一郎と出会った時のことを思い出した。
確かあの時も冬で、深い黒の瞳、サングラスで隠した向こうに孤独を湛えて、周一郎はこの屋敷に『一人』だった。周りに人がいなかったわけじゃない。一応家族と名のつく人間はいたし、高野も居た。だが、それら人間達の狭間で、周一郎はなお、一人だった。ルトは人々の仮面の裏を覗き込んで行く。にこやかに笑う唇の裏に光る鋭い牙も、優しく差し伸べられる手の先の見えない爪も。幾度となく傷つくうちに周一郎は心を閉ざし、淋しさを押し殺して自分を守る術を身につけた。頑なに、それこそ、人の好意さえ信じられないまま、己の覗き込んだ闇に身を竦め、震え続ける…。
けれど、その周一郎が傷を負い、ほとんど気を失いながらも転がり込んできたのは、赤の他人の、何の助けにもならない俺の部屋だったのだ。
「……」
ゆっくり息を吐く。白い吐息が温もりを失いながら立ち上る。
芝居だった、と言い切った。俺の同情を買う為の術策だったのだ、と。
だが、それから周一郎は、何度も俺を振り返った。決して駆け寄っては来ない、けれど誰より切なそうに、人恋しそうに俺を振り返るその眼が、いつも投げてくる問い掛けを、俺は無意識に感じ取っていた。
自分はここに居ていいのか? 自分は、生きていて……いいのか?
「……バカな奴だよな」
思わず呟く。
本当に馬鹿な奴だよ、お前は。人一人の命、生きていていいのか悪いのかなんて、本当は他の誰も決められやしないのに。お前が居るってことは……一つの『事実』でしかない。お前はこの世に生まれてきた、ただ、それだけの。
その事実に良いも悪いもありはしないだろ?
心の中の周一郎は、俺の答えに小首を傾げて、俺を見つめている。どこか甘えるような、そのくせ、もう一言を待っているような、そんなじれったそうな表情で。やがて、俺からそれ以上の答えが得られないと知ると、きゅ、と唇を噛み、ゆっくり背を向け……そして二度と振り返らなかった。
「……」
風が吹く。朝倉家の、林や湖をも含む広大な庭から俺の窓へ、白い粉雪を絡ませた風が吹き込んでくる。俺の耳元で何かを囁き、それを聞こうとした直前、悲鳴じみた声を上げて慌てて疾り去っていく。
そうだ、周一郎はもう俺を振り返らない。
だからこそ俺は、この屋敷を出ていく決心をしたのだし、自分の道をうろたえながら探り始めたのだ。
淋しくないと言えば嘘になる。見切られた感がないわけでもない。朝倉家のドタバタに関しても、周一郎が俺を振り返らない、それこそ枕がわりにも、というのも、所詮俺じゃ役に立たない、そんなところだろうといじけないとは言わない。人に散々心配させて走り回らせて、いざ別れると言う時にえらく冷たいじゃないかと思わないわけでもない。鐘や太鼓で見送れとは言わないが、せめてにっこり、「滝さん、ありがとうございました」の一言ぐらいあっても、良さそーなもんじゃないかとは思う、思うがそれも、結局は何のこたない己の独りよがり、一人芝居に鮮やかな幕切れを望む、道化師野郎の愚痴戯言と、言ってしまえば、それで済む。
結局のところ、俺と言う人間は周一郎にとって何だったんだ、とシリアスに考えてみたりもしたが、俺の『やーらかい』脳細胞がそれほどハードな思考に耐えられるわけもなく、2時間ほど考えて放り出してしまった。
(…ま…いいか)
その想いは唐突に沸いた。
(今に始まったことじゃないし)
例えば、周一郎が最後まで心を開かなくても、俺はやっぱり周一郎の側に居ただろう。最後の最後までけなし文句しか聞かされず、今日こそは放っておこう、明日こそは構うのは止そう、そう思いながらも、俺はやっぱり『ここ』に居ただろう。それがどう言う理由からなんだと尋ねられれば、俺としてはこう答えるしかない、「放っとけなかったんだ」。
何ができると思ったわけじゃない。何か助けてやれると思ったわけでもない。心の支えの、親代わりの、兄代わりの親友の、そんなこんなの役割付けをぽっかりと忘れ切ったような、妙に広々とした空間に一言、それがあっただけだ。
放っておけなかった。
その後の理由づけなら山ほどある。痛々しかった。見ていられなかった。子ども(ガキ)のくせして、どうして『そんなこと』に傷ついて怯えてなきゃならないんだ、そう思った。そんなこた、もうちっと世慣れしてしたたかな人間に任せときゃいいんだ。俺は知ってるんだぞ、お前が『そんなこと』に出くわす度にどれほど傷ついてるのか。平気な振りをして、自分も処世術を駆使する度に、どれほど辛い想いをしているのか。わかってるんだから……もう、見えてるんだから…………隠すなよ、傷ついてるって言ってしまえよ。辛かったんだと泣いてしまえよ。眠りたいんだと甘えてこいよ。助けが欲しいと手を伸ばしてこいよ。わかってるのか? でなきゃ、お前、『死んじまうぞ』。
(ああ…そうなのか)
ふと俺は悟った。
俺が周一郎を放っておけなかったのは、ただたまらなかっただけなのだ。
俺は孤児として育ったが、周りにはいつも誰かが居てくれた。それは、園長であり、悪友であり、僚友であり、恩師であり、近所の誰か……たまには腹の立つ奴もいたが…であり、通りすがりの見知らぬ誰かだった。いつもいつも貧乏くじを引いて、そんな生き方しか出来ないのだと思いながら、どこかでそれを憎みきれなかったのは、心の隅でいつも感じていたからだ、俺の側には、無数の人間が居る、と。こんな阿呆な俺の側を、通り過ぎて行きゃあいいものを、それでも一瞬か数舜、立ち止まっていく奴が居る、と。
その想いは、いつも俺の心の中に豊かに広がっていて、俺の気づかないような深い深い意識の底で確信となっていて………だから俺は、たった1人で部屋の中に居ても、人の温もりを忘れはしなかったし、自分がこの世に独りぼっちだなどとも思わなかった。
そうして暮らしてきた俺の二十数年間が、いきなり周一郎と出くわして、たまらなくなったのだ。周一郎が十数年ぽっちで、この世の中というものに絶望していって、独りぼっちだと思いながら、次第に自分を殺していってしまうのが。
たまらなかった。
だから、放っとけなかった。
ただ、それだけのことだ。
だからお由宇、英、俺が『どちら』に居るのか、なんて今更聞くなよ。
(そうだ。ただ、それだけのことだ)
俺は夜気を吸い込んで目を閉じた。
いいじゃないか。周一郎が一人で歩いて行けるようになったってのも、そういう意味じゃ、喜ばしいことなんだし。俺は俺で、また、新しい一歩という奴を探しに行けばいい。