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俺が例の書斎から『脱出』したのは、次の日の昼過ぎのことだった。何せ、周一郎の言いつけを律儀に守って大人しくしていたのはいいが、いつの間にかぐっすり眠り込み誰も起こしてくれなかったということが重なり、おまけに掃除に来る岩淵が遅れた、と言う条件まで加わった。必然的に俺は、今日の午後会うことになっている納屋教授との約束を果たす為、取るものも取り敢えず全力疾走、おかげで何とか時間ぎりぎりに納屋教授の部屋に飛び込むことが出来た。
「やぁ、滝君!」
「こっ…こんっ…こんにちっ…」
「挨拶はいい挨拶は。それより、おめでとう! 卒業、大丈夫そうだね」
「はっ…どうっ……どうっ…どう…」
「はっはっはっ……まあ、掛けたまえ、少し落ち着いて話そう」
「じゃ…先生」
納屋教授の陰になっていた人物が声を掛け、俺はようやく部屋に俺と納屋教授以外の人間が居たのに気づいた。
「ああ、浜津君、それを確かに中西君に渡してくれたまえ」
納屋教授は明るく応じた。
「その『虚偽』はいい作品だ。中西君もこれで本格作家としての地固めだな、と私が喜んでいたと伝えてくれ」
「はい」
静かに頭を下げる男を、俺は知っていた。4年の浜津良次と言う目立たない男で、いつもひっそり、人の背中にいるような奴だ。その浜津をなぜ知っていたのかと言うと、例の『心のままに』K大季刊誌に載った俺の作品を読んで、真っ先に俺に会いに来た奴が浜津で、それからちょこちょこ話すようになった。俺はいつも通り、にこりと、俺にしては精一杯親しみを込めた笑みを送ったが、浜津は珍しくそれを無視した。すうっと影がどこかに吸い込まれるように姿を消す。強張った表情が妙に気になって、納屋教授に問い掛けた。
「先生……中西って、あの中西、俊、ですか?」
「ああ……浜津君もいいものを書くんだがね……中西君ほどの押しの強さがあれば、と思うよ。惜しい人材だ」
「……」
中西俊。流行りの学生作家で、3年ぐらいから地方紙や少し有名な同人誌に作品を載せている。この中西と浜津が意外なことに小学校からの親友で、中西の奔放な、どちらかと言うと気ままで勝手な性格を知っている者にとっては、K大七不思議の一つになっている。
「今回の『虚偽』は一風変わっているが、まあ中西の新境地というところで、また面白いだろう。……ところで、浅田君には会ったかね?」
「あ…はい」
慌てて納屋教授を振り向く。浜津の顔に差した翳りがどうにも気になったのだが、生憎、俺の方にも難問が山積みになっている。
「どうだね、何と言っていた?」
「あ…その、取り敢えず、大学を出たら、書いてみないか、と」
「取り敢えず、か。浅田君らしいね」
納屋教授は穏やかに笑った。が、すぐに生真面目な表情になって、
「多木路のことについては何と言った?」
「…会いたいと言っているとだけ、聞きました」
思わず知らず、俺も真面目な口調になっていた。
「会って詫びを言いたいと言っていると」
「会って…詫び……か」
納屋教授は、物思いに沈み込むように呟いた。
「浅田君も複雑な気持ちだろうね」
「え?」
「調書を見なかったのかね?」
かつての教え子であったという浅田のことを思い遣るように、
「通称で、浅田国彰という名前を使っているが、本名は多木路国彰、君の義弟に当たるんだよ」
「え…」
頭の中を、銀縁眼鏡の浅田の姿が過っていく。
「浅田君の場合は、君と逆だ」
浅田が俺を探す伝に通したせいで、事情通になった教授が続ける。
「2歳の時、多木路家の前に捨てられていた。ちょうど君が行方不明になって1年後のことだ。君を失って沈んでいた多木路夫妻は、浅田君を君と思って育てることにした……君を探す一方でね」
『一方ならぬ世話になった人だ。出来るなら、望みを叶えてあげたい』
浅田の声が、納屋教授の声と重なる。ためらいを含んだ声音、ついに言わなかった『会え』の一言、崩れ落ちていく煙草の灰……。
(そうか…)
心の中で、何かがゆっくりと流れ出して行く。
(そうだったのか)
なぜ『会え』と言わなかったのか。なぜ浅田の名前で近づいたのか。
「どうするね、滝君」
「会います」
はっきり応じた。
「会って、言いたいことがあるんです」
その後は。
俺は一礼して、納屋教授の部屋から出て行った。