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「え…?」
婦人は、信じられないと言った表情で俺を見た。
「何と…言ったんだね、朗」
紳士も、まさかこんな答えが返ってくるとは思ってもいなかったのだろう。愕然とした顔で、手にしていたコーヒーカップをソーサーに戻した。
2人は2月中にも俺を連れて帰るつもりだった。家には既に俺の部屋が用意され、主人を待つだけになっているとの話だった。が、俺は再び親不孝を重ねた。ゆっくり息を吸い、もう一度、繰り返す。
「だから、俺は、帰りません」
「朗…」
「親ってのは、たとえどうなっても親、なんでしょうね。だけど、家族ってのは違う……いや、違うような気がするんです。一緒に暮らしてこそ、家族、なんだ。………だから、俺があなた達に言えるのは、産んでくれて感謝している、それだけです」
息を継ぐ。涙に瞳を潤ませた婦人を見ないように目を閉じた視界に、浅田の姿があった。
「……俺は、今まで十分満足して生きて来れた。その基盤を作ってくれたのは、あなた方だ。この社会で生きていく切符をくれた……それだけで、俺は十分あなた方を愛せるし、許せるし、感謝できる……けれど、俺にそれ以上は出来ないんです」
「………。恨んでいるのだろう、朗」
紳士は苦しげに続けた。
「私達は、余りにも、探し出すのに時間を…取り過ぎた」
「いや、違います!」
俺は慌てて目を開けた。婦人の頬を伝う涙が胸に痛かった。
「違うんです」
婦人は、セーターを編み続けていたのだ、と話してくれた。俺のいなくなった日から毎年、1回も欠かすことなく、俺の年恰好を想像して、今はこうなっただろう、もうそろそろこんな色が好きになっているのではないかと心を込めて、ただ俺と巡り逢う日のためだけに、20数枚のセーターが編み上がっているのだと。
恨んではいない、恨めるわけがない、それでも人は別れを選ぶ時がある。
「言ったでしょう、俺は、十分満足して生きて来れた、と。俺は今の自分が好きです。阿呆でドジでおっちょこちょい、できた人間から見れば取るに足らない奴かも知れないが、それでも俺は、今の俺以上にはなれない。そう言う俺を……他ならぬ俺を、この世に送り出してくれたのはあなた方だ、懐かしく思いこそすれ、きっと恨めないでしょう……それでも、俺は、滝志郎、なんです。多木路朗、じゃない」
俺は立ち上がった。これ以上側に居ると、だらしなくも、せめて形見のセーターをと泣き出すか、婦人の綺麗な目に負けて立てなくなる気がした。頭を下げる、深々と。自分がここに居る、その意味に感謝を込めて。下げたまま、俺は言った。
「残酷なことかも知れない、けれど、多木路朗はここにはいません。俺は滝志郎です」
顔を上げる。食い入るように見る4つの眼を見返す。
やがて、紳士が重い溜息を吐いた。
「行きたまえ…滝…君」
「あなた!」
「……良きにつけ、悪しきにつけ……時間は経ってしまったんだ……。考えてみれば、私達は、朗…いや、滝君のことを新たに知ろうとはしなかった……たとえば、あの朝倉さんが、お前を知らないと言い続けた理由……も、な。……滝君を私達が得ることで、彼はたった一人の家族を失う……そう言う意味だね、滝君?」
「はい」
俺は少しのためらいもなく頷いていた。
多木路家へ行くつもりは始めからなかった。時は流れてしまったのだから。隔てられていた時間を埋めるには、俺は余りにも大人になってしまっていた。浅田のことも気になっていた。俺が行くことで、浅田は両親を失う羽目になる可能性の方が大きかった。
そして、周一郎。
不思議なことに、多木路夫妻のことを考えていて、家族、と呟いた時に思い出したのは、なぜかあいつのことだけだった。意地っ張りな、きつい眼の、鋭い皮肉と薄笑いの……。家族ならば弟ということになるのかな、と思うのも違和感がなかった。
「あな…た…」
泣き崩れる婦人と対照的に、紳士は強いて笑って俺を見上げた。
「大きくなったものだ……いつも、何と呼ばれて…いるんだね?」
「志郎、とか、滝、とかです」
「じゃあ、私達に志郎、と呼ぶのを許してくれないか」
「……どうぞ、多木路さん」
ことさら意識して呼びかけたことばに、紳士は一瞬辛そうに眉をひそめ、それでも笑って言った。
「じゃあ、これからもよろしく……志郎…君」




