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『ペリカンロード』に、浅田は既に来ていた。
窓際の、光をいっぱい浴びた席に灰色のスーツ、銀縁眼鏡という出で立ちで座り、俺を認めると立ち上がって手を差し出し、にっこり笑って言った。
「浅田です。滝、志郎さん、ですね?」
「あ…はぁ…」
「今日はどうも。まあ、お掛け下さい」
「はぁ…」
腰を下ろす俺の意向を確かめてホット二つを注文し、ウェイトレスが運んでくるのを待っていたように一言、
「…ったく、なっちゃあいませんね」
「は?」
「なっちゃあいないンですよ、お宅の文は」
俺は自分の耳が悪くなったのかと、相手の顔をまじまじと見つめた。割とどこにでもいそうなサラリーマン風の男で、にこにこ微笑した顔には悪意の一つも見つけられない。けれども、その穏やかに微笑んだ口が言ったことばは、笑顔が想像させたものとは全く違っていた。
「これ、読ませて頂きました」
浅田は、テーブルに置いた薄茶色の紙袋を、ポンと軽く左手で叩いた。その手をゆっくり前に持って来て、コーヒーカップを囲むように両手の指を組み、続ける。
「K大季刊誌『心のままにー文学部気まぐれ特集ー』125頁……滝志郎、『猫たちの時間』」
きらっと銀縁眼鏡を光らせて、俺を見つめる。
「これ、創作、ですか?」
「っ」
一瞬どきりとして、身動き出来なかった。
K大季刊誌は、物好きな『文学をおちょくる会』が発行しており、周囲の思惑考えなしの無謀横暴編集とユニークな特集がマニア受けしている発行物だ。今の所、学内でしか手に入らないはずで、その今回の特集が『文学部気まぐれ特集』と題する作品集、今年の卒業生の手になる試験の解答から恋文、日記から雑文までを、本人の承諾後回しで集めたという代物だ。俺はたまたま納屋教授から、一度形だけでもいい、何か小説を提出するようにという求めに従って、周一郎と関わった例の一件を、ちょいとアレンジさせてもらってフィクションとして提出したのだが(大体、誰があんな話を本気に取るだろう)、それがどういう手違いからか、『文学をおちょくる会』の手に渡り、慌てたときは後の祭り、気がつけばしっかり構内に配布され渡った後だった。
「実は、K大に後輩がいましてね」
浅田は俺のうろたえ方を面白そうに眺めながら、ことばを続けた。
「編集者志望なンですよ。で、そいつが、面白いものを見せてやるって、これ、くれましてね。で、お宅の作品を読ませて頂いた感想が、ご挨拶、というわけです」
「はあ」
「つくづく、見られたもンじゃない、そう思いませんか?」
「……」
俺は再度、浅田のにこにこ顔を見つめた。そりゃあ、見られたもン、ではないとは思う。思うが…何だ? このくそ寒い中呼び出して、こいつはそういうことを言って、人を落ち込ませに来たのか? こっちはただでさえ、周一郎が冷たいのにいじけてるってのに。
「あの…」
「はい?」
「帰らせてもらいます」
「どうぞ。けどね、文は書きゃあいいンです」
立ち上がりかけた俺を引き止めもせずに、浅田は独り言のように言った。まだ話が続いているのかと思って振り返る俺に、にやりと初めてにこにこ笑いが不敵さを帯びる。
「その眼、ですよ」
「…」
「僕がなぜ、お宅に会いに来たと思うンです? お宅の書いた作品を読むだけで満足せずに、なぜ、わざわざこっちに来たと思うンです? 答えは簡単だ。惚れたンですよ、お宅に。いや、お宅のその視点に、と言うべきかな」
「…は…?」
「まぁ、お座ンなさいよ」
浅田は再びにこにこ笑いに戻った。自分の前の席を勧める。
「せっかく会ったンだ。じっくり話して、この浅田国彰って人間を見てくのも、悪くないと思いますがね?」
ことばは丁寧だったが、それは、あの手紙の断定的な語り口と同じだった。どこか丸みを帯びた、そのくせ、読み手にその気にさせていく強さを含んだ……。俺は再び椅子に腰を下ろした。浅田はにこっ、とどこか子どもじみた笑みを泛べ直し、コーヒーを一口含んだ。
「ま……これが創作かどうかってのは、置いときましょう」
「…」
「僕が言いたいのは、お宅は金になるってことだ」
俺はもぞもぞと身動きした。瞬間、頭の中に、バニー・ガール姿の自分が浮かび、ぞっとする。慌てて飲み下したコーヒーが喉を焼き、俺は目を白黒させた。
「人はなぜ本を読むと思います?」
浅田は俺の様子に構わず問いかけた。答えられないのを当然のように、さっさと自答する。
「真実を知るためですよ。もちろん、万人に通じる真実なンてのはない。『己の真実』を見つけるためですよ。が、己の真実、そう、おいそれと見つかる代物じゃない。借り物の真実でも見つけたいっわけだ。だから、お宅みたいに、己の真実を掴んでる人間、これはそれだけで、この上もない魅力になる」
にっ、と、浅田はまたもやにこにこ笑いを切り替えた。
「だから、お宅は金になる。僕の言いたかったのは、それだけなンです」
「…あの」
「はい」
「その……話はよくわかったんですが……」
俺は頭の中で飛び回る疑問符と跳ね回る感嘆符を、何とか大人しくさせようとしながら尋ねた。
「で…俺に何をしろって…」
「簡単なことですよ。幸い、今期はこのまま卒業出来そうなンでしょ。で、その後はウチのところ来て、物書き、やりませンか?」
「物…書き、ですか」
「そ、物書き、ですよ」
浅田は近くのたい焼き売りのバイトをしてくれ、と言うように軽い調子で頷いた……。
「…と言うわけだ」
俺は話を締めくくった。
「ふ…うん…」
周一郎は食い入るように話を聞いていたが、終わってもまだ俺を凝視していた。
「それで」
「それでって?」
「滝さんは……行くんですか?」
「そうだな…行くのも悪くはないと思ってる」
ためらったが、一気に言った。身動きもせずに周一郎が聞いている。その瞳がゆっくりと伏せられる。ふいに、周一郎の体から力が抜け落ちたようだった。肩を落としてしょんぼりしてしまった相手に不安になり、声をかける。
「周一郎?」
「もう…一つの……方は?」
「え?」
俺は低い呟きにぎくりとした。
もう一つの方って……こいつ、知ってるのか?!
「あ…」
俺の反応に、周一郎は自分が何を呟いたのか悟ったようだった。はっとこちらを見つめた目が怯えたように翳り、次の瞬間意地っ張りなきつい眼に戻る。
「………」
「へ?」
その場で無言で周一郎はカーディガンを脱ぎ出した。きょとんとする俺の手に押し付けて、背中を向ける。
「周一郎?」
「…寒くなんか、ありませんから」
固い声が返ってくる、さっさと身を翻して部屋を出て行く、その次にはバタン、と珍しく荒々しい音を立ててドアが閉まった。
「あー…」
思わず溜息交じりの声が出る。頭の中に周一郎の問いが繰り返す。
『もう…一つの……方は?』
もう一つの方。
「…そうか……あいつ…知ってたのか…」
返されたカーディガンを手に、周一郎のきつい視線を重ねて呟く。気づいてもよかったのだ、浅田のことを知っていたなら、朝倉家の情報網を持ってすれば、浅田が来たもう一つの用事を探り出すのも容易だったはずだ。
「まずったかなあ…」
カーディガンをソファに放り投げ、ベッドに大の字になる。
実は、浅田とのやり取りはもう少し続いていた。俺としては、何とか慣れない嘘でごまかしたつもりだったのだが、案の定、周一郎の鋭い勘は、あっさり見破ってしまったらしい。
俺は溜息をついて、もう一度、昼間のことを思い返し始めていた。




