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ふっと虚ろな表情が、タオルの下半分の顔に広がった。高まっていた緊張がみるみる体から抜けていく。それは周一郎の心の裡からも何かが零れ出し崩れ落ちていっているような危機感さえ感じさせた。
「…知ってる」
「っ?! …あつっ…」
だが、その脱力感は俺の返答に一転、驚愕を伴って限界まで駆け上がる緊張感になった。はっと短く息を吐いて跳ね起き、傷の痛みに顔を歪め、それでも体を捻るようにベッドに片手をついて半身起こしたまま、周一郎は俺を見つめた。濡れた髪が額に乱れている。瞳が困惑を一杯にたたえて揺れている。
「知って…?」
「…ああ。…ほら、そんな中途半端な姿勢をとるんじゃない。傷が開くだろ」
俺は、相手の反応があまり激しかったことに奇妙な照れを感じながら、そっと押しやってベッドに横たわらせた。落ちたタオルを絞り直し、額に乗せようとする。大人しくされるがままになっていた周一郎は、無意識のように顔を背けてタオルで視界を遮られるのを拒否し、どうしようかとタオルを持ったまま突っ立っている俺を、なおも凝視した。
「どう…して…」
苛立たしそうな声が唇から溢れる。
「僕だとわかってて……なのに…どうしているんです…?! 僕は殺されない! あなたが居てくれる理由なんかない!」
切なげな、そのくせ八つ当たりするような激しい口調で食ってかかる。頬にみるみる紅が滲み、耳元まで朱に染めていく。ぷいと背けた顔、それでも羞恥で真っ赤になった頬を隠せないと知って、きり…と周一郎は唇を噛んだ。
「それ…だよ」
俺はタオルを洗面器へ投げ入れた。狙いが外れて、向こうの床にビタンと落ちるタオルに溜息をついて歩き出す。訝しげに周一郎が振り返った気配がした。
「だから、さ、その『理由』がわからん」
「……」
タオルを拾い上げる。振り返ると、慌てて顔を元のように背ける周一郎の姿があった。
「お前が予告状を出したのかも知れん、てとこまでは、俺にもわかったんだ」
他に誰が条件に当てはまるだろう。周一郎自身だとすれば、宛名のない封筒が届いたわけも、あれほど都合よく木暮の手紙と絡んだわけもわかる。
だが。
「けどな、そっから先がどうにもわからん。なぜ、お前が自分の暗殺予告なんぞ、出さなきゃならん? 自殺する気じゃないだろうし、暗殺予告は、お前にとっちゃ不利にしかならなかったはずだろ?」
お由宇風に考えれば、あの予告があったせいで、周一郎には警察や高野が付き纏ったはずだし、それは周一郎の枷にこそなれ、救いにはなっていなかったはずだ。予告のせいで、木暮や小木田の狙いがはっきりせずに混乱し、周一郎はますます四面楚歌、孤立する羽目になったんじゃなかったのか。仮にも朝倉周一郎、といつか周一郎は言っている。その『朝倉周一郎』が、どうしてこんな、混乱の輪に混乱を注ぎ込むようなことをしたのか、それが俺にはわからない。
「……てくれたでしょう…?」
「は?」
「…あなたが居てくれたじゃないか!」
ぼそりとした呟きを聞き逃した俺に、ぐっ、と詰まり、次の瞬間、周一郎は唸るように苛立たしげな声を上げた。
(俺が……居た?)
「ちょ、ちょっと待てよ、周一郎」
俺は、瞬間、ぐっちゃ、と潰れた脳味噌の再建に奮闘努力しながら続けた。
「なんで、そこに俺が出てくんだ? 俺はこの際関係ないよーな気が」
「…あなたは……予告状があったから……居てくれたんじゃ……ないんですか………?」
沈んだ掠れた声が問いかける。
「だから僕は………高野が……動くのも…計算、して…」
「………お前、バカか?」
呆気に取られて思わず続ける。
「そんなことをしなくても、俺は居ただろーが」
ぴくんと体を震わせ、周一郎は肩越しに責めるような視線を投げてきた。
「お前には散々世話になってんだし、そんな手間暇かけなくても」
一体何を考えて。
「俺に用があるなら、そう言ってくれれば『居た』ぞ?」
周一郎の唇が不服そうに曲がった。
「…でも……行ってしまうじゃ…ないですか」
「何?」
「行くんでしょう? …卒業式………終わったら…」
「浅田のところか? ま、そりゃ…」
「だから………」
ゆっくりこちらに向き直った周一郎は、煙るような瞳で俺を見つめている。唐突にお由宇のことばが頭に閃いた。10日間の我儘。10日間……俺が、浅田の所へ行くまでの。
「…お前、なあ…………」
胸の奥から深く長い溜息が出た。……ったく、何を考えてやがんだ、こいつは。
「俺が浅田の所へ行ったら、電話一本……あ、ひょっとすると電話はないかもしれんが……手紙一本、寄越さない気だったのか?」
「……」
ふっ、と長い睫毛に囲まれた瞳が、ほんの僅か、見開かれた。
「じゃあな、で『全部』終わっちまうと思ってたのか? それぐらいの付き合いのつもりだったのか?」
うっすらと瞳が光を帯びた。唇を噛む、その仕草がなおも小さな子どものようだ。
「…ったく」
もう一度溜息をつく。
「俺の性格、読み損なってるぞ」
4年も一緒にいて、まだわかってないのかよ、周一郎。
口に出さなかった台詞は十分相手に届いたらしい。何か応えようとしてふわりと開かれた唇が、急いで引き締められる。続いて、
「……ていって…下さい…」
「ん?」
「出て……行って下さい」
濡れた声が呟き、くるりと周一郎は背中を向けた。のろのろと布団を被り、潜り込む。
「おい…」
「出て…行けってば!!」
「にゃっ…」
ルトさえ、主人の突然の叫びにおろおろしたように俺を見上げる。
「…周一郎」
「……」
反応はない。溜息を重ねて、俺はルトに手を伸ばした。気がかりそうに周一郎を振り返り振り返りしながら、ルトは俺の腕に爪を立ててよじ登り、肩に乗った。
「あちっ…いい加減に、もうちょっと大人しい登り方を考えろよ、俺はハシゴじゃないんだぞ」
「にゃい」
「…と言っても、ムダだったな。お前、前世は火消しか何かだろ」
俺とルトの漫才にも、周一郎は背を向けて、潜り込んだままだ。
「周一郎?」
返答なし。
「…近くにいるから。苦しかったら、ルトに知らせろよ、すぐ来てやるから」
身動きもなし。
もう一度溜息をついて、俺はルトを乗せたまま部屋を出た。ドアを閉め、聞けないように、とは言え、ルトが居るんじゃ同じことだが、ひそひそぼやく。
「ったく、あいつは肝心なところでことばが足りないよな……ん?」
チョイチョイ、とルトに突かれて、俺はぼやきをやめた。
「何だルト、何を……」
言いかけて声を呑む。
真夜中を知らせる時鐘が鳴っていた。……8…9…10…11…12…。鳴り終えて静寂に戻るはずの部屋の中に、別の音が響いている。
それは、初めて聞く、夜に紛れ込むほど低く弱々しい、周一郎の嗚咽だった。




