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「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は分散していく脳味噌を、慌てて掻き集めた。
「でも、お前、『あの時』、死んでたろ?!」
考えてみれば、これほど妙な反論もないだろう。死んでたなら、こうして話なぞ出来やしないのだ。
「中国拳法の一派に、『去身遊魂』と言う技があるわ」
お由宇が淡々と言った。
「字の如く、自分の体を意図して一時的に仮死状態に出来るのよ。きっかけを予め暗示しておけばね」
「あの時の『きっかけ』は、『外部への連絡』だった。舌と頬を噛むと同時に、事実、私は眼前の暗黒感を覚えて倒れた。呼吸は1分間に数回、脈拍は10~20に落とせる………尤も、あまり長く続けられないのが欠点だが、あの時は、君が早めに『私の死』を納得してくれた。手首で脈を確かめてくれたのも幸いしたよ。手首の拍動は容易く消せるんだ、腋窩の太い動脈の圧迫という簡単なことで。加えて、周一郎の猫、ルトは一刻も早く、君を現場から遠ざけようとした……これも私に取っては幸運だった」
木暮は、俺が背中を向けたあたりで意識を取り戻していた。気配を消して起き上がり、隠していた文鎮で一撃、俺は振り返る間もなく昏倒する。調理場から人が駆けつけてくるまでは、それほどの時間はない。窓を開け放つ。部屋に指紋が残る分は気にしなくていい。なぜなら、確かに木暮と俺の2人が、その部屋に入ったのだから。窓の外には誰もいない。そりゃそうだろう、屋敷は今、木暮の殺人騒ぎでごった返し、外に出てくる酔狂な者はいないはずだ。窓を乗り越える、ふと、倒れている俺を振り返る。俺の側にはルトが居た。心配そうに声を上げ、倒れた俺を目覚めさせようと頬に頭を擦り付けていた小猫は、木暮の視線に気づいたように目を上げた。金の虹彩が炎を吐く。悔しいだろう、と木暮はその瞳に嘲笑を浴びせた。お前はそこから離れられまい、滝の生死がわからないのだから。それは同時に、金眼の向こうにある、一層冴えて冷ややかな氷の瞳に向けられたものでもあった。悔しいはずだ、お前はどちらかを選ばなくてはならない、自分が堕ちるか、滝を見捨てるか。どちらを選んでも、残るのは後悔のみ、闇で引き裂かれて血の海に沈むがいい、慈の味わった苦しみの数千分の一でも味わうがいい。
「……」
木暮の声は呪詛を含まなかった。含まずに静かに抑えた声で気持ちを話す、その冷静さにぞっとした。慈が何に怯えたのか、躰を木暮にすり寄せる。慈に回した腕に力を込め、木暮は続けた。
「私は、事件と、滝君の過去についての周一郎の負い目の二方向から、『完璧に』周一郎を封じたつもりだった……だが、それも甘過ぎたということがわかったよ。『氷の貴公子』を仕留めるには、直接のしかかって喉首にとどめを刺さないと駄目なようだね。………正直なところ、周一郎がああいう動き方をするとは思わなかった……あれじゃ、僅かな成功以外は全て破滅しか選べない」
慈が取り乱さなかったはずだな、と俺は思った。木暮は生きていたのだから。自分のことを俺が知っていると確信していたような口ぶりも、おそらく木暮から様子を聞いていたのだろう。そこで慈は、どう転んでも俺が周一郎を見捨てそうにないと知り、わざわざ俺をあの部屋に連れていく、なんて駄目押しまでしたわけだ。
「…以上だ。もう、私には何も言う事がない。……厚木警部、私はどうなるんだ?」
「………そうですな」
「慈は関係ない、と今更言うわけにもいかんだろうが、出来る限りの配慮を期待したい」
「宗……」
慈がわずかに眉をひそめ、泣きそうな表情になったのを、木暮の胸に顔を押し付けて隠した。厚木警部はなぜか重苦しい面持ちで2人を見ていたが、やがてのろのろとポケットを叩き、内ポケットから見つけ出したハイライトを咥えた。火を点けずにしばらく唇の間で転がし、やがてそのまま、口から取って灰皿に押し潰す。
「それが……ですな」
厚木警部は歯切れの悪い口調で呟いた。お由宇がふふ、とどこか苦笑じみた笑みを漏らす。
「?」
「今更ながら、と言うのはこちらの台詞で……上から圧力がかかった、と申し上げておきます」
「!」
はっとしたように、木暮はお由宇を見た。
「……そうなのよ、九龍。今更ながら、周一郎、いえ、朝倉財閥が動いた、と言うわけ。圧力というわけでもないのだけど、周一郎が狙撃されたでしょ? あの時、既に警察が介入していたにも関わらず、なぜそういう事態が起こったのか、いや起こってはならない、起こっているはずがない、と上層部が騒いで一方的に処理しようとしたのを、周一郎が制したというわけ。弱みは五分五分、狙撃を嘘偽りとするなら、朝倉財閥に関する一切の出来事も記憶にあるわけがない……という理論」
「…くくっ」
木暮は低く、喉の奥で詰まったような笑い声を立てた。皮肉めいた、そのくせどこか畏怖しているような、なんとも表現し難い表情に歪めた顔に、眼だけきらめかせて、
「朝倉大悟はとんでもない男を育てたわけだ……今に、」
笑いやみ、お由宇、そして俺を見る。
「今に、世界が周一郎に従う事になるんだろう? …まさに、人間じゃないよ、『あいつ』は」
吐き捨てるような声が露骨に嫌悪を浮かび上がらせる。それから木暮はためらう事なく席を立った。慈を従え、俺を見下ろす。
「君もあまり、『あいつ』の側に居ないことだな。人間らしさというものを失う羽目になるぞ」
言うや否や、木暮は背を向け、部屋を出て行った。
「…………昔から冷たくなりきれない男だったけど、ますます甘くなったわね、九龍も」
2人が去ったドアが閉まるのを見届けて、お由宇が吐いた。
「あれじゃあ、あまり長くないわね」
「…まあ、とにかく、事件は再び私の手の届かんところへ消えたわけだ……『迷宮入り』のまま、な」
厚木警部のにがりきった声が響いた。
「でも、本当にまだわかってないことがあるぞ?」
さっきから気になっていた疑問を、俺はつい口に出した。
「木暮はない、利和でもない、じゃあ、一体誰が、周一郎の暗殺予告状を出したんだ?」
「…さあ」
お由宇はゆったりとソファの背にもたれて、少し唇の両端を上げた。
「周一郎なら、知ってるんじゃない?」
「あいつが?」
知っている? 知っててどうして何もしないんだ? そりゃ、忙しかったのはわかる、わかるが、このまま行くと周一郎は殺されちまうってのに?
俺の考えを読み取ったのか、お由宇は目を細め、もう少し唇の端を上げた。にっこり、ではない、どこか妖しい、にんまり、と言う笑い方だ。
「九龍は周一郎のことを人間じゃないと言ったけど、どうしてどうして、かなり甘くなったわよ、『氷の貴公子』もね。昔に比べれば、ずっと『人間的』だわ……良い意味でも悪い意味でも」
「どう言うことだ?」
「予告状はいつから来始めたの?」
「えー…っと、2月の…18日…?」
「あなたが出て行くって宣言した後、ね」
「うん?」
「予告日は?」
「2月28日」
「卒業式は? 卒業後だったわよね、浅田さんの所へ行くの」
「ああ、3月の1日……そんなこと、お前だってよく知って…」
「僅か10日間の我儘」
俺のことばを遮って、お由宇は呟き、ちょい、とウィンクをして寄越した。
「それがこんな騒ぎになって……落ち込んだのは周一郎の方でしょうね」
「へ? え? え??」
依然、訳のわからぬ俺に、お由宇は楽しそうにくすくす笑い続けた。




