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「階段の真ん中で、何をぐだぐだやってるの?」
「何をって…」
少し足を早めて、残りの階段を降りる。
「悪かったな、遅くて………慈は?」
「もうスタンバイしているわ、自分の役割にね。……来たのね」
背中の周一郎に声をかける。
「見届ける義務がある……そうでしょう?」
笑みを含んだ声が応じた。
「だから志郎の背中に、ってわけ? よく計算したこと」
「僕は朝倉周一郎ですからね」
気のせいか、俺だけがわかっていないような会話だが?
「一体、何の話をしてるんだ?」
思わず突っ込むと、
「あなたはわからなくっていいのよ、そうでしょ、周一郎?」
「ええ、そうですね」
「…おい」
ったく、とことん、人を除け者にする気なんだな、2人して。
「いじけないでね、志郎。あなたのためでもあるんだから」
「俺のためだろうとなんだろうといじけるわい。一体何が始まるんだ?」
「もうすぐわかるわ」
お由宇は、にやりと不敵な謎めいた微笑を泛かべた。少し待つうちに、厚木警部と高野が姿を見せ、それを合図にお由宇はついとドアの近くに歩み寄り、そこで振り返った。片手をドアノブにかけ、艶然と唇を笑ませる。
「皆様、今宵は私のような拙い魔術師のためにわざわざお集まり頂き、誠にありがとうございました。昨夜、私は皆様にお約束いたしました。謎を解き、登場人物の行く末を明らかにし、加えて魔術をお見せしましょう、と」
さらりとセミロングの髪を払う。千両役者の持つ大輪の華を思わせる、堂に入った仕草だった。
「そのお約束、たった今、この場で果たしてご覧に入れましょう。舞台はこのドアの向こう…」
白い手がノブを回し、静かにドアを開いていく。溶けきらぬ雪を被った針葉樹の上に真冬の月、皓々とあたりを照らす氷の月光、玄関の前に開けられた車寄せの空間が絶好の舞台を提供する。その光景の右端に、舞台装置の一つと化したかのようなお由宇の姿がある。朱の唇が口上の続きを紡ぐ。
「そして、開幕の合図は」
「きゃああああーっ!!」
「っっ」
突然、お由宇のことばを遮って悲鳴が響き渡り、俺も厚木警部も息を呑んだ。高野も何事かと思ったのだろう、声の聞こえてきた舞台、いや、正面の針葉樹の奥を透かし見る。が、その悲鳴は、その場に居た2人の人間、少なくともお由宇にとっては、予期せぬこと、ではなかったらしい。慌てず騒がず、お由宇は平然とことばを継ぐ。
「…少年の悲鳴」
「慈?!」
ほとんど同時に、針葉樹の中から転がるように走り出てきた人影に思わず口走った。
月光に乱れる銀の髪、泣き出しそうな表情で、後ろを振り返り振り返り走る姿は、服をあちこち引き裂かれ、手足に無数の擦り傷、後を追ってくるのが下卑た笑いを浮かべた数人の男とくれば、いくら鈍感な俺でも、襲われかけている、ぐらいは見当がつく。切れ切れの悲鳴は痛ましく掠れ、こちらへ差し伸べられた手が助けを求めているのがありありとわかる。咄嗟に走り出そうとした俺は、ぎゅっと周一郎にしがみつかれて首を絞められ、思わず立ち止まった。
「っ、周一郎っ?」
「だめ…ですよ、滝さん…」
どこか苦しげな声が制する。
「え? だめ? だめって、いや、そいつは」
「いや…あああああーっ!!」
尋ねる間にも慈の悲鳴は続いた。男の一人に捕まり、押し倒される。次々に飛び掛かる男が、慈の手首を、脚を捉えて捻り上げ、あるいは地面に押し付ける。恐怖に歪んだ慈の顔は左右に振り続けられ、のたうち踠く躰が何とか男達を振り払おうとする。
「おいっ、…周一郎っ!」
踏み出そうとした矢先、またもやきつく抱きつかれ、俺はかっとした。
「何やってるんだよ! 早く助けないと、あいつが!!」
「だ…めなんです…まだ…」
「まだ?! まだって、何を待ってるんだ?! 見捨てろっていうのか? それでなくても慈は酷い目に合ってるってのに、それをほじくり返そうってのか?!」
叫んでしまってから、俺はぎくりとした。そうだ。周一郎は知っている、と言った。脚本は自分だ、と。はっとしてお由宇を見る。お由宇も動いていない。厳しい表情で慈が襲われているのを見ている。厚木警部も動いていない。何かに取り憑かれでもしたように、忙しく頭を働かせているかのように、どこああらぬ方向を見ている。ふと、俺の頭の中を、一つの影が過った。まさか。そんな…ことが、あり得るのか……?
「あっ…あうっ…ひっ…く…」
慈は泣きじゃくって身踠いている。すでに上半身脱がされて、脚を掴まれのしかかられ、怯えた眼が虚しく宙を探り、ふいに最後の一声とばかりに、切なげに激しく助けを請うた。
「い…いや…ぁああああ…っ……そう…っ……宗ーっ…!」
「周一郎!」
意図はわかった、がもし万が一、そうじゃなかったらどうするんだ。慈が壊れてしまうじゃないか。そんな賭けは許されないだろう。抗議しようとした俺に、いきなりぐったりとした周一郎が、耳元で微かに呟いた。
「…じゃあ……僕を…放って……行けば……い…い……」
ことりと肩に周一郎の首が落ちてきてぎょっとした。いつの間にかはあはあと息を荒げ、熱を帯びた体からは力が抜けてしまっている。
「周一郎?!」
狼狽えて揺すり上げた俺に、周一郎は体を強張らせた。
「あ…つっ…ううっ」
「おい!」
肩越しに様子を見ようと首を捻じ曲げた脳裏に、脈絡もなく一つの像が結んだ。机の上の銀の殻。どこかで見たことがあると思っていたが、あれ、鎮痛剤の包装じゃないか。痛みに耐えられない時に1錠ずつ、そう言われて渡された錠剤の殻は、一体あそこに幾つあった? おぶった時も階段を降りた時も、ほとんど痛みを訴えなかった周一郎、『痛まなかった』んじゃなくて、薬で痛みを『抑えてた』のか?
「そ…う…っ……う」
声にもならない声で喘ぎ続ける慈、背中で半分気を失ってしまっているらしい周一郎、ええいくそっ! どうすりゃいいっ!! 必死にあたりを見回す。
「厚木警部っ!!」
ようやく気づいて力の限り喚いた。
「何ボケてんだっ! 日本警察は暴行されかけてんのが男なら放っとくのかよっ!!」
「え…あ…」
ようやく我に返ったのか、あやふたと外へ向かおうとする厚木警部を、むかつくほど落ち着いたお由宇の声が遮った。
「その必要はないわ。…志郎」
白い指を伸ばして指し示す。
「佐野由宇子の中国魔術、『還魂の術』はこれにて終了」
示されて視線を向ける俺の目に、暗闇の中から一陣の風のように走り出てきた影が、怪鳥のような叫びを上げて慈を襲っている男達に飛び掛かるのが映った。勝負は一瞬、数発の突きと蹴りが生んだ鈍い音が続き、あっという間に男達を地面に叩き落とす。その後、対照的なまでに柔らかく、恐る恐るためらいがちに優しい動作で、影は慈を抱き起こした。のろのろと顔を上げた慈が相手を認め、溶けるような甘い泣き声をあげて両腕を相手の首に巻き付け、絡み付かせてしがみつく。
「あ……ああ…っ」
「大丈夫だ……ひとりにして、悪かった…」
低い男の声が宥めるように響いて、影はそっと慈を抱き上げ、くるりとこちらを振り返った。黒ずくめの細身の体が怒りに震えて、お由宇を、厚木警部を、続いて俺を、と言うより俺の背中に居る周一郎を、睨みつける。
「…ここまで手を打ってくるとはね。完敗だよ、周一郎君。……だが」
猛々しい炎にぎらぎらと瞳を燃え上がらせ、腕の中の慈を抱きしめ、その男、死んだはずの木暮宗は吐き捨てた。
「あなたは人間じゃない。目的のためなら何でもする、人の心なぞ持っていない魔性の『化け物』だ!」




