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利和は、初めは事故を仕組んだ。周一郎が乗るはずの車に細工し、事故死の噂を胸躍らせて待った。が、身代わりになったのは英だった。
別荘へ出たのを追ってきて毒殺も謀った。もう一歩のところでやり損ねた。
時間がなかった。当主が周一郎から慈になってしまっては、金の手がかりがなくなってしまう。最後通告を出し、相応の金を支払えと伝えた。要求は無視された、ばかりか、密かに朝倉家から放たれた刺客が周囲に出没するに至って、利和の緊張も限度に来ていた。最後の手段として、用意していた改造モデルガンを手に、周一郎に隙が出来るのを狙い続け……時は来た。夜を裂く一発の銃声、場の騒ぎに紛れて逃げる利和を、ルトが追っていた。
「利和は気づいてもいなかったようでした。我々が彼の安アパートに踏み込んだ時も、きょとんとした顔でこちらを見ていましたよ、使ったばかりのモデルガンを放り出したままね。捕まるとは思っていなかった、それどころか、どうしてこんなに早く自分の居場所を突き止められたんだ、と繰り返していました。我々にも応えようがない。黙って連行しようとした矢先、いきなり利和はけたたましく嗤い出しました……ルトがいたんです、そこに」
爆笑と言って良かった。部屋を一歩出たところで、利和は、人が歩くと軋み音を立てるボロアパートの床には不似合いな、宝石にも似た銀青色に毛並みを輝かせる猫を見て取った。突然嗤い出して体を折り、息が続けられずに柱と刑事に寄りかかり、なおも堪えきれずに嗤い続けた。だんだん嗄れていく嗤い声の中から、絞り出すようにことばを放つ。
「そうか……そうだったのか……ああそうだろうともよ」
「何?」
「あ、あんたらも結局、そいつの下っ端なのか。道理で、手際がいいはずだよ」
「どう言う意味だ!」
「ひっ…ひひっ……つまり、猫野郎に操られてたってことだよ……え…ざまあねえな、日本の国家警察とやらも!!」
「………」
沈黙の間、厚木警部は咥えたハイライトを、いかにも不味そうに吸った。やがて苦々しい声で、
「考えてみれば、あなたは『秘密』を知られることは、そうたいして恐れていないはずだ。朝倉財閥は警察権力への影響力も大きい。なのに、小木田捜索に関しては、なぜ圧力が掛からなかったのか。答えは簡単だ。あなたに取っては、警察よりも小木田利和の方が邪魔だったんです。警察がどれほど本格的に動こうと、朝倉財閥を動かせば追及は抑えられる。仮に私のように物好きな男が、あなたの『秘密』に食い込めたにせよ、どうやって立証するか……今回のようなことがない限り、一笑に付されるのがオチ、でしょうな。そう言う意味では、私より小木田のような小悪党の情報網の方が怖い。事実か事実でないか、奴らが気にするのはそんなことじゃないからです。金になるかならないか、金の為なら嘘でもでっち上げでも脅しに使うのが常道、一人二人は始末できても無数に飛び込んでくる小物の処理は、時間と手間ばかり食って益がない。が、今回の一件で、あなたはそちらも見事に抑えたわけですよ。利和と同じ情報を持っていた奴らがいても、今後あなたへの接近は考えるでしょう。朝倉財閥を敵に回し、しかも警察もあなたの支配下にあるとすれば、歯向かって多少の金を得るよりは、今後の保身を考えた方が得策だと。………今回の私のようにまんまと利用されたにせよ、あそこにいたルトの存在は大きい。あれで、利和は警察にも朝倉支配が及んでいると確信したんですから」
ふうっと煙を吐き、厚木警部はハイライトの赤い火を見つめた。
「先ほど、利和が罪になるかならないかわからない、と言いましたが………現在、彼は心神喪失状態と判断されています。正気を失った男が、家族を奪われたと言う妄想に基づいて人を襲ったと……そして、ここでも、朝倉周一郎は被害者のまま事件が終わる、と言うわけだ」
最後の方は独り言のように低い声だった。握り潰したハイライトの火で赤く火傷した指先から、ゆっくりと視線を周一郎に移す。
「…見事、ですよ。小木田をあんな風に使うとはね……一か八かの賭けは、私の負けに終わったようですな」
「もう一つ、面白い話を聞かせましょう、厚木警部」
周一郎が形の良い唇を動かし、薄い笑みを刷いた。この世ならぬ魔性の発露とも見える、妖しい微笑だった。
「世の中にはいろんな脅迫の方法がある。利和が心神喪失状態になっていた理由を知りたくはありませんか? とりわけ、ルトに過敏に反応したわけを?」
「…まさか」
厚木警部の顔が呆けた。
「人間は視界に入ったものは、無意識に心に刷り込んでいくそうです。不自然なものだと余計にはっきりと、その不快感も一緒にね。利和の周囲を、青灰色の奇妙な猫がうろついていたという情報は、まだご存知じゃありませんか?」
厚木警部だけではない、俺も愕然として周一郎を見た。
「もっとも、そちらはルトの『判断』に任せていたので、いつ狙われるかわからないと言う危険性はあったんですが、『僕』が知っているわけにはいかなかったのは、お分かりですよね」
「……完敗ですよ、朝倉さん」
厚木警部はポツリと応じた。ふと唐突に、周一郎が俺を振り向く。サングラスの奥の目が甘えるように、にこ、と笑いかける。俺が、周一郎のやったことにショックを受けているのに気づいていないはずがない。けれども、それはひどく無防備な微笑だった。俺がほんの少しでも眉を顰めたり視線を逸らせたりすれば、それだけでざっくりと、心の奥底まで傷つけてしまいそうな脆さがあった。いいよ、と囁かれた気がした。いいよ、あなたがどんな顔をしようと、僕はそのまま受け入れるから。
それは同じ優しさだった。多木路朗の写真を残していた、あの優しさと同じ色合いを持った想いだった。
「…もう一つ、いや二つ、わからないことがある」
厚木警部の困惑した声が聞こえて、俺は我に返った。
「全ての背景をあなたが知っていると言うなら、教えて欲しい」
「何をです?」
「一つは滝君のことだ。彼じゃなければ、一体誰が木暮を殺したんです?」
「…」
「もう一つ。小木田利和は、暗殺予告なぞ知らない、と言っていた」
「は?」
思わず俺は抜けた声を上げてしまった。
「し、知らない?」
「そうです」
厚木警部は再び狩人の眼に戻っていた。
「『九龍』を名乗っていた木暮が死んでも暗殺予告が来ている。小木田もそんなものは出していないと言っている。多少ネジが外れているかもしれないが、それは信じて良いように思える」
……ってことは、一体どうなるんだ? 誰が、周一郎の暗殺予告なぞ、出してるんだ?
現にこの間も来ていたし、予定日の2月28日は刻一刻と近づいてきているってのに?
「……もうすぐ…わかります」
周一郎が掠れた声で答えた。
「少なくとも一つは、今夜にでも」
「今夜?」
厚木警部と俺、高野が同時に首を捻った。
今夜と言えば、例の、お由宇の中国魔術とやらの披露の日時だが……?
「どう言うことだ、周一郎?」
「…」
俺の問いに周一郎は微笑むだけだ。
助手を務めると指名された慈だけが、ひどく猛々しい目で周一郎を見つめていた。




