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「屈折した人間ね…」
浅田の声に我に返る。
「こっちも今、そう言う人間の最期に出くわしてきたとこなンですが」
「え?」
「京都へ行って来たンです。京都の洛外、北西の方にある『扇屋』って旅館、知ってますか?」
「いや…」
俺は本降りになってきた雪の風景を背にした浅田を見上げた。
「そう言う旅館があってね、そこで浜津良次が自殺、したンです」
「えっ…」
二の句が告げない俺の頭の中に、納谷教授の所で出会ったきりの浜津の姿が浮かび上がった。
「どうして…」
「遺書らしいものは一つもありません。ただ、旅館の女将の話から察するに、浜津は死ぬつもりで京都に行ったらしくって、来た時から様子がおかしかったそうですよ。……ちょうど、こんな雪の降る底冷えの日だった、と女将は言ってましたが……いつまで経っても起きて来た気配がない、もしやと思って部屋を訪ねると、鴨居に紐をかけて首を吊っていた。足元に『虚偽』の原稿があったっきり、部屋の中はきれいなもンだったそうです」
浅田は持ち上げたソーサーからカップを取り上げ、ゆっくりと中身を飲んだ。銀縁眼鏡の奥の眼が少し細くなる。
「死んじまったら、何にもならンでしょうに……馬鹿な奴ですよ」
「『虚偽』は中西の作品だったんだろ? どうして浜津の名で出たんだ?」
「……あれ、ね。………あればかりじゃない、中西俊の作品、本当は全部、浜津のだったンです」
「!」
俺の驚きを当然のように受け止めて、浅田は低い声で続けた。
「こっちだって、ただ漫然と編集者やってるわけじゃない。作者に何度か会ってるうちに、作品がそいつのものか、違う奴のものかぐらい、分かりますよ。特に中西と浜津じゃ、生き様…ってンですかね、人生を見る姿勢が全然違う。初めは、作品と本人は別物なンだな、なンて思ってたが、そのうちに、中西の阿呆が浜津に作品を届けさせ始めた。こうなっちゃ、いけない。話をすりゃ、わかって来ますよ、作品と浜津の重なり方が。……で、ある日、言ってやったンです。中西のなンて、嘘をつくんじゃない、これはお宅のじゃないかってね」
「…」
「驚きましたよ、浜津は。でもその瞬間、ぱっ、と嬉しそうな顔になったの、見逃さなかった。何のかんの言いながら、こいつは認められたがってる。そう確信して、勧めたんです、中西を捨てろって。自分の作品を出してくれって。だが、浜津は渋ってた。で、次の作品を、本人の了承なしに本名で出させたンだ」
「それが…『虚偽』…」
「……結果が……このザマだ」
浅田の、どこか他人はお構いなしと言いたげな瞳が曇った。こく、と少し喉を鳴らして、飲んだコーヒーが毒入りだったと言われたように、疑うような視線を向ける。
「わからないでもないですよ、友人を裏切れってンですから。けれど、その友人ってのは、今まで散々、自分を利用して来た奴じゃないですか。中西は浜津に何の見返りも流していない。浜津は中西にとって、文句一つ言わない従順な飼い犬だったンだ。そんな奴のために、なぜ浜津は死んだンですか。浜津の死ぬ、どンな理由があったンですか」
浜津に対しても、あるいはそこまで追い込んだ自分に対しても、怒っているような口振りだった。
「………色…」
「え?」
「あ…いや、今何となく、前に浜津が言ったことを思い出したんだ」
訝るような浅田の視線に、ことばを続けた。
「中西俊は、自分にとっては『唯一の色』だ、と言ったことがあるんだ、あいつは」
常日頃、滅多に自分の感情を見せない男が、その時ばかりは、激しく切なくなるほどの憧憬を泛べてそう言った。
「……じゃあ…まさか………浜津………」
「うん?」
「……滝さん、『虚偽』の内容、知ってンですか?」
「いや、知らんよ」
「『虚偽』ってのはね」
浅田はふいに生気のなくなった顔に、弱々しい笑みを広げながら言った。
「新進小説家とゴーストライターの話、なンですよ」
「っ」
「ある新進小説家が居て、片っ端から賞を受ける。けど、よくある話で、実はそれを書いていたのは友人だった。二人はある日、こんな生活がいつまでも続くわけがない、と揉めるンです。で、結局、ゴーストライターが小説家を殺しちまう。……それから、ゴーストライターはどうしたと思います?」
俺は黙って首を振った。行き着く先が見えたからこそ、その哀しさを認めたくなかった。
「自殺するンです……『生きがい』を失って、ね」
浅田の声は、どこか茫洋と、妙に現実味を失って聞こえた。
「『その』ゴーストライターは、遺書を残していてね、こう告白するンです。『彼、綾西瞬は、僕の人生の中での華だった。僕のつまらない、灰色の人生の中で輝く、唯一の色彩だった。僕は芸術の名において、彼を失うより己の人生を終わらせることを選ぶ』」
浅田はゆっくりと、危なっかしい足取りでソファに戻ってきた。疲れたように腰を下ろす。深々と身を沈めて吐息をつく。
「そう…だったのか…」
低い声が吐いた。
「浜津は、あれで満足…していたのか…」
ふいと、銀縁眼鏡の大人の顔に、多木路夫妻に拾われた時の2歳の浅田の顔を見取って、俺は無意識に尋ねていた。
「浅田」
「はい…」
ぼんやりとした声が返ってくる。
「もし、俺が多木路家に戻ったら、あんたはどうなる?」
一瞬ぎくりと躰をを強張らせた浅田は、探るように俺を見つめ、やがて乾いた笑い声を立てた。
「どうなるって……別にどうもなりゃしませンよ。僕の方が一つ下になるのかな……つまり、お宅には義理の弟が出来て、僕には義理の兄貴ができる、それだけのことです」
「……」
それだけの、ことだろうか。
「それにね……どう転んだって、僕じゃ、あの人達の息子にはなりきれない。………あの人達の子どもは、最初っから、お宅、なンだから」
浅田はにやりと笑って、軽く片目をつぶって見せた。




