3
目は口ほどに物を言い、か。
昔の人はよく言った、としみじみ感心しながら街中を歩く。浅田と待ち合わせているのがこの先にある喫茶店『ペリカンロード』で、時間は少々早かったが、周一郎にあそこまで冷たくあしらわれていると、のんびりしている気にもならず、早々に出てきてしまった。
「…ったく、俺が何をしたってんだ」
ぼやく脳裏に、こちらへ向けた周一郎の眼が突き刺さってくる。サングラスの向こうからでも、俺を貫き通してくる乾いた視線。確かに今まで色々と、自分のドジのせいで散々冷たい眼を向けられたことはあるが、あそこまで醒めた視線は初めてだ。まるで、俺を憎んででもいるような熱さを含んだ、なのにとことん冷ややかな…。
(いや…違う)
あれは憎しみじゃない。何か、もっと別なことに対して怒っている眼だ。
「う~~~~む」
立ち止まって唸る。ひょっとしたら、俺はまた、気づかないところで何か『へま』をやっているんだろうか。それが『たまたま』周一郎がどうしても譲れないところで、俺のドジが何か大きな問題になっている……とか。
「待てよ」
最近どんなドジをやったっけ。
ここ1週間だけを考えてみよう。まず1週間前には応接間のカーテンに引っかかって破いている。その後灰皿の中身をぶっちゃけているし、出て行く時にドアに引っ掻き傷を作ったよな。4日前には年代物の皿を5枚割っているし、3日前にばら撒いたのは瓶入りシナモンスティックで、慌てたせいでほとんど絨毯の上で踏み砕いた。昨日は『幸いにも』俺が階段を踏み損ねて数段転げ落ちただけだったが、あのとき何か壊しただろうか。ひょっとしたら、あのカーテンはどこからかの借り物だったとか、灰皿に重要文書の切れ端が残ってたとか、ばら撒いたシナモンスティックの中の1本に企業秘密のマイクロフィルムが…。
「ぷっ…くっ……くっくっ…」
「っ?!」
ふいにそばで吹き出す声が聞こえ、狼狽えて振り向いた。みればいつの間に居たのか、お由宇がセミロングの髪を揺らせて笑っている。
「お由宇……何してんだ、こんなとこで」
「何してんだ、はあなたの方でしょ」
お由宇はようやく笑いの発作を抑え込んで、悪戯っぽい目で俺を見た。
「一体どこで立ち止まってるの?」
「へ……わ…っ」
あたりを見回し、俺はそそくさと歩き出した。その俺を、店内、ガラス窓の向こうから女の子達が気持ち悪そうな顔をして見送っている。そりゃ無理はない。なにせ俺が立ち止まっていたのはランジェリー・ショップ、淡いピンクで透ける下着のマネキンの前だったのだ。
「人が悪いな、もっと早く教えてくれりゃいいのに」
「人が悪いも何もないでしょ」
俺の『いちゃもん』をさらりと躱して、
「声かけたわよ? なのに全然気づかないで、自分のドジを数え立てた挙句に、シナモンスティックにマイクロフィルム、でしょ? さすがに吹き出したってわけ」
「う…」
言い負かされて口を噤む。
「一体何を考えてたの?」
「いや…その…さ」
俺はもそもそと、買い物帰りらしいお由宇に歩調を合わせながら、独立宣言の後、妙に周一郎が冷たいこと、そういう扱いを受ける覚えがないこと、一応は塩対応の原因を考えてみようとしたことを話した。
「ふうん…」
お由宇は聴き終わると、奇妙な表情で俺を見ていたが、
「で?」
「で、って?」
「あなたはどうしてるわけ?」
「どうしてるって……理由がわからんのに、どうしようもないだろ。いつも通りにしてる」
「いつも通り、ね。……酷なこと」
「え?」
「周一郎にとって、酷な状況が加わった、って言ったの」
「…あ、あのな」
また始まったと思いながら尋ねる。
「どうして、いつも通り、が『酷』なんだよ? 大体どっちかと言うと俺の方が……え? 『加わった』?」
「そ」
お由宇は軽く頷いた。
「それを知らせようと思って声をかけたのよ」
急に厳しい目になった。
「叔父が動き出したわよ」
「は?」
叔父? お由宇の叔父って、あの。
「そう、『厚木警部』が、ね」
「厚木警部つっても……事件は起こってないぞ?」
「そうね。『まだ』起こっていないわね。けれど、今度事件が起こって、周一郎が関わっていたら、確実に絞り上げるわよ、周一郎を」
「周一郎?」
話が見えん。
「『テープ』を覚えてる?」
「テープ?」
「あの、ほら、石蕗家事件の…」
「あ、ああ……あの例の吉田弁護士の声の入ってなかった奴、か」
「生憎、吉田弁護士の声は入ってなかったけど、別の声が入ってたでしょ?」
「別の声って……俺と鈴音と周一郎と久…だろ?」
「そうよ。その鈴音の声」
「鈴音?」
歩行者側の信号が赤になり、お由宇は黙った。再び青になって周囲がざわめき、人々が行き交い出すと、ぽつりと、
「『猫の目で、物が見える少年の話』」
「っ」
ふいにお由宇の声に鈴音の声が重なって、ぞっとした。
「…鈴音はね、切れ者だったのよ、久よりもずっと。言ってたでしょ、朝倉周一郎を『知っている』って。ルトのことまで知っていて切り札にしない人間、それも自分の命が掛かっている場合にも使わない人間、はまずいないわね。『もし』鈴音が何かにまとめていたら、どうなるかしら。周一郎という人間のやり口を、ルトという存在を噛み合わせて考えていた、としたら…?」
「おい…」
珍しく、俺がお由宇の言わんとすることが飲み込めた。飲み込めて、ぎょっとした。周一郎は、決して『きれいな』人間ではない。それこそ叩く方法さえ見つかれば、いつでも叩きのめされる、影の世界の住人だ。
「その通り。『厚木警部』は確かに表向きの解決はあったけど、数年前の迷宮入りの事件を洗い始めた……朝倉家に絡んだ連続殺人事件を、ね」
立ち竦んだ俺を、お由宇はじっと見つめた。風の冷たさがようやく感じられた頃、にこりと笑ってことばを継ぐ。
「叔父は優秀な警察犬よ。せいぜい気をつけるように、周一郎に伝えてちょうだい」
「…お前は?」
「何?」
「お前は『どっち』なんだ? お由宇」
しばらくの沈黙の後、お由宇は風に舞う髪を押さえて問い返した。
「『あなたは』どっちなの、志郎」
「…」
「じゃ、ね」
答えられなかった俺に、お由宇はくるりと背を向けて去って行った。